光明はいずこ

文字数 2,985文字


 ちょうど同じ頃、涼子は会社を解雇された。このとき、外国部の部長から博倫宛に巻紙の手紙を託された。


 その夜、博倫の帰りは遅かった。涼子は母に言わず父を待った。その父が戻り、風呂から上がって居間に座ったときは十一時を過ぎていた。

「お父さま、申し訳ありません。このようなことになりました」
 涼子は手紙を差し出した。もちろん孝子も同席している。

 手紙は『誠に遺憾ながら貴殿のご令嬢を解雇するに至りました』と始まり、その詳しい経緯、原因として涼子が精神上重大な問題に直面しているらしいこと、タイピストには休職の規定がないため解雇せざるを得ないこと、問題が解決したら再び応募して欲しいこと、などが丁重な言葉で述べられていた。

 読み終えた博倫は黙って孝子に渡した。

「会社のことは分かった。何も言うまい。‥‥‥それで涼子は何をそんなに悩んでいるのかな?」
 父が静かに尋ねた。

「大連に行くのが怖くなったの‥‥‥」
 涼子は正直に言ったが、理由は上手く説明できなかった。それを聞いた孝子が、めずらしく興奮した。

「あなた、いったい何をしているの。せっかく見つけたお仕事まで棒に振って。そんなに心配なら行くのをやめなさい。市ちゃんだってそんな人に来られたら困るでしょう。そもそも私は...」

「ちょっと孝子」
 博倫が途中で遮った。

「私は涼子の気持ちが少し分かる気がする。なにしろ十年も会っていないのだからね。婚約のことは私にはよく分からないが、その後も手紙をやりとりしているのだから、市之助君だって当然わきまえているはずだ。しかしね涼子、彼はまだ中学四年だったね。結婚うんぬんなど現実の問題として捉えていないのではないかな。だから涼子がそんなに深刻に悩む必要はないと思う。行きたければ行けばいいし、嫌ならやめればよい。仕事のことも長い夏休みと思って少し羽を伸ばして考えたらどうだろう。ともかく涼子はもう大人なのだから、自分のことは自分で始末をつけなさい」

 確かにその通りである。涼子は黙ってうなずいた。

 孝子は「婚約など認めていない」と言おうとして遮られてしまったが、夫の「よく分からない」で力を得た。どうやら夫もすんなり認めるわけではなさそうだ。

「そうね。でも、できてしまったことは仕方ないわね。さ、今日は遅いからもう寝ましょう。必要ならまた週末にでも話しましょ」



 日にちだけが過ぎていった。

 涼子は悩んで悩んで悩みまくれば光明が見えてくると思ったが、そうでもなかった。むしろ糸の切れた凧のようになっている。どうして良いか分からないが、そのくせ心のどこかでは「行くに決まってる」と思う。故に重圧はどっしりと根を下ろしていた。

 やはり最後はまた晶子に相談するしかない。今度は涼子がお寺に行った。


 かつての空き区画はまだ空いていたが、ぎらぎら太陽が照り付けるので二人は木陰に立って話をした。蝉しぐれが彼女の気をまぎらわせてくれる。

 いつものように晶子は「うん、うん」とすべてを聞き、その後の情況を把握した。
(そうねえ‥‥‥この期に及んで「涼ちゃんの思う通りにしたらいいよ」じゃ突き放し過ぎちゃうな‥‥‥)
 おそらくそんなことを聞きに来たのではないはずだ。
 彼女はきっぱりと言った。

