第二の黒船

文字数 2,419文字


 隆政は一月四日に奉天の関東軍司令部に恒例の挨拶に行った。

 錦州作戦のために司令部はてんやわんやだったが、ある参謀から重大なことを耳打ちされた。

「濠会長、内々の話です。軍事的な情勢次第なのですが、当地(満洲)で定期航空路線を運航する独自の航空会社の設立が、早まりそうです」

「なるほど、そうですか。それで軍事的な情勢とは、もしや北満のことですか?」
「その通りです。まあ公然の秘密なのでしょうが、くれぐれもご内聞に」
「はい、貴重な情報をありがとうございます」

 おそらくは、今ある国策会社の出先機関が分離独立し、それを関東軍が後援する形なのだろう。

 このような方向性は年末に内地で報道もされていたが、隆政は、実現までにもっと時間が掛かると踏んでいた。それが早まるのは、軍事行動の進行が一般の予想よりはるかに早いためでもあった。

 関東軍は航空輸送の重要性を知悉しており、国策会社や隆政らの貢献に重宝していた。
(それを内地の紐付きでなく、独自にこの地で展開させようってのも、実にうなずける話だ‥‥‥)

 事変以来、国策会社の方から二度ほど「一緒にやらないか?」と打診されていたが、彼は断っていた。
(だがこうなると、向こうの分離独立が実現した場合、俺たちは排除される可能性が高いな‥‥‥逆に一緒にやることを選択すれば、単に吸収合併されるだけだろうし‥‥‥)

(向こうはどっちでも良いだろうが、うちにとっては死活問題だ。三年前の黒船の再来ってわけか‥‥‥)
 つまり、これは第二の黒船であった。

 彼は市政に電話し、その足で奉天支所に向かった。以下は支所長室でのやり取りである。身重の咲子が紅茶を淹れてくれる。

「...とまあそういうことらしい。われわれも今のうちから具体的な対応を決めておく必要が出て来た。吸収されるか排除されて野垂れ死にするか、第三の道を選ぶか」と隆政が説明した。

「まあでも、答えは決まっているよね」と市政。

「うむ。しかし連中の問題は採算だな。いまの特別な運賃を例えば内地並みに近づけるとしたら、かなり苦しいだろう。国が相当な補助金を入れるか、それとも満鉄と組んだりするのかな?」

「ふうむ‥‥‥どちらもあり得るね。でもそれはうちの問題(仮に路線が維持できたとして)でもあるよね。開業はいつ頃になるのだろう?」
「それは分からん。しかし参謀の話では軍事行動の目途がついたら、一年以内ではないかとのことだ」

「軍事行動の目途とは、北満の占領のことだよね?」
「そうだ。あとはハルビンさえ押さえれば、ほぼ満洲全域が手に入るからな。それで一段落になるだろう」

「そのときソ連は出てこないのかな?」
「俺は出てこないと思う。(東支)鉄道をいじらなければだが。去年の十月からソ連は満洲に介入しない姿勢を見せているよな。あいつらは、五か年計画で国内がまだ大変なのだろう」

「確かに。ならば関東軍はとっくに準備を始めているだろうね。それにしてもそんなに早く満洲全体が占領されるとは驚きだね」
「うむ。張学良がさっさと逃げてしまったからな。となると、ハルビン占領も思ったよりずっと早くなるかもしれんな。しかし」

 隆政はいったん言葉を切ってまた続けた。
「そうなると満洲でのうちらの定期航空路線は、ますます難しくなったかもしれん。自動車の方の見通しはどうだ?」

「今のところは大繁盛だよ。これは当分変わらないと思う。しかしこちらも輸送を大々的にやるとなると、採算が難しいかもしれないね。何しろ道路が悪すぎるし、天候も厳しいからね。むしろぼくとしては、エンジン周りだけ買って車体を組み立てたらどうかと思っているけど、どう思う? 要は自動車の製造に少しばかり参入するわけよ」

「いや、それはどうだろう‥‥‥あまり手を広げない方が良いのではないか。俺ももう長くはないぞ」

「え? なんだよ兄貴、またそんな‥‥‥このところ少し良くなってたんじゃないの?」
「うむ。一時的に良くなったつもりだが、どうも最近またぶり返してきたようだ」
「そうなの‥‥‥? それは良くないね‥‥‥」

 隆政に万一のことがあった場合、市政は会長として異なる事業をまとめていく自信はなかった。貿易会社の方は全く不案内である。そのときは真田社長も収まらずに独立を願い出るかもしれない。関東軍とのパイプがあるので、市政としては航空事業を続けたいが、それも今の隆政の話ではなかなか厳しい状況になりそうだ。一難去ってまた一難‥‥‥

 かくして、二人は新年早々からなにやら張り詰めた雰囲気になった。

 
 そうとは知らず、市たちは仕事始めの日から精力的に飛行を開始した。錦州方面への飛行はわずか三日間で中止され、以後は長春やそれ以北への飛行に変わった。これは、予想通り関東軍が返す刀でハルビンに向かうことを意味した。


 それから少したったある日の午後、関東軍司令部の一室では、上司と部下の甲、乙の間にこんなやり取りが交わされていた。

「ところであの件はいつごろ決着する?」
「いろいろ揉めましたが、おそらく夏には回り出すと思います」と甲。

「そうか、あとは例の方だな。そちらはどうだ?」
「あちらもいい人材がいるので少し惜しいですが」と乙。

「といっても、つまるところはあの中学生だけだろう?」
「ええ、それはまあそうですが‥‥‥一応耳打ちはしておきました」

「ふむ。潰すには惜しいが、かといって、というところか」
「鶏肋の味わいというやつですか?」と甲がちゃかす。

「いや、月並みに『帯に...』だろう。‥‥‥まあよい。その件は乙にまかせる。まるく収めてくれ。必要な支援は甲がすること。目途がついたら報告せい」
「了解しました」「はい」

  * * *

 関東軍は二月五日にハルビンを占領した。それからひと月近く経った頃、満洲国の建国宣言が発せられた(三月一日)。当初の政体は民本政治で、国首たる執政には愛新覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)が就任した。彼は、清朝最後の皇帝・宣統帝である。
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