第41話

文字数 2,992文字

 総務に聞いてきた病棟へ。壁の案内板を横目で確認して、翔太は周囲の迷惑にならないギリギリのスピードで病院内を小走りに進んだ。
 目当ての病棟に入り、ナースステーションにいた看護師に息せき切って声をかけた。
「あの、連絡いただいたアサヅカフーズのものですけど、西川行人さんは」
 肩で息をする翔太に笑顔を向けて、看護師は親切に病室を教えてくれた。
「熱が高いだけで、ケガはかすり傷ですよ。安心してください。念のため今夜ひと晩泊まってもらって、何ともなければ明日お帰りいただきます」
 翔太は「どうも」と短く頭を下げ、教えられた病室に飛び込んだ。
「ユキ!」
 ガランとした病室。上半身を少し起こしたベッドに行人がいた。翔太は速度を緩めることなく駆け寄った。
「このばか!! 何やってんだ! 熱があるのに外回りに出たりして」
 行人はまぶしそうに目を細め、翔太を見上げた。
「ショウちゃん、初めて『さん』付けじゃなく、名前呼んでくれたね」
 行人の熱に潤んだ瞳にドギマギして、翔太はうつむいた。もごもごと、
「原田なんか、今日じゃなくたっていいじゃないか」
と言って、ベッドの縁に腰かけた。
 窓の外でドサッと音がした。枝に積もった雪がまとまって落ちた音だ。枝に残る雪は、陽気に解けかけてキラキラ光る。
 行人は薄く笑った。
「ショウちゃん、俺ね、ずっとショウちゃんに愛されたかった」
「ユキ……」
 行人は長い指で顔を覆った。
「尊敬されたかったんじゃない。俺のこと、好きになって欲しかったんだ」
 行人の指の間から、透明に光る涙が幾筋もこぼれた。
 翔太は行人をのぞき込むように、そっと行人の濡れた指に触れた。
「……ユキ、アサヅカ辞めるの? 俺から離れたくなった?」
「原田だな」
 行人の声は涙に湿っていた。
「うん」
 翔太は素直に答えた。
 行人は顔を覆ったまま、深く息をついて呼吸を整えた。呟くような声が指の隙間から漏れた。
「俺、もうどうしていいか分からなくなって」
 翔太は行人の顔をのぞき込んだまま、黙って耳を澄ませた。
「ショウちゃんのことがすごくすごく好きになって。もう会社で今まで通りにできないかもしれない。部署を離れて、代わりに一緒に住もうと思っても、同じ会社にいるうちは同じ住所って訳にもいかない。だったらいっそ別の会社にって……」
 翔太の胸の真ん中が圧し潰されたように痛んだ。
「どうして俺にそう言ってくれなかったんだよ」
 行人は顔を覆った指を、こぼした涙ごとギュッと握りしめた。
「だって、ショウちゃん、いつまで経っても俺を好きになってくれないんだもん」
「ユキ……?」
「だから俺、がんばったよ。ショウちゃんを俺につなぎ止めておけるのって、仕事とセックスだから。この二つだけは絶対押さえておかなきゃと思って。それから次に、胃袋と」
 行人はそこで笑ってみせようとしたが、くしゃと歪んで泣き顔になった。
「ひどい謂われようだな」
 翔太も笑おうとしたが、笑えているかどうか分からなかった。
「なのに……、ショウちゃんは……」
 行人は深く俯いて、膝の上で拳を握った。
 翔太も自分の膝を見ながら、言った。
「歴史上の人物とかじゃなく、現存する人間で尊敬なんて普通ないよ。好き嫌いで言ったら好きってひとは何人もいるけど、『尊敬』は、その中の特別、特別中の特別ってことで」
 行人はゆっくりと顔を上げた。
「ショウちゃん……?」
 翔太は深呼吸して、窓の外を見た。雪をかぶった枝の向こうに、夕焼けが広がる。
「でもそれは、あくまで俺の言葉だったんだな。ユキに俺の言いたいことを正確に伝えるには、ユキの言葉で言わなきゃいけないんだ。ちゃんと翻訳しないと」
 翔太は行人の頬の涙を、指で拭った。
「ユキの言葉で言うよ」
 行人の長い睫毛が震えた。翔太の指も。
「ユキ……好きだ」
 翔太はそっと行人の頬を撫でた。
「ショウちゃん……」
「俺、人生を諦めてたよ。ずっと死ぬまで独りでいるんだと思ってた。なのに……」
 あの夏の夜。行人の言葉で、この世の全てが裏返った。新しい視界、新しい感情、新しい人生。
「ユキがいてくれて、俺を大事にしてくれて。本当に嬉しかった。だから俺も、ユキを大事にしたいって。守って、笑顔にして、ずっと一緒にいてもらえたらって」
 行人の目から、またポロポロ涙がこぼれた。透き通った、キレイな、涙。キレイな長い睫毛の間から流れる。行人の唇が小さく動いて「ばか」と言った。翔太は黙って行人の声を聞き漏らすまいと息を潜める。
「遅いよ」
 行人はそう言って、今度こそ小さく笑った。嬉しそうに睫毛を揺らして。翔太がずっと見たかった、行人のキレイな笑顔――。
 翔太は一泊入院に必要な物品を下の売店で買ってきた。行人は「あとで自分で行くからいい」と言ったが、翔太はそうさせなかった。熱があり、めまいもするようなのだ。翔太は行人を大切にする。自分にできる限り、最大限に優しくする。ずっと前からそう決めていた、その通りに翔太はする。ふたりの時間の果てが来るまで、ずっと。
 窓の外が暗くなっていた。翔太は時計を見た。
「ヤベ! 俺、一旦社に戻らなきゃ」
 翔太は慌てて立ち上がった。総務に営業車を返さなくてはならない。翔太は明日迎えに来ると約束して、大慌てで病室を後にした。

