運命の日 2

文字数 2,080文字


「大きそうね」

 孝子は素早く博一を確認した。大丈夫そうだ。しかし、天井のあたりがミシミシいっている。

「涼子、夏子、テーブルの下に入りなさい、急いで!」
「はーい」

 それと同時だ。グラグラグラグラっと大きな横揺れが来た。
 これまでにないもの凄い揺れである。
 娘たちは際どくテーブルの下に隠れることができた。

 が、たまらずに悲鳴を上げる。
「キャー、お母さま~」
「大丈夫、じっとしていなさい」

 しかし激しい揺れが容赦なく襲う。孝子ですら、つかまっていないと振り飛ばされそうだ。
 机の上の皿や茶碗が床に飛んでガシャーンと割れる。
 廊下で立ち上がり掛けていた道子が「ヒっ」と声にならない奇声をあげ、ぺたんと尻もちをついた。腰が抜けたようだ。

 がくんがくんと椅子もテーブルも踊っている。
 テーブル下の涼子は震えながら夏子を抱きしめ、背を丸めて目を閉じた。この方が怖くない‥‥‥かもしれない。
 夏子は恐怖のあまり声も出せず、ひきつけを起こしそうになっている。

 博一のベッドもぐらんぐらん動き回り、今にもふっ飛びそうだ。少し離れて箪笥(たんす)も踊っている。それを見ると、孝子は四つん這いでベッドを押さえに行った。
「道子さん、瓦斯の火見てきて!」
「あの‥‥‥」

 道子は尻もちをついたまま動けない。
 エツはと見ると、よろよろ立ち上がろうとしている。
「お義母さま、危ない! 座っていてください!」

 瓦斯の火は止めたつもりだが、確かではない。火事になったら大変だ。しかし、彼女はベッドを押さえるのが精いっぱいで動けない。もし天井が落ちたら自分が楯になるのだ。

 大きな揺れはまだまだ続いている。どこかでガシャーンと何か壊れる音がした。二階かもしれない。
 とうとうエツが前のめりにばったり倒れた。

 と、少し揺れが小さくなる。孝子はどちらに行くか迷ったが、取り敢えず台所に這って行き、裸足のまま「えいっ」と土間に降りた。湯を沸かしていた薬缶(やかん)が転げ落ちており、足が熱い。

(いけない! 元栓が開いている!)
 しかしコンロの火は消えていた。おそらく瓦斯の供給が断たれたのだ。危なかった。

 揺れる中、彼女は必死の思いで立ち上がり、元栓を締めた。そのとき、揺られたせいで(かまど)に右腕が触れ、火傷(やけど)した。しかしそんなことに構っていられない。

 揺れはガクンガクンとまた強くなってくる。
 這いながら居間に戻ると、博一のベッドは場所が変わっている。でも、大丈夫だ。またその足を押さえる。
 しかし箪笥は引き出しが出てきて、とうとうガタンと倒れた。
 あいかわらず天井がミシミシ鳴っている。

(まさか、家が潰れるの‥‥‥?)
 この拷問のような恐怖の時間を、孝子は耐えねばならなかった。いま家族を守れるのは彼女しかいないのだ。


‥‥‥そんな状態がどれだけ続いただろう? 
 そのうちに、ようやく揺れが小さくなってきた。

 彼女は中腰になり、倒れたまま動かないエツに近づくと、右の手首を押さえている。
「お義母さま、大丈夫ですか」
 エツを支えて籐椅子に座らせ、左手をどけてみたが見た目は何ともない。捻挫だろうか?
「うん、大事ない。わしは大丈夫じゃ。心配かけて済まんの」
「いえいえ、まだ座っていてください。涼子は怪我してない? 大丈夫?」
「うん」
「夏子は?」
「多分大丈夫」
 涼子が代わりに答える。
「動かないでね。お皿が割れてるから」
 ご飯も味噌汁も床にぶちまけられている。
「道子さん、雑巾たくさん持って来て」
「う‥‥‥、あの‥‥‥」
 まだ動けない。
「何してるの! しっかりして!」
 道子が大声で叱られるのは初めてだ。
「は、はい、おく様‥‥‥申し訳ございません」

 道子はようやく動き出したが、まだ這っている。
 少し弱まった揺れが続く中、孝子は大きな破片を横にどけ、雑巾で水気を吸い取り、台所の土間から箒と塵取りを持ってきて使う。
 痛みに気づくと右腕の火傷が赤く腫れ上がっていた。

 その後も、余震なのか大地震の続きなのか分からないが、揺れては収まり揺れては収まりが続いた。女たちは倒れたものを起こしたり散乱したものを片づけた。


 なおも断続的な余震が続く中、夕方に博倫が帰ってきた。乗り物は自転車である。
「朝から碌(ろく)に食べてないんだ。何かあるかい?」

 しかし、お(ひつ)に残ったご飯は皆で食べてしまい、たまたま残っていたパンしかなかった。瓦斯も水道も止まっている。

「お義父さまが、まだお戻りにならないの」
「そうか‥‥‥」
 孝子の報告を聞きながら、彼は持ってきた水筒の水でパンを流し込み、「これから徹夜が続く。あとは頼む」と言い残して出て行った。
 どうも下町の方が大変らしい。
 

 夜になっても陽蔵は戻らない。
「お義父さまのことですから、きっと大丈夫です。ご無事で戻ります」
「そうじゃ。だんなさまは弾の下をくぐり抜けた人だからの、こんなことでどうこうなりはせん」
 エツが言う弾の下とは、遥か昔、西南の役の話であった。

 それから一家は残ったものを少しだけ食べ、不安の中で早く床についた。電灯が点かず、灯りがないのだ。
孝子は陽蔵がそのうちに歩いて戻ると思った。
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