真の初飛行 1

文字数 2,100文字


 昭和三年(一九二八)の七月にそれは行われた。

 市が初めて飛行機で地上滑走したのは三年前の大正十四年(一九二五)七月だったが、空中に上がったのがいつなのかは、実は判然としない。

 山に通えなくなったこともあり、“初滑走”以来、市はますます飛行機に夢中になっていた。荒木の後席に乗って数えきれないほどの地上滑走を経験し、そのときにはちょくちょく空中に浮かび上がっている。

 つまり言葉の上では彼はすでに飛行を経験していた。ただしそれはあくまで地上滑走の延長上のことで、おそらく高度は五メートルを超えていなかった。

 彼が空高く連れていってもらえなかったのは、まだ体が小さく、適合する座席の安全帯がないからだ。万一空中で機体が傾いた場合など、すっぽ抜ける恐れがあった。この頃の彼らの機体には風防がなく、そうなれば地面にまっしぐらである。

 しかし市は荒木に「もっと高く飛んで」と頼み続け、荒木も市の体の成長を見るにつけ、そろそろ本来の飛行に連れて行っても良いのではないかと思い始めていた。
 その件は社内でも話し合いがもたれ、市が夏休みに入ったら本格的に飛行を開始することでまとまった。


 いま(昭和三年七月)彼は小学六年生だ。背丈は四尺五寸ぐらいしかないが、目方は十五貫(約五六キロ)に達していた。

 誰が見ても彼は異様に太く、特に後ろから見るとサイコロに頭が乗っているようなありさまだ。しかしそれはいわゆる脂肪太りの肥満体ではなく、子供なりの筋骨隆々であった。
 彼は山を追われた後も石の鍛錬を続けている。測ってはいないが、多分二〇貫(七五キロ)ぐらいは軽く持ち上げられた。

 整備チームは、市のために座席の嵩上げと特別製の安全帯で腰と肩を固定できるように工夫した。それはベルトの穴のように、市の背丈が伸びた場合も対応できるようになっていた。

 機体の方も更新され、サルムソン2A2複座機が三機揃えられている。陸軍がかつて山東半島で用いた機種だ。これらは市之助一号機、二号機、三号機と正式に名付けられたが、みんなは一号機、二号機などと略して呼んでいた。

 ちなみにこのサルムソン2A2は、一九一七年にフランス軍で開発された機体だが、日本国内でも六百機以上生産され、この年(昭和三年・一九二八)でもまだ一線で飛んでいた。


 この頃までに、市と荒木は信頼感でがっちり結ばれていた。荒木も、とことん飛行機に熱心な市に心酔といってよいほど惚れ込んだ。彼が市を本格的にパイロットにしようと決心したのもおそらくこの頃である。

 格納庫や飛行場では市はいつもにこにこ機嫌が良く、歯を出して笑うことはないが、それが最大限の楽しさの表現だった。無論、怒ったり泣いたりすることは全くない。過去の不幸な経験とそのために市の感情が失われたことは、すでに会社の全員が知っており理解していた。ここでは学校と違い、市は誰からも好かれ、愛されていた。


 市の初飛行は荒木たちによって慎重に計画が練られ、格納庫で安全帯のテストも行われた。格納庫の梁からロープで機体を吊るし、実際に市を安全帯で固定して機体を傾けてみるのだ。テストは慎重を極めたが、三六〇度ぐるっと一回転しても全く問題がなかった。

 初飛行に使われたのは一号機である。

 この機体(サルムソン)は練習機仕様のもので、前後をつなぐ伝声管、後席には計器盤、操縦棹、ラダー(方向舵)ペダル、スロットルが備えられ、その他に上述のような特別製の座席・安全帯や、市がつかまるための手摺なども取付けられた。

 要するに後席でも完全に操縦が可能で、この一号機は市の専用の練習機と言ってよかった。もちろんこれは荒木や整備チームの考えだけでなく、隆政や市政も合意の上である。二人とも市をパイロットにすることに賛成なのだ。


 そしてその当日が来た。土曜日の午前中である。

 周水子飛行場の上空は半分ぐらいに綿のような雲がかかり、合間からやや強めの日差しが照り付けていた。風はあまりない。

 市は特製の飛行服に身を包んでいる。それは荒木の妻が寸法を取って縫ってくれたものだ。一方の荒木はいつものように軍隊時代の飛行服を身にまとっていた。

 エプロンには隆政、市政を始め、おおぜいの整備員が集まっている。荒木の一家も来ている。

 肝心な市之助一号機の方は、佐竹ら整備チームが完璧に仕上げてあった。荒木は佐竹に絶大な信頼を置いており、佐竹が大丈夫と言えば飛び、佐竹の太鼓判がなければ飛ばなかった。

 機体は格納庫前のエプロンに引き出され、市がはしごを使って後席に乗り込む。ニコニコといかにも嬉しそうな表情である。
 荒木と佐竹が取りついて安全帯を締め、市の体を動かして点検する。

「坊ちゃん、ずれませんか、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
 もはや三年前の市ではない。体はむしろ荒木より太いぐらいだ。

 座席周りを点検しながら、荒木も佐竹も市には改めて恐れ入っていた。
(こんな轟音を発する巨大な機械に乗り込んで空を飛ぶなど、普通の子供なら肝をつぶして気絶するか泣きわめくだろうに‥‥‥)

 しかし、市は三年前から今の今まで、いつもニコニコ平然としている。
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