第15話

文字数 2,549文字

 八月になった。俗に「ニッパチ(二八)」と言われる通り、どの商売も振るわないタイミングである。行人に言わせると、「目先の数字が小さくなって、危機感最大になる瞬間が最大のチャンス」となる。ここで年末の数字を作る提案を持ちかけるのだと。
 そのための仕込みを、翔太たち営業一係のメンバーは、先月からミッチリ行っていたのだ。
 準備万端。通常業務を前半にこなして、後半は新規や拡売に当てる予定だ。
 八月の前半が終わったところで、翔太はお盆休暇を列車に乗って実家へ向かっていた。
 翔太の実家は、札幌から列車で五時間の北見にある。もうあまり帰ることもないが、今年はちょっと顔くらい出そうかと向かってみることにした。
 行人からは「往復切符は買わないで」と言われていた。
「行けないかもしれないけど、なるべく行くから、合流してどこかへ遊びに行こう」
と行人は言った。行人がこういう言い方をするのは珍しい。そのとき、「一応名刺は持っておけよ」とも釘を刺された。翔太はこういうことは、自分では思いつかない。
 実家に着いて、しばらくぶりの仏壇に手を合わせ、以前自室だった部屋に荷物を下ろす。今はすっかり母の納戸になっているようで、ふとんを敷く空間だけを急いで空けた感があった。一泊だけなので、とくに支障はない。
 暑い街だった。
 夕食が済み、汗を流したくて久しぶりに実家の風呂に入った。石けんもシャンプーも、翔太が住んでいた頃とは様変わりしていて、どれをどう使っていいか迷いながら身体を流した。
 風呂から上がり、バスタオルで髪をゴシゴシこすっていると、ひとの気配がした。姉だった。
「翔太、麦茶飲む?」
 姉はぶっきらぼうにそう言った。翔太は警戒しながら、「うん、飲む」とだけ返事した。
 食卓のテーブルに、姉はふたつのコップを置いた。母はすでに休んでいる。
「ありがとう」
 翔太は礼を言って姉の入れてくれた麦茶を手に取った。
 大学生のとき、それまで仲のよかったこの姉にひょんなことからゲイバレして、気まずくなった。「だから帰らない」ということもないが、なんとなく実家に帰るのが間遠になった。姉は姉で、ロクでもない男とくっついたり離れたりして、結婚するのしないのとザワザワしていたようだった。
 姉の菜摘が唐突に言った。
「あんた、好きなひといるの?」
 翔太は麦茶をひと口飲んで、おもむろに答えた。
「いるよ」
 菜摘はコップをくるくる揺らして、また訊いた。
「男?」
「うん」
「付き合ってるの?」
「うん、半同棲みたいかな」
 翔太は今さらこの姉に嘘はつかない。つく必要もない。菜摘はテーブルにコップを置き、翔太の顔を正面から見た。
「幸せ?」
 翔太は面食らった。幸せ?
 自分は幸せかと自問自答した。
 翔太は、自分の頬がふっと緩むのを感じた。
「うん。幸せだよ」
 行人の長い指が自分の頬を撫でる瞬間。狭いベッドで重なり合いながら眠りに落ちる瞬間。厳しい叱責に他の誰にも分からない行人の照れが見え隠れする瞬間。どれもこれも、めまいがしそうに幸せだ。
 菜摘はそんな翔太にチラッと笑顔を見せた。
「そっか。よかったね」
「ありがと」
 翔太も素直にそう答えた。
 菜摘は椅子を引いて腰かけた。
「あんた、お正月にも帰ってこなかったからさ。もうあたしたちのことなんか邪魔なのかと思ったわ」
「それは違うよ」
 翔太はコップをテーブルに置き、自分もそこへ腰かけた。
「年末年始は、そのひとと旅行に行ったから。同じ会社のひとだから、休みを合わせて取れなくて。だから、ふたりとも休みの年末年始期間だけなんだ、一緒に何かできるのは」
 それと、短いけれど、夏のお盆休みと。
「菜摘ちゃんは? あの彼氏どうしたの?」
 菜摘はプリッとそっぽを向いた。
「言わない!」
「菜摘ちゃん?」
「幸せボケしてるひとになんか、言ってやるもんですか」
「あはは……」
 相変わらず不幸街道まっしぐららしい。


 翌朝、翔太が食卓テーブルでコーヒーを飲んでいると、行人からLINEで、「レンタカーで旭川まで行く」と言ってきた。じゃあ、早く出ないと。ここから旭川まで三時間半かかる。
 翔太は列車を降りた。改札は東西に二ヶ所ある。翔太がくるくると見回すと、すらりとした行人の姿が目に入った。
「よお」
 プライベートの行人は、派手な柄のシャツに半ズボン。洗いっぱなしの髪が無造作に顔にかかる。そしていつもの赤い縁のメガネだ。
「ユキさん!」
 翔太はそちらへ駆け寄った。
「昼飯食ったか?」
「いいえ、まだ」
「じゃあまず、そこからだな」
 行人は車を出した。
 午後はどこかへ行くにも半端な時間だ。このまま札幌に帰ってしまうのももったいない。そう言って、ふたりは動物園でペンギンを見た。行人は「可愛い可愛い」と大喜びだった。翔太は、このひとには何でも可愛いのかと思った。言葉少なになった翔太をのぞきこんで、行人は言った。
「どうした? 疲れた?」
 いつもはピシッと整えられた行人の髪が、ふわっと風に揺れる。髪を下ろしているといつもより若く見えて、これはこれでドキッとする。
「別に。何でもないです」
「何でもない? ホントに? じゃあショウちゃん、何か怒ってるでしょ」
「怒ってないです」
「またまたぁ」
 行人は翔太の顎をとらえた。
「どうしたの。言ってごらん」
 翔太は慌てて数歩下がった。こんなところで。誰が見てるか分からないのに。
「……ペンギンが『可愛い』って」
「ん?」
 翔太はこれから自分が言うことが、ものすごくバカらしいことに気付いて死にそうになった。
「ペンギンも可愛い、俺も可愛いって。ユキさんにとって、俺ってペンギンと同じなんですか?」
 恥ずかしい。マジで死ぬ。翔太が歯を食いしばっていると、行人が歓喜に瞳をうるうるさせていた。
「カワイイー!! 何それショウちゃん、ペンギンさんに嫉妬してたの?」
「し、し、嫉妬!?
 翔太の頭からはピーと湯気が出そうになる。
「カワイイなあ。心配しなくても大丈夫だよ。ペンギンとショウちゃんは違うから」
 行人は翔太の頭を脇に抱えて、耳許で言った。
「だってペンギンは、俺に抱かれてあんな可愛い声出さないでしょ?」
(わああああ)
 翔太は思いきり行人を突きとばした。行人は色つきのメガネの奥で、幸せそうに笑っていた。

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