事変の後方(二) 1

文字数 2,235文字


 早くもその翌日の九月二十二日に、スーパー機の奉天進出が関東軍参謀から口頭で要請された。正式な命令文書は二十六日に出されるとのことだが、国策会社の方はすでに機体を出している。隆政は翌朝一番で機体を発進させる旨、返答した。

 濠貿易は、系列店と呼ぶ商品の卸先を奉天に持っており、現地の情報が入る。それによると、すでに十九日の時点で奉天は関東軍に制圧され、街は一応平穏だという。

 
 先発隊は荒木、市、市政、整備員五名で、機体は予備の燃料と潤滑油、飛行機部品、食糧、各自の荷物その他を積んで周水子飛行場から発進することになった。別途、補助や支援のチームが列車で奉天に向かう。

 大連-奉天間は約三五〇キロあり、二時間少々の飛行である。

 彼らが使うスーパー機の客室は、一席だけ内向きに座席が付けられたほかは全て撤去されており、市政以外はみな床に毛布を敷いて座った。全員分の落下傘も用意されている。ただし、横になるほどのスペースはない。

 操縦席は二席あり、左が操縦者、右が航空機関士だが、まずは荒木が左、市が右に座った。操縦棹は中央にあり、方向舵踏棒(ラダーペダル)は両席にある。スロットルレバーは左席にしかない。

 すでに二人は平壌までの試験飛行を繰り返しており、市は左席での離着陸を経験していた。

 隆政以下、社員一同が手を振る中、荒木の操縦するスーパー機は何の問題もなく離陸し、大きく旋回してからゆっくりとバンクし、北の空に消えていった。


 上空に上がると、機体はときどき風で煽られる程度で極めて安定し、後ろの皆は暇を持て余した。

 座ってじっとしているのは辛いものだ。市政は座席を他の者に譲り、操縦席を見物した。市の操縦を直に見るのは初めてである。ちなみに天井が低く、体をかがめていないとならない。

 操縦席に並ぶ二人はぎゅうぎゅう詰めで、これでよく何時間も飛べるものだと感心する。何というか二人とも切迫した様子は微塵もなく、一見リラックスした感じだが、落ち着いた中に緊張感がただよっていた。市の表情は見えないが、結構忙しく左右に視線を走らせているようだ。

 機体はすでに計器飛行に入っており、荒木は地図と地形を見比べながら航路図を記録している。つまり操縦は市がやっていた。

 市は手足を一応操縦系統に置いているがそれらはほぼ中正のままで、ときどき左右を見ては計器を確認する。どちらかが何かの数値を読み上げると、聞いた方が「了解」と返答する。荒木が何かを説明し、市が了解する。

 素人目で見ても二人のチームワークは万全だ。市政は市が来て良かったと思った。彼はいつしかブオーっと耳を圧するエンジン音を忘れ去り、信頼感に裏打ちされた静けさを感じていた。

 窓の外を見れば、左の下には真っ直ぐな一条の線路が彼らの行き先を示し、ところどころに街や集落が現れては消えていく。空は快晴で見渡す限りの大地が続くが、はるか遠方にはもやが掛かり、そこに山か雲か分からない何かが見えていた。

 彼は、むっちりと太い市の後姿を見ながら、両親を失った小さな魂がいつの間にここまで成長したのだろうと不思議な感慨に捉われた。
(かつて荒木さんはこの子を何かの化身と評したけれど、ぼくには菩薩か大仏に見えるな‥‥‥)

 それにしても市の後姿は、いかにもこの場にぴったりで、中学生とはほんとうに信じられない。
(まったく‥‥‥白昼夢でも見ているようだな‥‥‥)

 市政があれこれ思いに沈んでいると早くも奉天市街が見えて来た。絵のようにくっきりと建物が並んでいる。市はゆっくりと大回りで旋回を開始し、荒木が地図で間違いのないことを確認する。市はもちろんだが、荒木も奉天に空から来るのは初めてである。

「伯父さん、席について安全帯を締めてください。他のみんなにもあと五分で着陸するので衝撃に備えるよう伝えてください」

 市政は我に返った。すでに機体は高度を落としつつ、周回に入っている。
「了解!」

 彼は後ろを振り向き、席に座っていた佐竹の一番弟子(黒木という)が立とうとするのを制し、自分は床の上に座った。気休めだが壁の手すりに摑まることにする。

「荒木さん、次からぼくが左(席)でいいですか?」
 市が少し左を見て言った。この任務では市が全て操縦しても良いことになっている。

 荒木は前を見たままうなずいた。
「その件了解! では着陸に入ります」

 奉天飛行場(東塔飛行場)は東のはずれにあり、すでに見取り図も国策会社から入手しアプローチ法も詳しく聞いてある。そこは障害物がなく、広くて着陸しやすい飛行場だった。

 操縦棹をもらった荒木は市が取ったパスに乗り、いつものように極めて浅い角度で降下すると滑るように静かな着地を決めた。彼らが飛ばしてきた市之助十一号機は、地上の陸軍兵の指示に従ってそのまま指定のエプロン前までタキシングし、停止した。

「ご苦労様でした」
 操縦席の二人はがっちりと握手した。


 東塔飛行場には、陸軍航空隊飛行第六連隊の二個中隊が独立飛行中隊として進駐している。市政、荒木、市の三人はその司令部に案内された。

 隊長の少佐は、一通りの報告や連絡が終わったあとで名簿を一瞥し、市に関する但し書きに目をとめた。

『右ノ者、若年ナルモ同社機体徴用中ノ任務ニ限リ飛行ヲ許可ス』

「この濠市之助というのは君かね? 若年とはどういうことかな?」
 代わりに市政が答えた。
「はい、この者はまだ中学生ですが、特別に加わっております」
「なに? 中学生ですと?」
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