事変の後方(一) 2

文字数 2,236文字


「まあまあ、落ち着いてください、荒木さん。実はわれわれが一番適材だと思うのは貴方なのです。なにしろ元陸軍航空隊の腕利きパイロットですからね。ただまあ、貴方も結構年ですから、補助要員として市之助君に来てもらうともっと良いかもしれないと思うだけです」

「なんですと? どうして彼が行くんです? 彼はまだ中学生ですよ」と市政。
「はい、もちろん存じています。無理にとは言いません。しかし彼はすでに一人で飛行機を操縦しているでしょう? われわれはそのことを問題と認識しているのです」
 それは違法行為だと暗に指摘している。

「まさか、一人で操縦なんてしていませんよ」
 市政が気色ばむ。
(こいつは何か確証を握っているのだろうか)
 隆政はそう思いながら他の二人をさえぎって言った。

「なるほど、貴殿のお話は分かりました。われわれが徴用に協力すれば市之助の問題もなくなるということですか?」

「はっきり申せばその通りです」
「そうですか。よーく分かりました。あとは私どもで検討いたしますので、他になければお引き取りください」

「重ねて申しますが、貴殿らに選択の余地はありません」
 立野は薄笑いしながらおもむろに席を立った。


 その後、三人は少しのあいだ黙りこんだ。重苦しいというより、呆然としたという方が近いかもしれない。関東軍の軍事行動はある程度予測できたことだが、市のことをあげつらわれたのは三人とも意外だった。

「奴は特務機関かな? 司令部でも見たことがないな、あれは」と隆政。
「どうもそのようですね」。荒木が答える。
「あんなこと言わなくても出せと言われりゃ出すのにな。要するに奴らは機体さえ出ればいいのだろう?」

 隆政はその点が腑に落ちない。彼と関東軍の付き合いは、以前の関東都督府の頃からで、もう二十五年近くなる。お互いよく知っているはずなのだ。無論、徴用に応じない選択肢もない。

「それは分かっていて、ついでに言っただけのような気もするね」
 市政が言った。

 ちなみに航空法では、パイロットや航空士になれる民間人は十七歳(一等は十九歳)以上である。たとえ荒木が同乗しても、十四歳の市が操縦すれば違法と認定される可能性が高い。この点を危惧して、市の飛行目的はすべて遊覧飛行と届けていたが、飛行訓練をしているのは公然の秘密だった。

「市の(操縦の)ことは、俺は当局に黙認されていると考えていたが、甘かったか‥‥‥何かの折に材料にしようと温められていたのかもしれん。奴らにはどうでも良い話だろうが、まあ、要塞の近くをぶんぶん飛び回られて目障りだったということか?」

「しかし、坊ちゃんの能力からすれば、試験さえ受ければ学科も実地も難なくパスするはずですよね。一等操縦士でも‥‥‥。文句を付けられる筋合いはないでしょう」

「うむ。‥‥‥だが、向こうが建前論で難癖を付けようと思えばどうにでもなるということだな」
 隆政がまとめるように言った。

 それはともかく、この話を拒絶すれば、市がどうこうどころか濠運輸の飛行機部門の存続すら危うくなりそうだ。
「それで荒木君、どうする? どうしても嫌だったら棚橋君に行ってもらうが」
 棚橋は入社時に二等飛行機操縦士だったが、前年度に一等の資格を獲得している。

「いえ、棚橋ではいざというとき危ないかもしれません。それに私が行かないと、また坊ちゃんが言いがかりを付けられると思います。私が参ります」
「そうか、済まないな。ありがとう」
「荒木さん申し訳ない」

 二人は頭を下げた。意外にも、荒木は軍関連の仕事を拒否しなかった。


 この頃、市は土曜の午後から山に泊まり込んでいた。やはり週二日行くだけでは物足りなかったのだ。そのため、隆政が市と話すのは日曜(二十日)の夜になった。彼は荒木が徴用機のパイロットになるため、しばらくいなくなることを伝えようとした。

「お前もすでに聞いたかもしれんが、こんどの事態で濠運輸から関東軍にスーパー機を一機供出することになった。パイロットは荒木君で、その他整備チームもおおぜい出かけることになる。ということで、お前の飛行もしばらくできなくなるぞ」

 ところが、市の返事は彼を仰天させた。
「伯父さん、ぼくも荒木さんと一緒に行くよ」
 さすがの隆政も少し慌てた。

「おい待て! 行くのはお前じゃなくて荒木君だ。お前は関係ない。それに今度はいつもの飛行とは違うのだ。軍の後方支援だぞ。お前その意味が分かってるのか?」
「もちろん分かってるよ。だから行くんだよ」

「馬鹿! 何を言うか! お前のような子供が行ったって足手まといになるだけだ。それにいつも言ってるだろうが、軍隊とは関わるなって! 関東軍だってお前などに来られたら困るはずだ。前にも言ったが、ともかくお前は大学まで行くことを考えろ」

「でも伯父さん。伯父さんは分からないかもしれないけど、荒木さんだってもう若くないんだよ。任務中に過酷な状況に晒されたら何が起こるか分からない。だからぼくが手伝って少しでも負担を減らしたいんだ。ぼくは、うちのみんなを助けに行くんだよ。それにさ、関東軍はぼくが行って困ることはないんじゃない? 行こうが行くまいが関知しないと思うけど」

 隆政はまじまじと市を見た。こいつはいつの間にこんな理屈をこねるようになったのだ? ちなみに市は中学三年である。普段なにげなく見過ごしていたが、目の前の子供はもう彼と同じぐらいの目方があった。

「しかしな、お前。中学はどうするのだ。俺は絶対認めないぞ」
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