大連へ 1

文字数 1,990文字


 満洲という言葉の由来には諸説あるが、清朝発祥の址にして満洲族(女真族)の住む地という意味で、日本を含む諸外国が使って来た言葉のようだ。

 満洲の地域は、概ね中国の東三省、すなわち奉天省(現・遼寧省)、吉林省、黒竜江省に一致し、人口は大正十年(一九二一)調べで約二〇〇〇万人と推計されている(同年の日本は約五七〇〇万人)。

 大連は遼東半島の先端寄り、有名な旅順の約四〇キロメートル東北東、に位置する港湾都市である。日露戦争の代価として、ロシアから関東州(遼東半島南部)が日本に割譲され、その範囲内に旅順と大連があった。

 このときに、ロシアが保有する東清鉄道南部支線の旅順-長春間と、その附属地なども日本に譲渡され、これを経営するためにいわゆる満鉄(南満洲鉄道株式会社)が明治三十九年(一九〇六)に設立された。

 なお、これらの割譲・譲渡については清国の承諾を受けている。


 市たちに話を戻すと、この当時大連まで大阪商船という会社が、大阪-大連間の定期航路を週二便運行していた。通常これには寄港地の神戸か門司から乗船し、前者だと船中三泊四日、後者では二泊三日を要した。

 隆政は船便による内地との往復にはうんざりだ。一日短縮できる門司乗船を選ぶが、その場合も東京から下関までほぼ二十四時間汽車に乗らねばならなかった(東京-神戸は十四時間)。

 ちなみにこの当時、定期航空路はまだ開かれていない。

 彼は数年前まで暴飲暴食の時代が長かった。それが祟ってか、まだ五十というのに糖尿病や神経痛に悩まされている。下関までの寝台車もかなり苦痛だが、こればかりは我慢するより他はなかった。

 一方、市は物心付いてからこれほどの長距離旅行は初めてだ。濠家では、そのうち大連に遊びに行こうなどと話していたが、今回それが不幸な形で実現した。しかもそれは、場合によっては一生帰らぬ片道切符だった。


 東京駅の乗降場。
 独特の雑音と喧騒を縫って、市たちは下関行特別急行列車に乗り込んだ。客室は一等の個室寝台である。

 ピーっと汽笛が鳴る。
 重い荷物に抗って機関車の動輪が回転を始めると、ガガンっと連結器の音が前から順に後ろに伝わって行き、引っ張られた客室はゆっくりゆっくり動き出す。

 汽車の速度はだんだん上がり、やがて所定の速度に到達する。あとはガタンゴトン、ガタンゴトンとお馴染みの調子が続く。

 市は外を眺める。車窓に流れる風景はとても心地よい。
 街並みの続く横浜を過ぎると、次第に家も疎らになっていく。そこらには田園が拡がり、山々の緑が次々現れ、彼の壊れた心を少しずつ修復した。
 また、そうこうするうちに海も見えてくる。

 しかし、夏の汽車旅には一つ欠点があった。やたらに暑いのだ。
 このときも、すでに熱海の付近で高々と日が昇り、客車の中は扇風機などまるで効き目のない、うだるような暑さになっていた。

 窓を開ければ風が吹きつけるが、線路や風の向きによって機関車の煤煙が流れ来る。これを知らずに外を見ていると、石炭がらの粉塵が目に入る。その痛さはなかなかのものだ。

「おい、窓閉めろ」
 隆政が慌てる。
 うっかりトンネルで窓を開けていると、室内は煙で大変なことになる。こんな経験も初めてだが、市は面白がっていた。

 しかし、隆政は粉塵を気にした。
「俺はな、日露戦争のときに目をやられたんだ。弾を喰らったんじゃない。戦場ではいつも粉塵が舞っててな、それでやられたんだ。お前、粉塵を目に入れたらだめだぞ」

 彼は激しい炎症の後遺症で右目の視力をほとんど失っていた。本当の原因はともかく、当人は粉塵のせいと堅く信じている。それが煤煙なのか砂埃なのかは定かでないが。

「お前はこっち側に座れ」
「‥‥‥」
 彼は進行方向に背を向けて座るよう促す。しかし市はかぶりを振り、前から流れ来る風景を飽かずに眺めていた。

 そんなこんなで、二人は翌日の朝、出発時とほぼ同時刻に下関に着いた。さっそく門司に渡り、同港で客を待つ大連行きの連絡船に乗り込んだ。


 出航は定刻の午後一時。市は日本を去るのに何の感傷もいだかなかった。これは六歳にも満たない年齢のせいもあったが、実のところ、周囲のことがほとんど気にならなくなっていた。

 これは良い兆候ではなかった。この旅行で、彼の心のある部分は癒され、言葉も取り戻せそうだった。しかし、心の別な部分では異変がそのまま固まり、固定化しつつあった。

 有り体に言えば、感情という大切な機能が鈍っていた。

 原因はやはり凶行を見た精神的ショックであるが、その異変は自身に感情を起こさぬだけでなく、他人の感情や思いに気づき理解する能力に及んだ。自分が感情に乏しいのなら、他人にどんな感情が起こるか分からぬのが道理である。

 彼は喜怒哀楽に乏しいうえに、人の気持ちを察せぬ人間になろうとしていた。しかし、誰もそれに気づいていなかった。
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