修行の山 1

文字数 1,445文字


 話は少し戻るが、市が大連に着いた数日後。
 彼は隆政に連れられ、市街の西方で所々崩れた山道を歩いていた。その山の奥まったところに古びた禅寺がある。

 そこは義和門系の拳法を修行する僧たちが寄宿しているところで、隆政は老師とかなり古い知り合いなのだ。

 ひょんなことから縁ができ、武術に関心を持つ隆政はごく短期間ここに通ったことがある。だが、残念ながら技を体得するには至らなかった。
 彼はそのときに寄進をし、その後もたまにこの地を訪れていた。

 ここにいる人々は、一九〇〇年に義和団の乱(北清事変)を起こした一派の末裔とも言うべき集団であろう。

 義和団は拳法などを手段として戦闘する宗教的秘密結社の連合体で、扶清滅洋(ふしんめつよう)(清を助け、西欧列強を倒す)を掲げて列強の軍隊と戦った。しかし、近代的軍隊には歯が立たず、最後は西太后や清朝にも裏切られ、弾圧されて消滅した。だが、その中のごく一部の人が生き長らえて拳法を伝えたようだ。

 それから二十年以上たった今、ここの人々が単なる宗門として活動しているのか、他に目的があるのかは分からない。そもそも、ここが誰の金で成り立っているかも分からなかった。

 ただ、少なくとも日本官憲の管轄下にあることは確かであり、そのあたりの事情は隆政の関知するところではなかった。

 ここには日本人は一人もおらず、また門徒以外が入り込まぬよう入り口は監視されていた。まれに来る迷い人も体よく追い返された。つまり一般社会とは隔絶された場所だった。


 市は、あの「ヒコーキ」以来、霧が晴れて急速に言葉を回復していた。いま二人は山門に通じる道の手前に来ている。

「お前はしばらくここで修業するのだ」
「いやだ」
「ここは面白いぞ」
「いやだ」
「ここは優しいお兄さんがいろいろなことを教えてくれるぞ」(優しいは嘘だが)
「いやだ」

「馬鹿! いい加減にしろ」
 隆政が興奮気味にまくしたてた。

「あのな、お前の父親もこういう修行を積んでいれば、あんな目には合わなかったのだ。あれは偶々の巡り合わせによる不幸な事件だったが、あいつは弱いから命を失ったのだ。その結果が今のお前だ。あれが無ければお前は今も東京で暮らしていたろうし、いずれは父の家業を継いだだろう。しかし、お前はその道を奪われた。だからお前はここに居る。いいか、だからお前はここで修業するのだ。いや、しなくてはならんのだ。分かったか」
「‥‥‥」

 最後は少し理屈がおかしいが、これは彼の本音である。市についてずっと考えた結論が、ここでの修行だった。

(お前はしばらくここで過ごして武術の基本を身に付けるのだ)

 市はもちろん彼の言葉を全ては理解できないにしても、意味は分かった。とはいえ、同意も何も有るはずはなく、強制的にここに放り込まれた。


 ところが、いざここで生活するようになると、彼は苦も無く順応した。それは、怖いとか、悲しいとか、寂しいといった感情をほとんど持たなかったことが大きい。

 朝は門弟が叩く銅鑼(どら)の音で始まる。外は夜明け前の黎明だ。ここは井戸も水道も無く、水は貴重品だが、汲み置きの水で口をすすぎ、顔を洗い、お堂に座って瞑想する。
 それから中庭のようなところで突き蹴りの稽古をやる。このとき皆もの凄い掛け声を出す。

 次いで山の中に出かける。ここは高い山ではないが、尾根や谷を上り下りし、非常にきつい。当然ながら市は付いていけず、しょっぱなから追い返された。どうやら二里ぐらいは歩いたり走ったりするらしい。

 午後の最初は現代で言う筋力の鍛錬だ。
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