大切な約束

文字数 2,181文字


 惨劇の舞台となった医院では、検視や現場検証が徹夜で行われた。陽蔵らも夜の間に事情聴取を受けている。
 それらの後で二人の遺体はいったん警察署に運ばれた。さらに近在の大学に移送され、朝に司法解剖が終わって医院に戻された。

 その昼過ぎ、涼子は陽蔵に連れられ線香をあげに行く。遺体に対面し、かわいがってくれた明子の笑顔を思い出すと涙が滲んだ。

 その足で彼女は二階に市を探しに行った。
 ドアを開けようとするが開かない。
 いないのかとも思ったが、念のためトントン、トントンと、市と遊ぶときの秘密の暗号でノックする。少し待っているとカチャンと音がしてドアが開き、市が手招きした。

 どうやら二階には別の時間が流れているようだ。

 市のあどけない顔を見たとたん、今見たばかりの記憶が重なり、涼子は胸を締め付けられた。
(でも、この可哀想な子は、あたしが何とかしてあげないといけない)
 いつもの年上意識が顔を出す。

 彼女は努めて明るい調子で言う。
「なんだ市ちゃん、ここにいたの? 何してるの? 遊ぼう」
「‥‥‥」
「それとも、どっか外に行く?」

 市は無表情でかぶりを振る。相変わらず口が利けないようだ。
 それじゃあと中に入り込み、好きな遊びを始めることにする。

 彼女は勝手に物入を開け、戸棚から碁や将棋の一式を取り出した。そのまま廊下に拡げ、まずは黒石を盤面の中央に置く。すると促されて市も白石を握った。

 二階も暑いが、木の廊下の感触が心地良く、彼女はスカートで胡坐(あぐら)を掻いた。この格好を母に見られたら叱られるが、明子はいつもニコニコおやつを出してくれた。その明子はもういない‥‥‥

 涼子は女の子にしては珍しく五目並べや将棋のような遊びが好きだ。市もまだ五歳のくせに結構強い。ちょっと前まで彼女が一方的に勝っていたが、市が腕を上げ、今や勝敗はほぼ互角になっている。

 また、市はいわゆる凝り性だ。一度始めたことはなかなか止めず、彼女も負けず劣らず同じだった。そのため、このときの勝負は勝ったり負けたりで延々と続いた。


 彼女はときどき手を止めて市の表情を窺うが、まったくいつも通りである。

(この子は幼過ぎて死の意味が分からないのだ‥‥‥)
 しかし、これから市は一人ぼっちになるのに、その境遇をちゃんと分かっているのか不審でならない。

 だが、市は平気な顔で勝負を続ける。その様子に彼女は()れてきた。
 そこで、わざとらしく碁石を転がすと、それまで温めていた思案を口に出した。

「ねえ市ちゃん、一人ぼっちじゃ生きて行けないでしょ。あたし考えたんだけど、うちの子になりなよ。部屋も空いてるし。あたしがおじいさまに頼んであげるから」

 これは彼女が勝手に考えたことで、市もこんな提案に答えられるはずはない。
 彼は何で? という表情で涼子を見た。
 それを見ると彼女はさらにひと押ししたくなり、思ってもみないことをすらすら口に出した。

「ねえ、あんたあたしのお婿さんになりなよ」
「‥‥‥」
「そうしたら、うちに居られるでしょ」

 前半が本音で後半はカモフラージュなのか、それとも後半のために前半があったのか。本当のところは分からない。

 しかしこの唐突なお婿さんという発想は、彼女がいつも母から言われていることに由来した。
 今の青木家には涼子と夏子の姉妹しかいない。この先も男子が生まれなければ、長女の涼子がそれなりの家から婿をとり、家を継がねばならぬ。この半ば強制的な教えは、鉄の掟のように彼女を捉えていた。

 無論、母が想定する婿は市ではない。しかし言われるたびに涼子が思い浮かべるのは彼である。早い話が、一番身近な異性は市であり、毎日のように一緒に遊ぶ市は大きな存在だった。

 市が好きかと問われれば、即座に「好き!」と答えるに違いなく、一人ぼっちになった彼を「じゃあ婿に」と言うのもごく自然だった。
 つまりは思ってもみないことではなかった。

 ただ彼女は意識しなかったが、そこにはこのむっちりと可愛い、それでいて賢くて小憎らしい年下の子供を、自分の思うままに支配したいという願望が潜んでいた。それも一種の愛情なのかもしれないが。


 さて、彼女がじっと反応を窺っていると、市はごく普通の表情でこっくりとうなずいた。

「え?」
(この子、あたしの言った意味分かってるのかしら?)
 意外な反応に疑念が起こる。照れ隠しもあって彼女はさらに念を押した。あるいは少しムキになったのかもしれない。

「市ちゃん、約束だよ。絶対だよ」
 市はもう一度こっくりとうなずいた。

 これを見たとたんに、彼女は市を抱きしめたい衝動に駆られたが、今はそんなことをしてはいけない、と思いとどまった。

 後年聞いたところでは、市はただ頼まれたから肯定しただけだという。だが、このときの彼女が知る由もなかった。
 しかし彼女は単純に、あー、これで市ちゃんはあたしのお婿さんになるんだと受け取り、前からの決まり事のように思えて来るのだった。

 このやり取りを真面目に受け取るなら、幼い二人の婚約が目出度く成立したことになる。無論、社会的な意味での形は整っていないが、それはこの際問題ではないだろう。


 言の葉とはよく言ったものだ。傍から見れば児戯の(たぐい)でしかないこの約束が、その後の二人の人生に重大な影響を与えていく。

 もっとも、運命はこの直後から彼女たちを引き裂くのだが。
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