「わたしだったら彼氏さんを信じる」
 このとき二羽の小鳥が舞い降りて来た。じゃれ合いながら元気に動き回る。
「大丈夫だよ、彼氏さん待っててくれるよ、絶対に」

(あの素晴らしい男たちに囲まれた彼氏さん。きっと本人も素晴らしい男なのよ‥‥‥)
 彼女は涼子がうらやましくなった。

「わたし涼ちゃんがうらやましいよ。悩むことないよ。行っておいでよ、大連へ!」

 その瞬間、ぱっと小鳥たちが飛び立った。二人の目が合う。
「分かった。ありがとう、晶ちゃん‥‥‥」


 出発の前の日。

 荷造りは、といっても大きなトランク一つだけだが、ほぼ終わっていた。気配に振り返ると、開いたふすまの入り口に博一が立っている。

「お姉ちゃん、入っていい?」
「うん、なに?」
 博一は小学三年で、九学年も離れているのでほとんど共通の話題はない。彼は部屋に入るときょろきょろした。

「あれ? 満洲のみんなの写真はどこ行っちゃったの?」
 それはもう考えないようにしようと全部片づけた。

「あ、うん、しばらく旅行に行くから片づけたの」
「えー、あの飛行機の写真とか恰好いいのにー」
「あれえ、そうだった? ごめんね」

「そうだよ。あの市ちゃんて人、中学生なのに飛行機に乗ってるんでしょ。ものすごく恰好いいよ」
「え、博一はそう思う?」
「うん、思う。絶対恰好いいよ。ぼくね、学校でいつも自慢してるんだ」

「ふーん、なにを自慢してるの?」
「そんなに恰好いい人とうちのお姉ちゃん結婚するんだよって。お姉ちゃんすごいよ」

「え‥‥‥」
 思わず涼子は涙をこぼしそうになった。
 無邪気な博一。

「お姉ちゃん、あしたから満洲に行ってその人と会うんでしょ。いいなあ」
「う、うん‥‥‥」
「ぼくも行きたいんだ。お母さんに言ったら駄目って言われたけど、お姉ちゃんいいでしょ。ぼくも連れてって」
「う‥‥‥」

 涼子は今まで弟の心の内を覗いたことはなかった。
 小さな魂もちゃんと成長しているのだ。
 トランクを開け、整理するふりをしながら彼女は懸命に涙を乾かした。

「‥‥‥ね、ねえ、博一さあ、ちょっと散歩行こうか」
「え、いいの? いこいこ」


 外は猛烈に暑かった。二人は自然に手をつないだ。
「お屋敷の向こうに神社があるの知ってる?」
「ううん、知らない」
「そっか。お姉ちゃんさ、旅行の安全をお祈りしたいからそこ行こう」
「うん、いいよ!」


 二人はその神社でパン、パンと手を打ち、お願いをした。境内はいつもの蝉しぐれに真昼の太陽が照り付け、相変わらず人はいない。

 もちろん、涼子が祈願したのは「市ちゃんが待っててくれますように」である。ついでに旅行中の安全も祈ったが、隣を見ると、博一もなにやら一生懸命お願いしている。彼女は思わずクスっと笑った。

 帰り道に、かつて将棋所があったところに回ってみる。久しく通らなかったが、あのなつかしい看板と急な階段はそのまま残っていた。二階ではまた年寄りたちがだみ声でしゃべっているのだろうか。桝山五段はどうなったろう‥‥‥

 少しだけ立ち止ったがまた歩きだした。

「お姉ちゃん、あそこ知ってるの?」
「うん。あそこはね、博一にもゆかりのある場所なんだよ」
「そうなの? なんで?」
「お母さまに聞いてみて」


 家の前まで戻って来た。二人は木陰で立ち止まった。
「ごめんね。急だったから今回は博一の分まで準備できないの。次の機会に連れてってあげるから、満洲に」
「えー」
「ごめんね。でも約束するよ。こんど市ちゃんのところに飛行機見に行こうね」
「ほんと? 絶対だよ」
「うん、約束する。絶対」

 玄関に入ろうとして涼子は思い出した。
「あ、そうだ。博一さあ、そんなに飛行機が好きなら、自分がパイロットになったらいいのに」
「うん、なりたいけど、ぼくあんまり運動神経よくないから‥‥‥」
「何言ってるの、あんたまだ小学三年生じゃない。これから体もどんどん変わるし、運動も得意になるよ」
「そうなの?」
「そうだよ。ただね、近眼にならないように気を付けて」
「わかった。ぼくがんばる」

 彼女は博一から勇気をもらったことに気づかなかった。
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