 高熱でふらついた行人が信号待ちのさなかに倒れ、左折してきた車に当たった。これが事故の概要だった。
 左折車はツルツルした凍結路面を最徐行していたため、軽くミラーの角に接触しただけで大した衝撃はなく、ケガというほどのケガはなかったのが幸いだった。当たったはずみに地面に倒れて頭を打ったので、念のためひと晩観察するための入院だ。
 大急ぎで社に戻った翔太は、以上を行人の直属の上司である村木課長に報告した。それと同時に、明日の有休を申請した。本来自分が出向くべきところを、部下の翔太が動いてくれると知って、村木は感謝した。村木は他部門との調整役や、取引先への顔の広さで課長職に就いているが、行人の仕事ぶりのどこが前例のない数字を叩き出しているか、その仕組みを理解できない。優秀な部下を嫌いではないが、どう接してよいか決めあぐねている。翔太は日頃から、村木の行人への態度からそう見当を付けていた。
 自分の島へ戻ると、翔太の村木への報告を聞いていた原田と内海が、もっと詳しい事情を知りたがって待ちかねていた。
「おうおう、加藤。結局係長って何で事故ったんだ?」
 翔太は頭に血が上りそうになった。怒りを抑制するのに深呼吸して、わざとゆっくり原田に言った。
「原田さん、今日は秋津さんに係長を連れていって、どんな話をしたんです?」
「ええ? いやあ、大口の得意先だから、俺ひとりじゃなく上司を連れて丁重にご挨拶したよ」
「それだけですか?」
「え?」
 原田は手許の缶コーヒーに手を伸ばし、グビリとひと口飲んでから答えた。
「いや……係長の引き抜きの話あったろ。あれの真偽を確かめたくて、直接ぶつけてみたんだ」
「ぶつけてみた……?」
 原田は悪びれずこう言った。
「ああ。向こうの担当と、札幌支社長に、挨拶を口実にアポ取って。あの会社、北海道の人事は支社長に権限があるのは知ってたから。もし秋津が西川に声かけてるなら、支社長が知らない訳はない。連中を直接会わせて、反応を見ようと思ったんだよ」
(そんなくだらないことのために……) 
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