第9話 松田早苗も嘘が下手

文字数 8,014文字

 それは考えすぎだといくら宥めても、機嫌を損ねた麻友は母親に叱られた女の子みたいにつぐんだ口を、なかなか開こうとしなかった。こんなことは珍しい。大和はそろそろ面倒臭くなってきている自分に気づき、とりあえず目の前のビールを一気に飲み干して、白州のハイボールを注文した。
「ちょっと、なんで白州? 今日はふたりで割り勘なんだから、角にして角に!」
「いやあ、麻友が景気の悪い顔してるからさあ――」
「文字通り景気づけってやつだよ、とか言ったらバールで後頭部殴るよ!」
「バールって……」
 あの先の曲がった鉄製の棒のことか?
「いまバールをイメージした?」
「した」
「じゃ、ちょっとここに描いてみて。私バールって知らないんだけど」
「知らないで言ったのか?」
「だって、こういうときに後頭部を殴るのって、たいてい〈バールのようなもの〉って言うじゃん」
「画像検索しろ。いっぱい出てくるから」
 今日も間にノートパソコンを開いているふたりは、そこで「バール」を検索した。ちなみにこの日は事前に麻友からカーネマンとトヴェルスキーの共著論文を見たいとリクエストがあり、"Prospect Theory"という1979年の有名な論文を用意してきたのだが、まだ開いていなかった。
「これは死ぬわ……。そもそもなんの道具?」
「ここが力点、ここが支点――」
「梃子にしてなんかするんだ。…て、たとえばなに?」
「自動販売機をこじ開けるとか」
「犯罪じゃん、それ」
「人の後頭部を殴るより量刑は軽いぜ」
 麻友はぱたんとノートパソコンを閉じ、大きな溜め息をついた。今日これで何度目の溜め息か、種別と大きさごとに数えておくべきだったと大和は悔やんだ。またちらっと麻友が見るので、いまの頭の中も読まれたかと考えたが、どうやら違ったらしい。麻友もビールを飲み干して、自分も白州のハイボールを注文してから、また大きな溜め息をついた。
 麻友の機嫌が悪いのは、今日も玲奈が来ていないことに対して、今日は本格的に落ち込んでいるせいだ。このところ続けて玲奈は欠席している。この日は早苗にも初めから来ないと言われていたものだから、大和とふたりきりになってしまい、酒席はなんとも辛気臭い雰囲気ではじまっていた。
「カーネマンはなに持って来た?」
「"Prospect Theory"」
「知ってる。西江くんの領分だね。おもしろいの?」
「カーネマンの議論は概ねおもしろい。が、救いがない」
「どんなふうに?」
「注意はできても避けることのできない人間の進化の悲喜劇を暴く。聞いた人間は、にんまり笑うか怒り狂うか、どっちかだ。…でさ、なんでカーネマン?」
「坂下と別れたから」
「やっぱりそうか……」
「あの男さ、女はバカで男があれこれ教えてやるものだって、そういう前時代的な世界観で生きてる古代生物だったのよ。それでね、こないだ行動経済学の話を始めてさ、それこそいま大和が言ったみたいに、逃れようのないことなんだよとか言って、ミュラー・リアー錯視なんて話を持ち出してきたわけ。よりにもよってこの私によ? メジャーで測ったあとでも錯視は消えない!とか得意げな顔で説明されて、もう唖然としたわよ。…ああ、白州ってやっぱり美味しいね。大和、エイひれ頼んで」
 玲奈は本当に麻友を避けているわけではない。どちらかと言えば、過去の振る舞いを思い返してみる限り、早苗のほうにちょっと含みを持っている。幼馴染みという立場にいる人間への、自分が関わらないたくさんの記憶を共有していることへの、ありふれた嫉妬心だろう。相手が麻友であれば、こうしてふたりで飲むことになったと聞いても、玲奈は平然としている。
