第36話
文字数 2,022文字
広いベッドでいつしか翔太は眠りに落ちていたようだ。
「ん……」
まどろみの中、翔太は行人の体温を探った。腕を伸ばしてもあるべき温度が手に触れない。翔太はハッと身を起こした。
「ユキさん……?」
ベッドに行人はいなかった。部屋の中を見回しても行人の姿はない。風呂場ものぞいてみたが、行人はいなかった。
翔太はベランダへ出て、外を見下ろした。
プールの脇を人影が歩いて、ビーチへ向かっていた。カーディガンに薄い色のパンツ。翔太の目にそれは行人のように見えた。
翔太は急いで衣服を身につけ、スニーカーのかかとを踏みつけて部屋を出た。
月明かりが敷地を照らしていた。昼に見たのと同じ景色が裏返されて、異世界に堕ちたようだった。プール脇を抜け砂地へ出た。もどかしさに翔太はスニーカーを脱ぎ捨てた。
波打ち際に行人が立って、海を見ていた。
「ユキさん……!」
ようやく翔太が追いつくと、行人がゆっくりと振り向いた。
「お、どした。怖い夢でも見たか」
翔太は行人の肩に額をつけ、微かにうなずいた。怖い夢と行人は言った。夜半に傍らの行人が見えなくなるなんて、こんな怖ろしい夢はない。
「よしよし。もう大丈夫だ」
行人は翔太の頭を撫でた。翔太はひくっと息を吸った。行人は慌てたように翔太の肩を抱いて言った。
「ごめん。こめんな。俺がそばについてなくて。ひとりで怖い思いをしたんだな」
行人はおかしいほどに翔太を子供扱いした。翔太の心も子供のように、柔らかいところが剥き出しになっていた。
「俺を置いていかないで」
行人は翔太の背中を落ち着かせるように数度撫でた。
「俺をひとりにしないで……!」
翔太は行人のカーディガンを握りしめた。ぽろりと涙がこぼれるのを感じた。
「悪かったな。部屋に戻ろう。もう遅い」
行人は翔太の脱ぎ捨てたスニーカーを拾った。翔太がとぼとぼと歩いて追いつくのを待ち、翔太の頭をポンポンと軽く叩いた。翔太は行人の肩に頭を寄りかからせて、ゆっくりと一緒に歩いた。行人は翔太の手を握り、部屋まで何度か「ごめんな」と繰り返した。
水族館。地元のひとお勧めのソーキそば。海中展望塔。万座毛の景勝。海中道路。那覇市内の観光スポットは最終日レンタカーを返してから楽しむことにして、それ以外を二日間でのんびり回った。観光地巡りは早めに切り上げて、午後をプールで楽しむのもよかった。部屋に果物の飾られた飲みものを届けさせ、ベランダでふたりで飲む……なんてのもやってみた。貧乏暮らしの染みついた翔太には、ドキドキするほどの豪遊だった。
そよそよと心地よい風に吹かれ、ベランダで本を読んでいた行人が、思いついたように顔を上げた。
「ショウちゃん、俺おごるからさ。明日の朝食、部屋で食わない?」
ゆったりとした籐椅子の上で膝を抱え、同じく本を読んでいた翔太は、膝から本を降ろして言った。
「別におごらなくても割り勘でいいですけど、どうしたんですか?」
「最終日だし。ふたりでいたくない?」
ドキッとした。翔太の好きな行人の瞳がこちらを見ている。
「……そうですね」
照れくさくて目を伏せた翔太の手を、行人がそっと取って指にキスをした。
(ユキさん……)
翔太はキュッと目を閉じた。
もう、幸せ過ぎて、おかしくなりそうだ。
翌朝七時きっかりに部屋へ届けられた朝食に、翔太は「わあー」と歓声を上げた。英国式と大陸式の中間くらいの朝食は、温かい肉の添えられた卵料理と野菜・果物。コーヒーはたっぷり銀のポットでついてきた。
「はい、ショウちゃん、コーヒー」
行人がお給仕してカップを手渡してくれた。
「ありがとうございます」
翔太はちょっと頭を下げて受け取った。
「ショウちゃん、トーストにはバター? ジャム? はちみつもあるよ」
行人はかいがいしく世話を焼く。こういうときは、恐縮しないで、やってもらった方が行人は喜ぶ。翔太は学習した。素直に翔太は希望を言った。
「あ、俺、バターの上にジャムがいいです」
「了解」
行人は嬉しそうに翔太のリクエスト通りのものを塗り、サクッと軽い音を立ててトーストを割った。
「はい」
行人は翔太が口を開けるのを待った。翔太は一瞬固まったが、勇気を出して口を開けた。行人が嬉しそうに翔太の口にトーストを運んだ。
(そっかー。ユキさん、これがやりたかったのか)
確かにこれは、公衆の面前ではできない。好きなものを好きな量だけ食べられる朝食ビュッフェは心やすいが、行人の願うイチャイチャしながらの食事はできない。
翔太がもぐもぐしているのを見ながら、行人はにこにことコーヒーを飲んだ。
「ユキさんこそ、食べないんですか?」
「食べるよ」
開け放ったベランダから、朝の風が流れ込む。温かな海の香りがする。
夢のような四日間だった。
「今夜、飛行機降りたら、冬ですね」
翔太はぼんやりとそう言った。
「ショウちゃん、もうちょっとだけ、夢見させておいてくれない?」
