第10話

文字数 2,343文字

 夏向きのラフなレンガ色のジャケットにベージュのパンツ。手にはサックスブルーの小さな紙袋を提げている。出勤時とは違い、洗いっぱなしで下ろしている髪のせいか、会社で見るより二、三歳若く見える。そして翔太が驚いたのは。
「迎えに来てくれたの」
 行人が嬉しそうに翔太のそばへやってきた。
「……メガネ」
 翔太は行人の顔を指差した。
「ああ、これ? 休みの日はコンタクト入れないんだ。面倒くさいから」
 赤い縁の丸いメガネ、レンズにはグレー系の色が入っている。
 翔太は口が利けなかった。その姿があまりにカッコよすぎて。
 行人は困ったように笑った。
「あはは。変かな。そんなに引くほどチャラい? 俺」
 翔太はうつむいた。
「いえ……カッコいい……です」
 恥ずかしい。
 隣では行人も絶句していた。数秒のあとに、行人はようやく口を開いた。
「俺を殺す気か翔太くん。カワイすぎるだろ。カワイすぎて俺死ぬ。キュン死する」
 え?
「じゃ、今まで係長が何かあるたび止まってたのって」
「そーだよ! 翔太くんがカワイすぎて毎回心臓が止まりそうになってたよ。何かヘンなことを言ってしまわないよう、必死でこらえてるんだよ」
 えー!
「……知らなかった」
 翔太が呆然と呟くと、行人はぷいと横を向いて言った。
「ええ、ええ、そーでしょうとも。分かってました。全然気付いてもらえてないなって」
 翔太はもう、どうしていいか分からなかった。頬が熱い。行人は小声で付け加えた。
「だから、思い切って、告白したんだよ。このままじゃ、いつまでも気付いてくれなそうだったから。正解だったろ?」
 めまいがしそうに、嬉しい。ひと目構わずこのひとに抱きつきたい。
 だが、度胸のない翔太にそれはできない。
(係長、俺も、死にそうです)
 こんなに誰かを好きになってしまうなんて、信じられない。

「おじゃましまーす」
 狭い1LKに行人を通した。翔太はカレーを温め直そうとガスコンロの火をつけた。
「手間と時間がかかったろ」
 行人は翔太の労をねぎらった。翔太は困って笑った。
「俺、料理ダメなんで。どうにか食えるものと言えばこれしか」
 行人は呟くように「ありがとう」と言った。
「これ、お土産。あとで食べよう」
 行人は翔太に持ってきた紙袋を手渡した。 
「ありがとうございます」
 翔太は今日こそ行人に、余計な気と金をつかわせたくなくて呼んだのだった。だが、よく気の付く行人は、部屋に呼ばれて手ぶらでは来なかった。
「わあ、プリンだあ!」
 翔太は思わず声に出してしまった。
「冷蔵庫に入るかな」
「大丈夫です。冷やしておきますね」
 カレーは料理下手な人間の、唯一の逃げ道だ。誰が作っても、そこそこのものができる。だから調理実習でもキャンプでも、気軽で人気のメニューなのだ。第一、市販のルーを買ってくれば、味付けを自分でしなくていい。行人は舌が肥えていそうだから、下手なものを出せない。行人は喜んで食べてくれた。翔太は内心ホッとした。
「ごちそうさま」を言ったあと、行人は台所に食器を下げて洗い始めた。翔太が止めようとしても、行人は「翔太くんは一生懸命作ってくれたんだから、洗いものは俺がやるよ」と涼しい顔で手を動かし続けた。
 諦めて、翔太は行人の隣でやかんを火にかけた。この部屋で、自分以外のひとが水を使う音を聞く。胸の奥がわくわくするような、じんわりするような、初めての感覚。翔太は食器棚から用意しておいたティーポットを出してきて、茶葉を入れ、沸いた湯を注ぎいれた。
「へえ。翔太くん、お茶淹れるの」
 行人は驚いたようにそう言った。
「俺も、この歳になると、水やスポーツドリンク以外のものが飲みたくなって。計算してみたら、ペットボトルを買うより、茶葉を買って自分で淹れた方が安いんです」
「何それ、カワイイ……!」
 洗いものを終わらせた行人がじーんと感動していた。
「え? 今のどこが」
「まだ二十二なのに『この歳』とか。計算してみたら安かったとか。可愛すぎる」
 へ? そんなとこが? 
 翔太には意味が分からない。
 分からないが。
(ま、喜んでくれてるんだから、いっか)
 片付けものが終わり茶が入って、翔太は行人の土産のプリンをテーブルに並べた。短い夏、気温はまだ高かった。翔太は、今日ばかりはペットボトルのお茶を冷やしておけばよかったかなと思った。
 プリンはちゃんとした洋菓子店のもので、うまかった。さすが行人の選択だと翔太は感心した。
「でも係長、どうしてプリンなんですか?」
 行人は少し黙って、長い睫毛を伏せて言った。
「甘いもの、好きかと思って」
「係長……?」
「よく昼飯のとき、コンビニスイーツ買って食べてるだろ」
 視線を逸らしたまま行人は言った。翔太は何も言えない。黙ったままの翔太に気付き、焦ったように行人は言った。
「ごめん! 引いた? 俺、キモい?」
「そんな……、そんなことないです!」
 頬が熱くなった。きっと真っ赤になっている。翔太は恥ずかしくて赤い顔を見せまいと下を向いた。
「ホントに、係長、俺のこと見てくれてたんですね」
 何か、嬉しい……。最後の言葉を心の中で呟いたか、口に出してしまったか、翔太にはよく分からなかった。行人が隣で頭を抱えた。
「係長?」
「殺す気か。マジでキュン死するわ」
 行人は早口でそう言って、翔太の肩に腕を回しその上体を引き寄せた。
「係長……」
 翔太は身を固くした。ばっくんばっくんと胸が大きく鳴っている。触れあったところから、この拍動を聴かれてしまうかもしれない。翔太は恥ずかしすぎて早く離れないとと焦ったが、行人の体温は甘かった。振り払えない。
 ふっと翔太の唇から漏れた呼び名に、行人は翔太の肩に回した手で翔太の頬を撫でた。
「『係長』は止めて。俺の名前を呼んで」

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