 麻友の別れ話はいつものことだ。惚れっぽいのに評価が厳しい。それなら評価のあとに惚れればいいのだが、それとこれとは脳内のシステムが違う。カーネマン流に言えば、まずシステム1が惚れてしまい、それにシステム2が故障を入れる。錯視とは違い、麻友のシステム1はシステム2の論理的な反論を速やかに受け入れて、臆面もなくあっさりと前言を撤回するのだ。
 カーネマンによれば、システム1はどのような命題もまず真であるという前提で評価する。好きだと言われれば、麻友はたちまちにしてその理由を見つけ出す。明眸皓歯にして有智高才、おまけに錦衣玉食ときている。申し分ない。好かれるのは当然である。麻友は満足し、嬉しくなる。要するに、麻友は自分自身が好きなだけで、それを映してくれるのであれば、それこそ相手は誰だっていい。
 とは言え、桐谷麻友は一見して高嶺の花であり、そうそう矢鱈な人間は声をかけてこない。坂下という男も確かどこかの旧帝大を卒業し、財閥系の大手商社に勤めていたはずだ。なにが縁で知り合ったのか、気の毒な話である。おそらく散々にこき下ろされて、それこそトラウマになりかねないほどの傷を負い、自分がどうしてそこまで貶められなければならないのか、きっとその男にとっては生まれて初めての経験でもあり、いまでもよくわからずにいることだろう。
「あ、そうだ。彩日香さんから電話来た?」
「来たよ」
「いいのかな? あれで」
「いいんじゃね。西江がホンモノかどうか確かめられる絶好の機会だ」
「もとを糺せばぜんぶ大和のせいだってのに……」
「俺のせいじゃない。少なくとも俺だけのせいじゃない」
「それはわかってるけどさ、大和がいなければ…とは考えちゃうよね、やっぱり」
「それを言ったら、俺は俺の存在を、それこそ生まれてきたところから否定しなければならなくなる。そうであればナエも同じだ。お互い生まれてくるべきじゃなかった。少なくともあの町に生まれたことは間違いだった。そんなもの、どこのだれが責任とれるよ?」
「これ、前にも話してるね。大和が事故に遭ったあと」
「もう十三回くらい話してる。いや、十七回か十九回目だ」
「なぜ素数を並べる?」
「もう二度と話したくねえからだよ」
 ちょうどそこへ――ふたりの様子を覗き見ていたかのように――大和の電話が鳴った。いや、それは先ほどから何回か鳴っていたのだが、ようやく大和が気づいたのである。ポケットからスマートフォンを引っ張り出すと、大和は一呼吸してから耳に当てた。
「おお、終わったのか?……あ、ごめん。麻友に絡まれてて気がつかなかった。……なんだ、そうか。いまどこら辺?……すぐ近くだ。末広亭のT字路のとこ。……どっちか下に降りるよ」
「だれ?」
「玲奈」
「玲奈来るの!? やった! 私降りるよ」
 麻友はさっと立ち上がると店のサンダルをつっかけて、狭い店内の通路を人にぶつかりながら駆け出して行った。大和は時計を見た。まだ八時半を過ぎたばかりである。玲奈もこの近くにいたのだろう。お互い新宿だとしか聞いていなかったが、これで麻友の機嫌が直りそうだ。
 が、ふたりはなかなかやってこなかった。おそらく、いや間違いなく、玲奈が新宿通りから入る路地を間違えて、リカバリーできずにいるのだろう。電話で話しているふたりが、小さなビルひとつ挟んだ向かい側にいるにもかかわらず、一向に落ち合えない様子を想像して、大和はおかしくなった。
「迷ったぁ……」
 玲奈はアルコールが入ったときのとろりとした眼をうっすら赤い頬の上で揺らしながら、加えてやや息も切らせつつ、大和が空けた場所に――左右からふたりに挟まれる席に――すとんと腰を落とした。麻友がその左腕を抱き締めたまま離さない。私、カシスオレンジね、と玲奈が言った。
「腹は?」
「食べたよ。お寿司が出てきた。炙ったやつ。すっごいおいしかった」
「いいとこだったんだ?」
