第2話 どれだけ待ってみたところで…

文字数 2,220文字

 店員に案内されて個室の扉が開いたとき、あ、またやられた…と思わず舌打ちをした。それを、しっかり西江衛(にしえ・まもる)に見られてしまった。
「舌打ちするなよ」
「私はいつも同じ手に引っかかる。学習能力がない」
「学習したくないだけかもしれないよ?」
 軽く西江を睨みつけてから、早苗は空いている奥の席に座った。
「クラフトビールをふたつ」
 西江が勝手に注文して、それで早苗に異論はないのだが、溜め息交じりに壁に背中を持たせかけた。西江はテーブルに両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せ、にやにやと嬉しそうに笑っている。二人きりになるとは聞いていなかった。学部のゼミの仲間が集まるはずだった。そういうトラップに、いつも引っかけられてこういう事態になる。学習したくないわけではない。そういう方面に頭が働かない。今日みんなで集まるから、とメッセージを受け取ったら、了解と機械的に返してしまう。頭の中は、たとえば仕掛り中の実験のことや、書きかけの論文のことやらで精いっぱいで、そんなつまらない策略を勘繰る空きなどない。
「いちにち二日酔いが抜けなくて……」
「ああ、いつもの集まり?」
「そう。だけど、昨夜は凄かったな。夏馬、彩日香、諸岡――」
「諸岡くん来てるんだ?」
「もうすぐ日本選手権だから。――それでね、彩日香さんには内緒にしてたのよ。大和と諸岡くんで示し合わせて、サプライズにしたのね。そしたら彩日香さん泣いちゃって。諸岡くんが登場した途端、いきなり抱きついて、そのまま十五分。いや、もっとだったかなあ」
「俺はどうすればそんなふうに抱きついてもらえるのだろう……」
「彩日香さんが

を連れてきたのよ、二十歳の女の子。なかなか可愛い子よ。よかったら紹介してあげる。彼氏いないそうだから」
「今日も旨いもの御馳走になって帰るつもりかあ」
「西江くんこそ学習すべき。私の中のあなたの立ち位置が変わることはないってこと」
「俺が一方的に好きなだけって関係で、もう全然かまわないんだけどな」
「女は愛されていれば幸せだって?」
「そうそう」
 ビールが届き、西江が迷いなく料理を選び、グラスを合わせて落ち着いた。おそらく婚活サイトなどに登録すれば、西江衛のスコアはパーフェクトな六角形だか八角形だかを描くのだろう。それほどに、西江には破綻がない。強いて「傷」を挙げるとすれば、なぜか私みたいな女を好きになったこと――もう二年もの間、彼はこうして早苗を諦めずにいる。どうやら本当にそうらしいことを、去年の暮れ、池内夏馬に依頼して、早苗は裏付けを得ていた。そのために十万円を支払った。それだけの価値はあったと思う。表面的なやり取りは変わっていないものの、早苗は以前より西江を大切に扱うようになった。まあ、最初の舌打ちはご愛敬だ。
「少しは仕事してるの?」
「いいや。相変わらず普通に休んでるし、終電を心配したこともない」
「いつまでそうしているつもり?」
「五年は必要かなあ。まだやっと一年で、ぜんぜん内情がつかめない。見た目だけ派手な部署なんかに引っ張られても困るしね。とりあえず見られるだけ見させてもらって、あとは経験してみないことには…てところまできたら、そろりと起業する」
「それがうまく運んだときにお互い独り身だったら、私、もらわれてあげてもいいかな」
「お、今日は一歩進んだぞ」
「で、何年待てばいいの?」
「十年くらいだね」
「長ッ!」
 リップサービス? いいえ、あなたを決して侮ってはいないという再表明。西江衛は勝ち目のない勝負はしない。その時が来るまで何年でも待てる人間。その時が来なければ諦められる人間。私たちはまだたった二十三年しか生きていないのだし、ふたりとも神様から素晴らしい贈り物を授かっているわけだから、それを知っている私があなたを軽んじることなんてあるはずがない。お互い上手に助け合っていきましょうよ。一緒になることが正解となれば、そのときは迷いません。あなたに抱かれても、私きっと嫌な気持ちはしないと思うわ。
 西江は一見つかみどころのない男に思われがちだが、中身は誠実な人間だ。池内夏馬からもそういう評価を聞いた。
 ――どれだけ待ってみたところで、早苗の人生にこれ以上の出物が現れるとは思えないけどなあ
 と、いつもの独特の調子で笑った。すべてを見てきた夏馬がすべての事情を承知した上で、あえてそう言っていることは早苗にもわかっている。よほど不運な、悲劇的な事故でも起こらない限り、そしてふたたびそれが安曇大和の上に降り掛かってこない限り、早苗は大和を取り戻すことはできないのだ。もちろんそんな万が一の際に、大和のそばにいるのが早苗だという保証だってまったくない。
 けれども、その可能性を高めておくことはできる。池内常葉が会いたがっているという話の内容が、もし早苗の期待するものであったとすれば、一気にまた大和のそばに近づける。十四歳までのふたりのように、用事もなく玄関の敷居を跨ぐことができる。ノックもなく部屋のドアを開けることができる。子供だから許された興味本位の悪戯のつづきを、あのときうっかり途切れさせてしまった躊躇いを、大人になった今なら乗り越えることができる。その可能性を少しでも拓くのであれば、私は迷うことなく池内常葉の提案を受け入れるだろう。受け入れずにはいられないはずなのだ。
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