始まりの夜 1

文字数 954文字

 (いち)は暗闇で目をあけた。
 階下でなにか恐ろしいことが起こっている。

 彼はごく自然に立ち上がると、畳の上を歩き出した。何かに引き寄せられるようで、それが自らの意思なのか本人も分からない。窓もふすまも全て()いているが、少しも風が入らずむっとする。夜なのに蝉が鳴いているが、多分彼は聞いていない。

 廊下はほのかに明かりが入り、突き当りにドアがある。彼はそっと音を立てぬように開けた。
 なにやら声がする。
 外には三尺四方の踊り場があって階段は右に下りていく。下を見ると電灯が点いてまぶしく、床に伏した女の髪が見えた。

 お母さん? とそろりそろり二、三段降りたところで、あっと止まった。知らない男が現れた。兵隊のようなズボンに白っぽいシャツで、幸いこちらに背を向けている。

 目が慣れてみると、男は包丁のような物を握っていた。服にも手にも違う何かがべっとり付いている。
 男が大声で喚いて蹴ると、もんどり打ったのは母の明子だ。腹のあたりがどす黒い何かに染まっている。その何かは床にも‥‥‥

 およそ日常とかけ離れたこの光景に、市は木偶(でく)のように突っ立っていた。

 男はなおも喚き続けたが、ふと気配を感じた。後ろを見上げると上のほうに子供が立っている。そのとたん、男はさらに逆上した。
 凶行を見られたのだ。

「このガキい!」
 男は階段を駆け上がろうとした。
 ところがどうしたことか、ばったりと手を突いた。明子の仕業だ。
 どこにそんな力があるのか不思議だが、ぎりぎりと歯を食いしばり、鬼の形相で足に絡みついていた。

 男はまたも大声を張り上げ、所かまわず踏みつけた。ここに押し入ってはみたが金の在処(ありか)を聞き出せず、完全に度を失っていた。

(逃げなさい!)
 どこからか言われた気がして、市は突き動かされた。彼は脱兎のごとく二階にすべり込み、カチャンと鍵を閉めた。日ごろのイタズラが役に立つ。

「こらあ、ガキい、開けろ!」
 ようやく追ってきた男がガチャガチャ恐ろしい音を立て、今にもドアが壊れそうだ。しかし市は驚くべき早さで寝所に飛び込むと、(りょう)ちゃんちに面する網戸を開けた。

 彼は窓枠にのぼると両の手を大の字に開き、迷うことなく暗い空に飛んだ。

 (ほり)市之助(いちのすけ)、五歳七か月。
 大正十一年(一九二二)七月、じっとりと寝苦しい夏の宵であった。


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