ヒコーキ 1
文字数 2,506文字
隆政の会社は社員七人の小さな貿易会社で、大連の大広場からほど近いところに事務所を構えている。
そこは
隆政たちが事務所に入ると、社員全員が残っていた。
「社長、お帰りなさい」
皆が立ちあがって一礼する。彼は内地の土産をかたわらの社員に渡しながら、市を紹介した。もちろん全員が事情を知っている。
彼は市を連れて社長室に入り、秘書兼タイピストの女性に留守中のことを尋ねた。その他にも書類がかなり溜まっている。なにしろ内地に行くと往復だけでほぼ八日かかるのだ。
庶務掛兼タイピストの別な女性が、紅茶を運んでくる。
「可愛らしい坊ちゃんですね」と愛想を言った。
彼は市を待たせて懸案を処理した。至急の件以外は残して三十分ほどで切り上げ、二人で社を後にする。この日は土曜日で、他の社員も半ドンで仕事を終え、三々五々帰宅していった。
彼の家はそこから歩いて十分ほどの所にある。建物の玄関を出て二人は立ち止った。
「ちょうど昼時だが、お前腹は減ってるか? どこかで何か食って帰るか?」
市はかぶりを振る。
「そうか、洋食ばかりで腹がもたれたか? じゃあ、家に帰って咲子さん(お手伝い)に何かあっさりしたものでも作ってもらうか。好きな物はあるか?」
「‥‥‥」
それじゃあまあ、と繁華街に行くのは止めて家の方角に歩きだした。
彼らがアカシアの並木道を少し歩いたところで、何かブーンと遠くの方から聞こえてきた。
「何だ?」
二人は立ち止まった。音は次第に大きくなって来る。
数瞬の後、グワーっと向こうの建物の陰から現れたのは大型の複葉機だ。高度は低く、それが旋回してこの大通りに沿ってどんどん迫って来る。爆音がもの凄くなった。
「おいおい、どうしてこっちに飛んで来るのだ、道路に不時着でもしようってのか。危ないじゃないか」
手近な建物を探した隆政は、市の手を引いて隠れようと振り返った。
と、市が空を指して叫んだ。
「ヒコーキ!」
(おお、ついに言葉をしゃべったか!)
彼は危険を忘れて市を見た。
「ヒコーキ、ヒコーキ!」
市は空を指したまま何度も叫ぶ。
そのヒコーキは彼らの頭上をブワーンと通り過ぎ、北の方角に消えていった。市がそちらの方角に走り出しそうになるので、おいおいと隆政は手を掴んで止めた。
「追いつかないよ。ヒコーキは速いんだ。人間よりも船よりも汽車よりも速いんだよ。今見ただろ。ヒコーキはこの世で一番速い乗り物なんだ」
「ヒコーキ!」
聞いているのかいないのか、市はそればかり言っていた。
「ヒコーキだけじゃなあ」
隆政は苦笑もしたが、言葉が戻ったのはなによりだ。その後も、大連濠家に着くまで市はずっと「ヒコーキ、ヒコーキ」とつぶやいていた。
どうやらこれが、市と飛行機の運命の出会いだったようだ。
一方で、隆政も市の「ヒコーキ」に触発されるものを感じていた。
彼は、陸軍にいた当時、日清・日露の両戦役で補給に苦しんだ体験を持っている。そのため、目の故障が原因で日露戦争後に軍から引いた後も、兵站という事柄にずっとこだわりを持っていた。具体的には物資と物流である。
彼は当初奉天(現・
一九一一年(明治四十四年)に
今では、陸軍相手の商売は縮小し、民間同士の貿易が事業の中心になっている。
彼は、満洲の一次農産品よりも、皮革、羊毛、手工業品、食品その他、付加価値や希少価値のある物品を内地に輸出し、内地から織物、電気製品、家具その他、主に工業製品を輸入している。
それを満洲の内陸部に売ったり、場合によっては香港や上海、北京などに売っていた。
彼は機を見るに敏で、投機とは言わぬまでも商いは利幅狙いに終始した。途中、第一次世界大戦やその反動不景気など、起伏もあったが商売はそこそこ順調だった。
しかし悪く言えば出たとこ勝負的な側面がかなりあり、彼自身もそれをよく分かっていた。
また満洲は、何といっても満鉄が支配する土地なのだ。
満鉄は開業当初から、鉄道輸送だけでなく、石炭採掘業(
早い話が、隆政が扱う物資の調達やその売買は、ほとんどと言ってよいほど満鉄に依存していた。
他にも満鉄は旅館業(有名なヤマトホテル)や新聞事業、通信事業などにも進出し、さらには製鉄所(
このようなことから、満洲にいる日本人の半分ぐらいは満鉄社員とその家族、などとも言われている。
彼はそんな状況に閉塞感を感じ、なんとか満鉄に支配されない、地に足の付いた事業を展開できないかと考えていたのだ。
その一つが自動車である。
彼は米国から自動車を輸入した経験があり、自動車による物流に魅力と可能性を感じていた。もちろん自分でも乗っている。
そこでまず、小規模な自動車修理会社を設立した。
欧米の完成車を輸入して物流に用いるとしても、開発の遅れた地域では修理等の技術は必須である。つまり先に足元を固めようという発想だった。
当時の日本は自動車産業の黎明期に近いが、寺内内閣による軍用自動車保護法(大正七年・一九一八)などもあって自動車には追い風が吹いていた。
惜しむらくは、隆政自身が技術の分野に全く不案内なことだ。しかし、彼は思い切りが良く、思い立ったら直ぐにやりたくなる
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