行人はそう言って苦笑した。
「ん……」
まどろみの中、翔太は行人の体温を探った。腕を伸ばしてもあるべき温度が手に触れない。翔太はハッと身を起こした。
「ユキさん……?」
ベッドに行人はいなかった。部屋の中を見回しても行人の姿はない。風呂場ものぞいてみたが、行人はいなかった。
翔太はベランダへ出て、外を見下ろした。
プールの脇を人影が歩いて、ビーチへ向かっていた。カーディガンに薄い色のパンツ。翔太の目にそれは行人のように見えた。
翔太は急いで衣服を身につけ、スニーカーのかかとを踏みつけて部屋を出た。
月明かりが敷地を照らしていた。昼に見たのと同じ景色が裏返されて、異世界に堕ちたようだった。プール脇を抜け砂地へ出た。もどかしさに翔太はスニーカーを脱ぎ捨てた。
波打ち際に行人が立って、海を見ていた。
「ユキさん……!」
ようやく翔太が追いつくと、行人がゆっくりと振り向いた。
「お、どした。怖い夢でも見たか」
翔太は行人の肩に額をつけ、微かにうなずいた。怖い夢と行人は言った。夜半に傍らの行人が見えなくなるなんて、こんな怖ろしい夢はない。
「よしよし。もう大丈夫だ」
行人は翔太の頭を撫でた。翔太はひくっと息を吸った。行人は慌てたように翔太の肩を抱いて言った。
「ごめん。こめんな。俺がそばについてなくて。ひとりで怖い思いをしたんだな」
行人はおかしいほどに翔太を子供扱いした。翔太の心も子供のように、柔らかいところが剥き出しになっていた。
「俺を置いていかないで」
行人は翔太の背中を落ち着かせるように数度撫でた。
「俺をひとりにしないで……!」
翔太は行人のカーディガンを握りしめた。ぽろりと涙がこぼれるのを感じた。
「悪かったな。部屋に戻ろう。もう遅い」
行人は翔太の脱ぎ捨てたスニーカーを拾った。翔太がとぼとぼと歩いて追いつくのを待ち、翔太の頭をポンポンと軽く叩いた。翔太は行人の肩に頭を寄りかからせて、ゆっくりと一緒に歩いた。行人は翔太の手を握り、部屋まで何度か「ごめんな」と繰り返した。
水族館。地元のひとお勧めのソーキそば。海中展望塔。万座毛の景勝。海中道路。那覇市内の観光スポットは最終日レンタカーを返してから楽しむことにして、それ以外を二日間でのんびり回った。観光地巡りは早めに切り上げて、午後をプールで楽しむのもよかった。部屋に果物の飾られた飲みものを届けさせ、ベランダでふたりで飲む……なんてのもやってみた。貧乏暮らしの染みついた翔太には、ドキドキするほどの豪遊だった。
そよそよと心地よい風に吹かれ、ベランダで本を読んでいた行人が、思いついたように顔を上げた。
「ショウちゃん、俺おごるからさ。明日の朝食、部屋で食わない?」
ゆったりとした籐椅子の上で膝を抱え、同じく本を読んでいた翔太は、膝から本を降ろして言った。
「別におごらなくても割り勘でいいですけど、どうしたんですか?」
「最終日だし。ふたりでいたくない?」
ドキッとした。翔太の好きな行人の瞳がこちらを見ている。
「……そうですね」
照れくさくて目を伏せた翔太の手を、行人がそっと取って指にキスをした。
(ユキさん……)
翔太はキュッと目を閉じた。
もう、幸せ過ぎて、おかしくなりそうだ。
翌朝七時きっかりに部屋へ届けられた朝食に、翔太は「わあー」と歓声を上げた。英国式と大陸式の中間くらいの朝食は、温かい肉の添えられた卵料理と野菜・果物。コーヒーはたっぷり銀のポットでついてきた。
「はい、ショウちゃん、コーヒー」
行人がお給仕してカップを手渡してくれた。
「ありがとうございます」
翔太はちょっと頭を下げて受け取った。
「ショウちゃん、トーストにはバター? ジャム? はちみつもあるよ」
行人はかいがいしく世話を焼く。こういうときは、恐縮しないで、やってもらった方が行人は喜ぶ。翔太は学習した。素直に翔太は希望を言った。
「あ、俺、バターの上にジャムがいいです」
「了解」
行人は嬉しそうに翔太のリクエスト通りのものを塗り、サクッと軽い音を立ててトーストを割った。
「はい」
行人は翔太が口を開けるのを待った。翔太は一瞬固まったが、勇気を出して口を開けた。行人が嬉しそうに翔太の口にトーストを運んだ。
(そっかー。ユキさん、これがやりたかったのか)
確かにこれは、公衆の面前ではできない。好きなものを好きな量だけ食べられる朝食ビュッフェは心やすいが、行人の願うイチャイチャしながらの食事はできない。
翔太がもぐもぐしているのを見ながら、行人はにこにことコーヒーを飲んだ。
「ユキさんこそ、食べないんですか?」
「食べるよ」
開け放ったベランダから、朝の風が流れ込む。温かな海の香りがする。
夢のような四日間だった。
「今夜、飛行機降りたら、冬ですね」
翔太はぼんやりとそう言った。
「ショウちゃん、もうちょっとだけ、夢見させておいてくれない?」
行人はそう言って苦笑した。