第44話

文字数 1,936文字

 翔太は動揺していた。どうしようかとまだ迷っていた。本気になって、一緒に暮らして、ダメだったらどうしよう。別々に住んで、楽しい時間だけを切り取って一緒に過ごしていれば、何ごともなかったようにまた独りの生活に戻れる。あんなに「一緒に住みたい」と願っていたのに、いざああ言われてしまうと、決心がつかない。
 この部屋を引き払いさえしなければ、またいつでも戻ってこられるから。だからこの部屋を保険として、試しに一度行ってみようか。
 翔太は机の上に飾っていたウミガメのぬいぐるみを手に取って、つぶらな瞳に話しかけた。
「うーちゃん、俺と一緒におヨメに行こうか。一緒に行ってくれる? キミを連れ帰ってくれたひとのとこだよ」
 ウミガメだから「うーちゃん」。沖縄からの帰り道、行人とそう名付けた。
「おヨメか、おムコか、どっちか分かんないしどっちでもいいけど。ねえ、うーちゃん」
 うーちゃんは初めて出会った日のままに、にこにこと笑って答えない。
 翔太はぬいぐるみを机に戻し、スマホをつかんだ。
『俺、おヨメに行くかも』
 そう菜摘に打ってみた。すぐに既読がついて返信が来た。
『へー。あんた、家事できんの』
『多分、やらせてもらえないんじゃないかな。てか、洗った髪乾かすのとか、爪切るのとかも、自分でやらせてもらえない気する』
 一瞬の後に、菜摘からは『Go to Hell!』の文字とともに親指を下に向けたスタンプが届いた。翔太はプッと吹き出した。
 ひとり分の茶を淹れてみる。今日は行人がいないので、手抜きをしてティーバッグだ。湯気に気を付けながらバッグのしずくを切っていると、スマホが鳴った。
(あ、翔太?)
「菜摘ちゃん……」
(何? あんた、プロポーズでもされたの)
 おっと。菜摘といい内海といい、女子はどうしてこうも直球なんだろう。翔太はたじたじとなった。
「……うん。そんな感じ」
 菜摘はひとしきり悔しがったあと、優しい声でこう言った。
(よかったね。翔太はいい子なんだから、いいひとと幸せになれるよ)
「うん……ありがと」
 翔太の歯切れが悪いので、菜摘はツッコんできた。
(何。あんた、まだ何かあるの)
「……俺なんかでいいのかなって、思うんだ」
(はあ?)
 菜摘の声が跳ね上がる。
「のろけだって思われると思うけど、そしてその通りではあるんだけど」
(うん。腹立つけど、いいよ。続けて)
 翔太は自分の気持ちをひとつずつ整理しながら、ポツポツと語った。
「前にも言ったと思うけど、そのひとホントにイケメンで、カッコよくて、すっごい優秀なひとなんだよね。その上、よく気の付くひとで、優しくて……。俺、ムチャムチャ溺愛されてんの。俺が何をしても、何か言っても、『カワイイ!』って喜んでくれて。料理もうまいし、俺の好みとかもう完璧把握してて、どこ行っても俺の好きなものを、絶妙のバランスで注文してくれる。俺、物覚え悪いけど、何度でも丁寧に教えてくれて、ここぞってところでは必ずフォロー入れてくれて」
(…………)
 受話器の向こうから菜摘のイライラが伝わってくる。翔太は続けた。
「あんなカッコいい、仕事のできる、よく気の付くひとが、何で俺なんかって……」
 翔太は泣きそうになった。そうか、これが核心か。
「だって、そのひと、若い頃バンドとかやってたんだよ。モテまくってたろうし、俺なんかよりずっといい男と、たくさん付き合ってきたに決まってるんだよ」
 翔太はグスッとすすり上げた。
「じゃあ、何で俺なんかって。比較されたら、絶対敵わないのに……!」
 菜摘は大きく息を吸い、投げやり気味に言い放った。
(だからなんじゃないの!)
「菜摘ちゃん?」
(何言ってんのよ、ばかね。そのイケメン、今までいっぱいモテてたんでしょ? その上で、『翔太がいい』って判断したんだから。それだけの経験があるから、あんたの良さを理解できたってこと。もっと自信持ちなさいよ。っていうか、そのひと、あんたのことが好きなのよ。だったら側にいてやりなよ。あんたもその彼氏も、幸せになる権利があるんだから)
 翔太は「そっかな……」と呟いた。
(そうよ。もう迷うの止めて、とにかくヨメにでも何でも行っちゃいなさい。あれこれ考えてると、あっという間に歳を取るから)
 最後の方は、きっと自分への反省だ。翔太は笑いをこらえて「分かった」と返事した。
(翔太?)
「ん?」
(……おめでと)
 昔から大の仲良しだった姉。翔太はこの姉が大好きだった。
「ありがとう」
 通話を切って、菜摘のマシンガントークで疲れた耳を指でさすった。
(そっか。幸せになっても、いいんだ)
 翔太は紅茶の香りの中でそう思った。胸の中のいびつな空洞に、ぴったり合うピースが嵌まった気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み