第1話

文字数 4,043文字

「お早うございます!」
 何とか間に合った。
 そりゃ社会人としては「五分前行動」だとか、朝は始業三十分前に出社して一日の段取りをつけてだとか、一般常識的な縛りがいろいろあるが、要は日本の旧社会がブラックだったってことで、翔太は時間内にしっかり働けば充分だと思っている。だが一方、自分が時間を読めない体質だという自覚があったり、入社まだ三年目で仕事の覚えもいまいちで、いちいち上司のスーパーバイズをもらわないと満足に動けない自分が充分働けているかどうかアヤシくもあった。いきおい朝は地下鉄駅からここまで駆け通しになる。
 翔太は事務所二階のマーケティング部営業一課のドアを勢いよく開けた。肩に斜めがけにしたかばんが、上下に激しく動く。
「何だ、その斬新な髪型は!」
 翔太の席の向こうから鋭い声が飛んできた。係長の西川行人だ。
「は?」
「『は』じゃない。朝起きてから一度でも鏡を見たのか? わざとだったらそのセンスは絶望的に会社員向きじゃないし、わざとじゃないなら中学校からもう一度やり直して来い。『身だしなみも営業マンの必須スキルだ』なんて言葉が虚しく響くわ」
 朝から勢いよくたたみ込まれ、その語気に翔太は吹き飛ばされそうだ。
「えーと……」
 何とかその場に踏みとどまり、翔太は頭皮から数センチ離れた空間を手のひらで探った。別に髪型を変えた積もりはないが。
「加藤さん、寝グセ」
 隣の席の新入社員、内海きららが口の横に手を当てて教えてくれた。お怒りの係長を刺激しないよう、小声で。
「え、ホント? どこどこ、どの辺?」
 翔太は慌てて両手の手のひらでハネている場所を探すが、よく分からない。
「あ、わたし、鏡とクシ持ってます。直しましょうか」
 内海が出してくれた助け船に、済まなそうに「お願いします」と言いかけた翔太に、さらに鋭い声が刺さる。
「便所に行って、自分で直せ! それも仕事だ」
 翔太は素直に「はい、行ってきます」と返事して、今来たルートを引き返す。内海がさっきよりさらに小さな声で、
「あんな言い方することないのに」
と耳打ちした。
「いや、係長の言う通りだよ。俺がだらしないから。それに……」
 翔太は呟くように付け加えた。
「係長がなぜあんな言い方したかは、分かってる」
 翔太のその言葉に、内海はちょこんと首をかしげた。
 手洗いの鏡に身をよじって後頭部を映すと、確かにひと筋ぴょんと跳ねていた。
 和毛も愛らしいひよこの、しっぽのようなカーブだった。
 