「そうかもしれない。でも緊張したあ。部長さん楽しい人でよかった。…あのね、ガンダムのプラモデルを息子さんと一緒に作るんだって。なんかうちの課長とアニメの台詞とか真似して盛り上がってたんだけど、私さっぱりわからなくて。つられ笑いって、ほっぺたが痛くなってくるよね」
「おい、麻友、おまえいつまで引っついてんだ?」
「だって、ほんと久々の玲奈だからさ。ちゃんと匂い確かめてんの」
「イヌかよ」
 それでも麻友はようやく玲奈から離れ、三人で乾杯をした。取引先との酒席に同席した緊張から解放され、玲奈は芯から脱力していた。スーツのままぺたんと座敷に座り込み、グラスを半分ほどまで一息に飲むと、ふうっと大きな溜め息をついた。もちろん、さっきまで麻友が繰り返していた溜め息とは、質が違う。玲奈はふたりの顔を見て、ふと首を傾げた。
「ナエちゃんは?」
「西江とお楽しみ中」
「彩日香さんは?」
「あんなの呼んでない」
「お財布は?」
「今日は割り勘だよ」
「わかった。で、なんの話してたの?」
 そこで、麻友が真剣な顔でふたたび玲奈ににじり寄った。
「玲奈、バールってわかる?」
「わかるよ。壁板とか剝がすときに使うやつでしょ」
「なんでそんなこと知ってるの? その辺にけっこう転がってるもん?」
「転がってはいないと思う。でもお父さんの工場で見たことある。そういうの教えてもらった」
「なるほど。そういう情報源があったか」
「麻友ちゃんみたいなお嬢様が触るような道具じゃないよ」
「でもさ、人の頭を殴るときには必要みたいじゃない?」
 聞いて、玲奈がさっと大和の顔を見た。
「殴られるようなこと言った?」
「言ってない。言ったら殴ると警告は受けた」
「バールで?」
「バールのようなもので、な」
 玲奈が思わず狭い座敷を見回している。ないよ、そんなもん!――大和は笑い出した。
 店に上がるとき、九時になったら追い出されるようなことを囁かれたが、そのままいても大丈夫だと言われた。大和と麻友がお代わりを注文した。玲奈はソフトドリンクに切り替えた。今日は接客のためにスーツを着て出てきたから、絶対に部屋に帰らないといけない。大和のところに泊まったりしたら、明日、休日にちょっと皺の寄ったスーツで街を歩くことになってしまう。大和は家まで送ってくれない人間なので、これ以上酔うわけにはいかない。そうでなくても過度の緊張からの急激な弛緩が、玲奈の足元をすでに怪しくしているはずだった。
 まだ高校生だったときには、麻友は玲奈と友達になるのは無理だと大和に告げた。それはそうだろう、と大和も思った。玲奈は成績も中途半端で、大勢の中にいるとすうっと埋もれてしまう。休んでも、教室に違和感を現出させるような生徒ではない。そこは麻友とは大きく違う。麻友が休むと、その日は「桐谷麻友がいない一日」として、クラスのカレンダーに刻印される。教室に入ってくるどの教師も、今日は桐谷は休みか、と確かめる。そんなふたりが友達になれるとは誰も考えない。だから東京に出て来てからの麻友の豹変ぶりに、大和は最初ちょっと面食らった。
 しかし、変わったのは実は玲奈のほうだった。独り暮らしを始めて見ると、意外にも、玲奈は肝の座ったしっかり者であることが判明した。エネルギッシュな学生生活を送り、大学でも相変わらず中途半端な成績でありながら、準大手の建設会社から早々に内定をもらった。いまは建築士の資格をとるのだと宣言し、休日を大和の部屋で過ごすときも、勉強道具一式を携えてやってくる。卒業してしまえば、狭い高校の中のカーストなどあっさり吹き飛んでしまうもので、玲奈はその典型的なサンプルだ。
 誰もが驚いた。いや、驚くもなにも、多くの生徒が玲奈当人のことは覚えていなかった。ほら、二年の秋から大和のカノジョだった…と言われ、ああ!と声を上げる。が、どうしても顔を思い出すことができない。それが高樹玲奈という少女だった。
「私も働こっかなあ。玲奈見てるとなんか素敵だよねえ」
