それぞれの転機 1

文字数 2,251文字


 東京も十月に入った。暑すぎず寒すぎず、スポーツにはよい季節である。
 夏子の体育の時間。

 ここしばらく彼女の最も苦手なバレーボール(九人制)が続いている。案の定、この日も嫌な展開になっていた。彼女は後衛の右にいたが、そこが狙われ、開始から七点を連続で取られているのだ。

「タイム」
 前衛にいたリーダー格の生徒が合図した。
 長身の彼女は、二人いた攻撃の一人だが、中衛の右、つまり夏子の前に下がった。これで攻撃が弱くなったが夏子の前に壁ができた。

 相手のサーブだ。隣を守る久子が「夏子しっかり」と声を掛ける。

 ポーンと高いサーブが夏子の方に落ちてくる。球は来てほしくない人のところに来るものだ。彼女はボールの落下点を予測できず、受けるのも上手くない。運動神経だけでなく動体視力も良くないのだろう。

 彼女はすくんでしまったが、シュっと軽やかな音がしてトスが上がったと思うと、前衛の左の生徒がスパイクを決めた。例のリーダー格がサーブを軽々とトスで受けたのだ。

(ありがとう‥‥‥)
 夏子は、世の中にはなんて上手な人がいるのだろうと、涙ぐみながらその生徒に感謝した。その子は宇治さんといった。この後、前のボールは全て宇治が取り、横のボールは久子がカバーした。結局その試合は負けたが夏子は心が軽くなった。


 あるとき宇治がノートを借りに来た。
「ねえ夏子、ノート写させて」
「いいわよ」

 夏子は借りを返すつもりで気軽に貸したが、ノートは他の子にもせがまれ、あちこち回って手元に落ち着かない。それで彼女はノートを二つ作ろうと思いついた。

 彼女は授業のあった日にすぐノートを書き写した。さらに内容を箇条書きにまとめたり参考書などで調べて解説を付け加えたノートも作る。少し先の話になるが、期末試験のときにこれらのノートが級友に大好評を博す。ノート作りが復習や予習になり、中の上ぐらいだった彼女の成績もぐんぐん上がり始めた。

 運動音痴は相変わらずだったが、カバーしてくれるみんなの気持ちが分かり、チームスポーツの精神も少しずつ理解できるようになった。



 十一月に入ると東京も秋は深まっていく。

 こちらは晶子。
 彼女は、ある私立大学の教授に巻紙の手紙を出していた。内容は日本神話に関する質問である。

 ずいぶん昔に涼子とも話したことがあるが、彼女は幼い頃から八百万の神を信じていた。しかし、年を取り記紀(古事記・日本書紀)の神代史に出てくる神々を知るにつれ、疑問を感じるようになった。それは単純に言えば、神々があまりに“人間らしい”からである。

(神とはなんぞや‥‥‥?)
 彼女は分からなくなった。
(森羅万象に宿る神はともかく、記紀の神々は人間そのものか、あるいは人間の創作ではないか?)

 この疑問がいつしか頭にこびりついて離れなくなった。
 彼女が考古学の知識を得ると、もはや神話の神々とは折り合いがつかない。人類が石器時代から連綿と続いてきたとするなら、たとえば天孫降臨説話など感覚的に受け入れ難い。


 このような思考過程は、とうの昔に先達が通った道だ。

 ある学者は著作で『神代は観念上の存在であって歴史上の存在ではない』と言い、『記紀の神代史は、わが国の統治者としての皇室の由来を語った術作であって、六世紀に入ってから成立したものだ』との趣旨のかなり危ないことを書いていた。

 どうやら記紀の神々は彼女が信じていた神とは全く異質のものらしい。これは晶子にとって目から鱗だったが、別な疑問が出てくるのも事実だ。思い余った彼女は、その大学教授に『しからば神話の神々は誰なのですか?』との趣旨で巻紙の手紙を送ったのである。

 十日ぐらい経って、その教授から『とても書簡では説明できないので、直接おいでなさい』と返信が来た。


 その翌週、晶子は教授のもとを訪ねた。

 話を聞くと、どうやら彼は彼女の達筆に注目したらしい。それはともかく、いろいろな例証の末に『たくさんの神々やその事績は、実在の人物や事績の反映である例はおそらくわずかしかない』との結論が示された。

(ということは、ほとんどが創作なのか?)
 それはそれで信じ難い話だ。けれども、彼女は初めて本格的な学問の風に触れ、感じるものがあった。

 最後に教授が言った。
「どうだね。君は古文書が読めるとのことなので、私のところに手伝いに来ないかね。研究生との名目で。もちろん私の講義があるときは聞いてもらって構わない。給料は出せぬが、学費も納めてもらう必要はない」

 彼女は非常な興味と興奮を覚えた。
「女子大学に進学するつもりでしたが、お誘いについて考えてみたいと存じます...」

 丁重に礼を述べて辞去したが、女子大学に彼女の答えがないことも明らかだった。

  * * *

 話を満洲に戻す。

 隆次の葬儀のあと、市たちの十一号機は奉天にとどまっている。
 操縦席ガラスは内地から輸送すると二週間かかるとのことだったが、国策会社が融通してくれた。交換は一日で済むがその他をオーバーホールすることになり、市たちは定期便に便乗して大連に戻った。

 市は隆政に隆次の件を詳しく報告した。

 市が生命の危険に曝されたのはこれで二回目だが、隆政は不思議と冷静でいられた。なんとなく感じていた“市は不死身”との思いが、確信に変わりつつあったのである。

(こいつは本当に恐怖というものを感じない奴だな)
 彼は内心舌を巻きながら市の報告を聞いた。実のところ、市は敵の銃の筒先を見て自分には当たらないと見切っていたのだが。

 その報告の最後。
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