 今日は金曜日。取引先も忙しいため、翔太たち一係の係員はなるべく外回りに出ず、事務所内で書類仕事を片付ける。一係を束ねる係長の西川行人から、本年度の年末商戦への作戦書案の提出も迫られている。
 向かいの席の原田が言った。
「まったくよー、何でも早め早めがカギだからっつって、まだ七月だぞ。今から年末商戦ったって、先のこと過ぎて、取引先の状況も読めねえって。年末の製品ラインナップだってよく分からんのに。分からないものをどう売るかなんて、年間計画以上のことは考えられないよな。なあ、加藤」
 明らかに係長の西川への当てこすりだった。西川の机とはものの二メートルと離れていないのに、よく言う。何かにつけ文句の多い原田だが、自分ひとりが上司の悪口を言ったことにならないよう、最後の部分で翔太の同意を要求してきた。面倒なヤツだ。
 原田は今年三十一。中途採用で入社したとのことで、社歴は四年そこそこらしい。西川係長は新卒入社五年目で、現在二十七歳。原田は自分より歳下でキレ者と評判の、西川の下で働くのが不満なのだ。
 翔太は「面倒だ」と思ったのを勘付かれない程度に、テキトーに返事をした。
「原田さんは俺なんかと違って、営業のプロじゃないすか。前半の数字で、後半の動きも読めるんでしょ? 羨ましいなあ。俺なんか、いつになったらその域に達するんだか。グラフ見てもチンプンカンプンで、全然ダメっすよ」
 こういう手合いは、とりあえず褒めておけば何とかなる。原田は口の端でにやりと笑った。
「いやあ、一応俺もこの仕事長いしよ。このくらいはできなきゃマズイって話」
 原田は気分よくPCに戻り、キーボードを叩き始めた。
 概算でよいので、根拠のある数字と、それに基づいた行動計画。西川の求めるものはいつもシンプルだ。翔太は前年の数字と今年前半までの数字を紙に焼いて並べ、意味ある何かを抽出しようと眉を寄せた。紙同士が触れ合ってかさかさと音がする。翔太の机の上は雑多な紙でいっぱいだ。
 翔太はとにかく忘れっぽい。大学を卒業してこの会社に入り、一番に覚えたのは、忘れちゃいけないことをとにかくメモすることだった。翔太の机の上はふせんだらけになっている。五センチ×五センチのふせん1枚にタスクを一つ書き、片っ端から貼っておき、片付けるたびに剥がして捨てる。社内の業務は大体これで何とかなっている。社外とのやり取りや、時間が関係するタスクについては、係共有のWebカレンダーに入力して、リマインドを鳴らす。鳴らす時間も、早すぎると油断して逆に約束に遅れるし、遅すぎると間に合わないので、エッジを利かせた「いい感じのギリギリ」にしないといけない。早め早めの行動で効果を最大にして業績を伸ばしてきた西川係長とは正反対だ。
 翔太は自分が担当する食品卸「モリノー」を中心とした販促計画をA4の紙数枚に書き出して、西川の席へ向かった。
「係長、一応こんな風に考えてみたんですけど」
 西川はPCのモニターを見たまま、翔太の手からペーパーを受け取った。
 翔太は、西川が目を伏せて翔太の書いた汚い文字を読み込むのをじっと待った。西川の服装は「身だしなみも営業スキル」と言う通り、寸分の隙もない。長い指にキレイに切り揃えられた爪、白でパリッと糊のかかったYシャツ。細身の身体にピッタリ合わせたスーツは明るめの色が多く、離れたところからでも彼だと分かる。髪だけはやや長めだが、決して無精で伸びているのではなく、このくらいの方が取引先のお姐さまからのウケがいいのだそうだ。
 係長席の前に直立して待っている翔太からは、彼の睫毛の長さがよく見える。肌もすべすべだ。同じ人間なのかなあと翔太は思う。どんな遺伝子が作用すると、こんなイケメンが生まれるのだろうか。
 翔太の下で、西川が息を吸い込む気配がした。来た。イケメン観賞の時間は終了。翔太は手にペンとメモを構えた。
「何だこのとりとめない羅列は! いつ、誰が、どこで、何をするか、サッパリ分からない。予測と行動、それに必要なものと所要時間を、時系列で整理しないと、読んだ相手に伝わらないし、後で自分が読み返しても分からんぞ。そんなじゃ行動できんだろ」
 今年はこの食品メーカー「アサヅカフーズ」がのるかそるかの一大転機だ。
 アサヅカフーズは長いこと業務用スープや調味料を中心に、地域に根付いた固い商売をしてきた零細企業だったが、業界再編の嵐に呑まれ、全国メーカーに押されてジワジワと取引額が減少していた。新しい商品が必要だった。かといって、工場のキャパが増える訳もない。そこで西川たち若手のPT(プロジェクトチーム)が、業務用・個包装の惣菜シリーズ「Pro's キッチン」シリーズを開発した。同じく青息吐息の地元企業と手を組んで、他社の工場で生産・納入してもらい、アサヅカが営業を一手に引き受けるのだ。
「Pro'sキッチン」は取引先の卸の協力もあり、アサヅカ初のヒット商品となった。自社工場の増設なく新規の売上をプラスできた。古くからいる社員には、彼ら若手PTの動きを快く思っていないものもいたが、とにかく座して死を待つジリ貧状況から脱出できる可能性が見えた。
 西川たち社長の命を受けた若手数名がPTを立ち上げている、ちょうどそのときに翔太は入社し、彼らが逆風の中新商品の発売まで漕ぎ着けたのを間近で見てきた。納入価が自社製造より上がって利幅が小さいこと、協力企業との関係維持などから、小ヒットで満足してはいられない。クリスマスや忘年会の季節に、いかに拡売できるか。
 社命がかかっている。地方の一弱小メーカーから、食品商社へと生まれ変わるのだ。 PTの実質的リーダーである西川のためにも、営業の自分たちが数字を作らないと。翔太はそう思っていた。
 西川は「分からない」と言いながら、翔太のイメージをよく拾い、翔太がやろうと思っていることの大枠は承認した上で、いくつもの項目についてすごいスピードで修正を指示した。
 西川の厳しい指導が終わりを迎えた。嵐は終わった。
「あと、字が汚い。読めない。以上だ」
 西川は翔太の下書きを机に放り出した。
 翔太は西川の指導項目をメモし終え、机の上にふわりと放り出されたペーパーを回収して自席に戻った。
 隣の席では内海が嵐の煽りを受けて震えていた。
「今日もすごかったですね。加藤さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。今週中に形にしたかったから、あのくらい言ってもらってよかったよ」
 さすがにぐったりしながら翔太は笑った。四月に入社したばかりの内海は、OJT(On the Job Training 業務を通じての指導・育成のこと)を担当する原田と組んで仕事をしている。今回の作戦書も原田が中心に作成しているようだ。翔太はおととしの四月に入社してからずっと西川がOJT担当なので、あの調子には慣れっこだ。
「『今週』って、今日金曜日ですよ。どうして加藤さんってあんなに言われて平気なんですか? もともと打たれ強い性格?」
「どうかなあ。打たれ強くはないと思うけど。あのひとの指摘は全部妥当だよ。これを活かして練り直す」
 先輩を励ましたいのか、慰めたいのか、内海は自分の抽斗からクッキーの小さな袋を取り出した。
「これ、あげます。脳みその栄養にしてください」
「おー、サンキュー」
 翔太はクッキーの包装をペリッと破り、中身を口にくわえて新しいA4用紙を机に広げた。


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