「麻友、落ち着いて考えろ。おまえいま完全に流されてるから。北原から就活の話聞いて、こないだナエのお祝いして、いま玲奈のスーツ姿見て、そこからの働こうかなあ、だから」
「あらら、私ったらホント素直で可愛い子!」
「おまえはこのまま勉強してろ」
 麻友は玲奈の肘を引っ張って、今度は自分のほうに引き寄せると、大和に聞こえるように囁いた。
「玲奈のカレってさ、基本命令口調だよね」
「あ、そういうとこあるね」
「偉そうだよね」
「うん、偉そう偉そう」
「マスター通ってる

のくせにさ」
「くせにね」
 麻友と玲奈は、早苗がいないほうが楽しそうに見える。ふたりとも少し年齢が下がり、なんだか仲良しの姉妹のようになる。玲奈はわかりやすい。早苗がいると口数が激減する。麻友はわかりにくい。が、たとえば早苗に対しては絶対にこんなボディタッチはしない。たとえばそういうことだ。いや、たぶんそれは麻友のせいではない。親しい同性とのあいだでもボディタッチを嫌うのは、明らかに早苗のほうだ。いちばんわからないのは早苗だ。

 十一時前に店を出た。新宿三丁目から、麻友は副都心線に降りて渋谷から田園都市線に乗り換える。大和と玲奈は地下を西口まで歩き、小田急線と京王線に別れる。そこで、表を歩きたい、と玲奈が言い出した。初夏の暖かな夜だった。大和は頷いて、じゃ初台までな、と地上に出た。
 甲州街道を渡り、文化服装学院の前を抜けて、玉川上水跡の遊歩道に入った。東京に出て来てから、この道は何度も歩いている。滑り台があり、ブランコがあり、ベンチがある。昼間は付近の子供たちの遊び場になり、喫煙所にはサラリーマンが集まってくる。
 玲奈はスーツに合わせてヒールの高い靴を履いてきていたのだが、そんなことには構わず思いのほかしっかりした足取りでスタスタと歩きつづけ、饒舌に機嫌よくしゃべりつづけた。玲奈のおしゃべりはいつものように脈絡がなく、職場のお気に入りの先輩の話からアパートに近いコンビニの店員の話に飛び、仕事上の些細だが悔しい失敗談から電車で隣に座った年寄り夫婦の奇妙な会話に移り、テレビで知った東京の都市伝説の真実だとか、新しく入れた家計簿アプリのバグだとか、この夏に水着を新調すべきかどうかとか――小さな抽斗が無数に並んだ宇宙の壁の前に立ち、端からひとつひとつ順番に(いやランダムに)開けて行く。
 なんで?とか、ふ~ん…とか、おお!とか、適当に合いの手を入れながら、そんな玲奈の話を――あるいは玲奈の〈声〉を聴いているのは、大和をいつも穏やかで優しい気持ちにさせる。そして、なにものにも代え難いのはきっと〈声〉なのだと、やはりこれもいつもそう思うのだ。玲奈のこの声がある限り、もしどうしても悪魔と取り引きをしなければならない状況に立たされたとしても、聴覚だけは差し出すまい。それこそが幸福の源なのだから。
 大和は歩きながら、明大前から下北沢?、いや、下高井戸から豪徳寺だな、と考えていたところ、初台の駅に降りる階段の入り口で、じゃあね、と玲奈に言われてしまった。意表を突かれて追いすがるきっかけを失った大和は、スマートフォンで地図を眺め、参宮橋まで南に歩くことにした。玲奈はただ、酔い覚ましに少し外の空気に当たりたかっただけらしい。
 そういえば、ここから明治神宮に入ることができる。東京に来てもう丸五年、いつもこの駅を素通りしてきた。気にも留めてこなかった。西参道というのか――この週末、こちら側から杜に入ってみよう。玲奈はおもしろがるはずだ。あるいはもう経験済みかもしれない。どちらでも構わない。梅雨が始まる前に、たくさんの紫外線を浴びておきたい。
 各駅停車しか停まらない参宮橋の閑散としたホームに立った。新宿からの急行が控えめな速度で通過する。ドアにもたれた、あるいは吊革を握った人々の顔を、ホームから容易に識別できるほどのスピードだった。何両目かの何番目かのドアに、新宿方面から進行方向に向かってドアの脇に体を預け、窓ガラスの外をぼんやりと眺める女がいた。
