第26話

文字数 2,845文字

「わあ……うまそう」
 洋菓子店の箱からは、プリンが出てきた。ガラスの器に入った、幸せの卵色。
「おいしそうですね」
「係長、すいません。いただきます」
「ああ、みんな今週はたくさん働いて、疲れも溜まってきてると思うので。食べながら話そう」
 上司らしくみんなを気づかって買ってきたプリンだが、翔太だけはもうひとつの目的に気づいていた。
 プリンは翔太の好物。
 さっき翔太に八つ当たりした、その詫びだ。翔太は自分の頬がだらしなく緩むのを感じ、慌ててコーヒーカップをのぞき込んだ。
(別に怒ってないのに。ユキさん、可愛いな)
 わあきゃあ言わないだけで、翔太も行人の愛らしさに、メロメロになっているのかもしれない。プリンのうまさが、翔太のニコニコ顔を隠してくれているだろうか。

「いやあ、やっぱり一度、東京の本社までうかがわないといけませんよ」
 原田が大きな声で朗らかに言い切った。
 係の打ち合わせでは、得意先回りの結果報告を行っていた。成功事例があればシェアして、参考にするのだ。
 原田-内海チームの最大の取引先は、全国区の秋津物産。いつもはその札幌支社を相手に営業をしている原田だが、今度の新商品は札幌支社でも大好評で、「ぜひ東京本社でもプレゼンを」と言われたそうだ。
「俺と内海の試食会の盛り上げが功を奏したのだと思いますが、秋津の竹部さんが、『これは札幌ではもとより、東京で売れる商品です』と、太鼓判を押してくれまして」
 翔太のスプーンから、すくったプリンが瓶の中に落ちた。
 竹部さん。秋津物産のアサヅカの担当さん。
 翔太はチラッと行人の顔を見た。耳の中に、先日の村上の言葉が蘇る。
『すすきのの「ローズ・ガーデン」で、お宅の西川係長、見ましたよ。秋津物産の竹部さんと一緒だったけど』
 原田のこの様子では、原田も行人が秋津の担当者と会っていた事実を知るまい。
 行人は何の表情も浮かべていなかった。完璧なポーカーフェイスだ。
「そうですね。東京本社にプレゼンできるなら、早い方がいい。原田さん、竹部さんと連絡取って、スケジュール押さえてください。来週再来週で設定できるなら、僕も稟議通します。それ以降なら、今年はパスで」
「分かりましたー!」
 原田は意気揚々と返事をする。
 議事は順調に進行した。
「一度で結果が決まる得意先と、二度三度行って初めて結果が出る得意先を見分けて、以降の結果を最大にする」との方針を共有して、打ち合わせは終了。
 エネルギッシュな原田に付き合わされて疲れたのか、内海は「お先に失礼しまーす」と早々に引き上げていった。
 原田のところに、商品開発のラーメンスープ担当者がやって来た。前年割れしそうなラーメンスープのテコ入れについて相談されている。
「ラーメンスープって言ってもなあ」
 原田は腕を組んで顎をこすった。
「今年は『Pro'sキッチン』ですもんね、係長」
 都合の悪いところは上司のせいにする。これも原田の実力のひとつだ。少なくとも原田はそう思っているのが見え見えだ。
 行人はにっこり笑顔になった。
「十月になってから数字が足りないって、ちょっと対応遅いんじゃないですか? 新商品ならともかく、スープは何十年も前からのウチのド定番でしょ。もっと早く気付きましょうよ。これからじゃ、打てる手も限られますよ」
 発言内容はド直球だ。聞いている翔太はドキッとした。
「ま、それは冗談として」
 行人の声が真面目になった。
(今の冗談だったんだ……)
 否応なく翔太の耳にもその会話は入ってくる。コワい。
「OEMの方で数字はカバーできる予定でしたよね。そっちの方はどうなってるんですか? ここ数年ラーメンスープは毎年これだけのパーセンテージが落ちてる現状なんで、その分を……」
 行人はよどみなく指摘していく。
(すごいなあ。そんな、他部門のことまで把握できてるんだな)
 正確には、他部門のこととは言い切れない。業務用食品の販売は、行人の一係が担当だ。そして、OEM生産の営業は、廊下の向かいの営業二課の担当だった。
 翔太は今日の日報を書き終えた。行人の机に提出しに行く前に、ちょっと考えてふせんを貼った。みどりのふせん。そこには、「今日、ウチに来ますか?」と小さく書いた。一応、原田たちから読み取られないよう、いつもより字を小さくしてみた。
 今日は金曜日。明日もあさっても仕事は休み。行人が泊まっていっても、帰ると言っても、どちらにしてもゆっくり過ごせる。翔太は立ち上がり、そっと係長机に日報を置いた。行人は原田や開発と話を続けていたが、長い指が大事そうにふせんを剥がしたのが見て取れた。
 翔太は「お先に失礼します」と営業部を後にした。
 地下鉄に揺られていると、翔太のスマホが震えた。翔太はいそいそとメッセージを開いて、がっくりと肩を落とした。
『今日は先約。明日連絡する』

 
 翔太はボーッとベッドから起きた。
 枕許のカーテンの隙間からは、昼の光が射し込んでいた。
 翔太は時計を見た。十時。
 ごちゃごちゃと空いたプラスチック容器と少しの食器が載ったテーブルが目に入って、うんざりした。昨日会社に背負っていったかばんも、脱いだシャツや靴下も、床のあちこちに散らばっている。翔太はため息をついた。行人が来ないと、部屋の中は荒れ放題だ。
 仕方なく、翔太はのそのそと起き出して、昨日の惨状の片付けにかかった。
 溜まった食器を洗って食器カゴに積み上げ、洗濯機を回して洗剤を振りかけた。ものを端に寄せて掃除機もかけた。
 洗濯機が止まるのを待つ間、湯を沸かして先日モリノーさんからもらってきたコーヒーを淹れた。冷蔵庫の牛乳の消費期限を確かめて、コーヒーカップに注ぎ足す。
 リビングは外の廊下に面して窓がある。南向きのその窓からは、秋の低い光が部屋の中まで射し込んでくる。そう。ひとりで住むなら、さほど居心地の悪い部屋じゃない。
 昨夜の行人の「先約」とは何だったのだろう。
 翔太はコーヒーの苦味をゆっくり味わいながら考えた。
 考えても答えにたどり着けないのは分かっていた。なぜなら、翔太の部屋で過ごす以外の行人のプライベートを、翔太は何ひとつ知らないからだ。翔太が、部屋の間取りも、食べているものも、能力や欠点も、全て行人に知られているのとは正反対だ。
(ユキさん、誰と、どこで会ってたのかな)
 気になるが、翔太の方から連絡するのは、何だか負けた気がして悔しい。意地になって翔太が行人からの連絡を待っていると、洗濯ものを干し終わった頃にスマホが震えた。行人からのLINEだった。
『ショウちゃん、お昼食べた?』
 翔太が時計を見ると、すでに十二時になっていた。
『まだです』
『じゃあさ、昼飯がてらドライブしない?』
『いいっすねー』
『じゃ、車借りたら迎えに行くよ』
 最後に行人は、車からはみ出した笑顔のキャラクターのスタンプを送ってきた。
 翔太は急いでコーヒーを飲み干し、ざっと洗ってカゴに積み、シャワーを浴びに風呂場へ立った。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み