こちらの福の神

文字数 2,489文字


 世の子供たちがそろそろ夏休みの宿題を気にする頃になった。

 孝子は、娘が将棋に関心を持つのは、ちょっと違う世界を覗くだけなら、別に悪いことではないと考えていた。彼女自身、好奇心が強く、なんでも自分で試してみたい性質で、おそらく娘もそうだろうと思うのだ。

 そもそも、彼女が娘の教育を考える場合、学校の勉強・学問は上位に位置しない。とりあえず女学校を出れば、あとは書物を読み、いろいろな人と交って、幅広い素養を身に付ければよい。また家事の他、着付けやお茶、お花といった伝統的な芸道を身に付けることも大切と思っていた。

 このような彼女の“夫人像”はいわゆる中流のそれだろう。大正から会社員などの中産階級が台頭してくるが、彼女の元士族としての誇りもその中に埋没していくのが、歴史の流れなのかもしれない。


 さて、夫人像はともかく、彼女は例の将棋所を訪れ、もし分かれば男の正体も確かめることにした。

 家事の一段落した午前中に、二人で出かけた。外はやけに蒸し暑い曇り空で、肌に服がまとわりつく嫌な天気だ。

「あれかしら」
「うん」
 その場所は、ゆっくり歩いて十分ほどだろうか。もう省線(中央線)の線路に近いあたりに在った。

 孝子は急勾配のあまり清潔とは言えない階段を見上げた。これはちょっとと思うが、上がってみることにした。右手で手摺に掴まり、左手でスカートを押さえ、用心して一段ずつのぼる。涼子が続く。

 二階は古ぼけた木の廊下で、番台のような小さな机に男がいる。右に一尺ほど高くなった八畳が二つ、柱だけあって壁も障子もなく間も抜いてある。そこらには脱いだ草履がきたならしく散らかっていた。

 室内は二面が窓で意外に明るいが、煙草の煙と何とも言えない空気が(よど)んでいた。中では男たちが盤を挟んで将棋を指し、何人か集まって見ている。ときおり年寄りのだみ声が響いた。


 胡散臭げな表情で、じろじろ見ながら番台が言った。
「何か御用ですか?」
「あの、お邪魔いたします。よければ少しだけ見学させてくださいませんか。娘が興味を持ちましたものですから」
「もちろん、いいですよ」

 わずかな間に好奇の視線がいっせいに突き刺さる。孝子はこの手の視線や態度には馴れっこだが、煙や臭気のせいか、急に気分が悪くなってきた。

「ごめんなさい。お邪魔いたしました。失礼します」
「あらあら、それはどうも」
「え、もう行っちゃうの?」
 涼子が不思議そうに見上げる。まだ五分もたっていない。

 孝子は無言で娘を促し、急な階段を急いで下りた。もう裾を気にする余裕はない。やっとの思いで建物を出たが、相変わらずじっとりと嫌な暑さだ。

 ひどく動悸がして冷や汗が流れる。それでも彼女は歩き出し、深く息を吸った。

(あんなところに娘を行かせては駄目だ!)
 そう思ったとたんに臭気がよみがえり、こみ上げて来た。思わず彼女は背を曲げたが、なんとかこらえてハンカチで押えた。

「お母さま、大丈夫? どうしたの?」
 涼子が覗き込む。
 しかし、大丈夫ではない。再びうっとこみ上げ、とうとうハンカチに沁み込ませてしまった。

 来るのではなかったと後悔したそのとき、声がした。
「奥さん、大丈夫ですか?」

 振り向くと、例の無精髭が、折りたたんだ薄い色の布を差し出している。孝子は手をかざして断ろうとしたが、涼子があっさり受け取ってしまった。
「それ使ってください」
 男はクルリと背を向けた。


 それは(さらし)のような布で、普通のものとは違い微細な皺と薄茶色の模様があり、手触りが良い。不思議なことに良い香りがし、涼子はくんくん嗅いでみる。
「お母さま、これ綺麗そうだし、いい匂いがするよ。使ってみたら?」

 孝子は背に腹は代えられず受け取った。片手でさらに二つに折って口を押えると、確かに良い香りがして手触りも良い。おかげで少し収まった気がした。

 そうして二人は()()うの体で家にたどり着いた。
(とんだ見学会だったこと‥‥‥あんなところで助けて貰うなんて、借りを作ってしまったわね‥‥‥)
 結局、例の晒も汚してしまい、道子が洗っても落ちなかった。

 どうやら悪い空気を吸って、たちの悪い暑気当たりが出たようだ。


 夜遅く博倫が帰宅し、どうしたのか尋ねるので顛末を話した。
 しかし、少し考えると彼は言った。
「孝子、それおめでたじゃないの?」

(あ、そうか!)
 そういえば規則正しく来ていたものが抜けていたっけ。隣の大凶事にかまけて気にしていなかった。

 夏子を身ごもったときのつわりは軽く、あれからもう五年ほどになる。感覚をすっかり忘れていたが、考えてみればそうかもしれない。もう子供はできないと思っていたが‥‥‥

 博倫は決まったことのように「元気な子を頼む」と言う。彼女も「もちろんです」と答えるより他はなかった。

 もし男の子なら後継ぎだ。諦めかけていたので、夫も期待は大きいのだろう。あまり言葉に出さなかったが、気にしていたようだ。

 でも、自分としては女の子でも良い。三姉妹なら賑やかだし、年頃には華やかになる。きちんと教育すれば、きっと良い婿が来るだろう。
 そう思うと彼女は素直に嬉しかった。

(あの無精髭の殿方は、人攫いどころか福の神じゃないの)
 彼女は可笑しくなった。


 後でその人物は桝山(ますやま)五段という本職の指し手と分かった。
 エツによると、布は近江晒というものらしい。おそらく最高級品である。

 明治の後期から、各新聞社が続々と新聞指し将棋(新聞棋戦)を掲載しており、いくつかに桝山五段も名乗りを上げていた。

 彼は重要な手合いの際に例の晒に香を焚いて持ち込むという。いつもは畳んで置いておくが、局面が緊迫して来ると二寸幅くらいに折って鉢巻にする。それで『晒の桝』と異名を取っていた。


 そんなに大事なものとはつゆ知らずに汚してしまったが、同じものを入手するのは難しかった。仕方なく、洗った晒に礼状と西洋タオルの高級品を添え、道子に持たせた。
 孝子は行かなかった。

 例によって涼子も同道し、桝山五段とも仲良くなったが、その後彼女が将棋所に通うことはなかった。涼子もあの雰囲気は好きではなかったようだ。
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