 ナエ!……驚いた大和の顔を、女も見つけてはっと息を呑んだ。車両が行き過ぎるとき、電車が少し速度を上げた。大和は一歩二歩、進行方向に足を動かした。女はドアの窓に顔を押しつけるようにして、後ろに去って行く大和の姿に縋りつこうとした。
 次の電車で代々木上原に着いた大和は、ホームを端から端まで探した。しかし早苗の姿は見つからなかった。苛々しながらさらに次の電車を待ち、経堂に着くと階段を駆け下りて、そのままの勢いで改札を飛び出した。
 見間違いではなかった。早苗はそこに立っていた。
「ナエ、なにがあった?」
「電車を間違えただけよ」
「おまえ渋谷じゃねえか。もう少し気の利いた嘘は思いつかないのかよ」
「嘘なんてついたことないから、私……」
「それも下手な嘘だ」
 早苗は俯いて大和の足元を――気のせいかもしれないが歪んで見える――大和の右足を見つめた。
「次の上りでちゃんと帰るわ」
「見届ける」
「……そうして」
 ふたりはふたたび改札に入り、上りホームに立って、次の電車を待った。早苗には充分な時間に思えたが、それは間違いだった。ドアが開いたとき、乗りたくないと思ったし、少なくとも一人では乗りたくなかった。しかしドアは閉まり、早苗はロングシートの端に座った。常客はもうほとんどいなかった。ちゃんと帰るとは言ったけれど、いまから田園都市線に乗れるのか。こんな電車に乗せるなんて、大和は本当に酷いことをする。こんな電車に乗せられて、いったいどうすればいいのよ。どうしてまだ上り電車が走ってるわけ? もうこんな惨めな女くらいしか乗ってないじゃないの……。
 改札を出ようとしてゲートに阻まれ、駅員に説明して入場料を支払うと、大和はバス停のベンチに腰掛けて、酷くズレてしまった義足を直すために靴を脱いだ。間もなく七年になるというのに、いまだに駆け出してしまうとは――転ばずに済んで助かったとしか、吐くべきセリフが見つからない。よりによって階段を駆け下りるなんて。早苗は帰れるのか。帰れないなら西江に電話しろ。西江が難しいなら、麻友、それから彩日香だ。それもダメなら夏馬さんがいる。ひとりで朝を待つなよ。あんな電車に乗せた俺が言うことじゃないかもしれないが、それだけはダメだ。
 深夜のプラットホームで、終電間際のほんの十分ほどの時間に、ふたりは上り電車の到着を待ち――そこでは実際なにも起きなかったのだが――早苗がドアを踏み越えたことと、大和が黙ってそれを見ていたことは――起こったことはただそれだけだったのだが――ふたりを過ぎ去った特別な瞬間に連れ戻した。
 それは、中学二年の夏に唐突かつ乱暴に打ち切られ、高校二年の秋に成す術もなく閉ざされた、あのふたつの失敗の再現と思われた。いまになってそれが繰り返されたことは、いまとなってはだれにも告げることができない。あのときも口をつぐんだのだが、その意味はもう違っている。
 これはそのときの再現ではなく、同じことが繰り返されたのではない。言葉もなくホームに立ち、目の前でドアが閉まったけれど、反復などでもない。泣きつづける十四歳の少女と、立ち尽くす十四歳の少年ではない。自暴自棄になった十七歳の少年と、呆然と佇む十七歳の少女ではない。
 しかしあのときから、松田早苗の「青の時代」は静かに、かつ確かに始まったのだ。この夜、それがいまもまだ終わっていないことを認識させられた。どうして終わっていないのか、早苗にはわからない。どうしたら終わってくれるのか、それもわからない。終わってほしいのか、終わってほしくないのか、この夜、それすらわからなくなった。
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