第31話

文字数 2,402文字

 翔太が係へ戻ると、原田がビミョーな表情をしていた。原田は翔太に気付くと、
「おー、加藤。どうだった?」
と訊いてきた。
「どうって、普通ですよ」
 翔太がそう答えると、原田は大げさに首を振った。
「いやいや、お前の評価じゃなくて。あいつだよ、西川係長」
「は? 係長が何です?」
 原田は翔太と入れ替わりに内海がブースへ向かうのを横目で見て、一瞬黙った。
(これか……)
 翔太はピンと来た。「何か飲みます?」と原田を誘って、ふたり分の飲みものを用意した。
 カップを手にした原田に、翔太は水を向けた。
「で? 係長が何です?」
 原田はカップを掲げて翔太に礼の意を伝えてから、コーヒーをひと口すすり、おもむろに言った。
「ウワサだけどさ……、西川のヤツ、辞めるらしいぞ」
「え?」
 部屋の照明が一段暗くなった。
 翔太は周囲を見回した。誰もとくに何も反応していない。暗くなったのは自分の視界だけのようだ。原田は得意げに自分の知り得た情報を語った。
「秋津物産から、あいつに引き抜きの話が来ているらしい。アサヅカの得意分野や経営上の弱点を知り抜いていて、社長ともツーカーのあいつを引き抜けば、秋津も仕事がやりやすいだろうし」
 そうだろうか。翔太は原田の話の内容を吟味した。
 全国区の秋津の立場から考えてみる。いくら仕事ができるとはいえ、地方の食品メーカーの営業を引き抜くメリットはあるか。秋津物産において、アサヅカフーズとの取引額は、全取引の何%にもならない。翔太の懐疑に気付かず、原田は得々として続けた。
「西川にしてからが、一弱小メーカーで営業してるより、直接飲食店と接触する機会の多い卸の方が、実力を発揮しやすいだろ。あいつの営業パターンなら」
 その部分は同感だ。翔太は曖昧にうなずいた。行人の営業力を活かすなら、メーカーより卸の方が適任かもしれない。
「なあ加藤、お前もさ、あの西川にはキラわれてるっつーか、ずいぶん圧かけられてキツイよな。あいつが早くどっか行くように、お互い情報交換していこうぜ」
 翔太と原田が知り得たことを共有すると、行人がより早く社を辞めることにつながるだろうか。単純に翔太は疑問に思ったが、原田にそれを指摘することは避けた。
 手の中のコーヒーが冷めていた。翔太はそれをくぴりと一気に飲み干した。
 内海がブースから戻ってきた。原田は内海にも同じように尋ねた。
「どうだった?」
「普通ですよ」
「いやいや……」
 翔太はカップを片付けに席を立った。

 ボーナスが出た。翔太たち営業一課一係には、それに加えて金一封も出た。「Pro'sキッチン」シリーズは、彼らの計画の一三〇%の売上を作った、その報償だった。製造現場は大変だったらしいが、翔太たちの取ってきた注文分を何とかこなしてくれた。「Pro'sキッチン」で初めてアサヅカの仕事をしたメーカーさんも、これで安心して取引を続けてくれるに違いない。
 行人がアサヅカを辞めて秋津物産へ鞍替えするというウワサについては、何の追加情報もなかった。時折原田が意味ありげな視線を送ってくるが、翔太はあえて乗らないようにしていた。行人に気付かれて、この上原田との関係まで疑われてはたまらない。
(俺にだって好みがあるからな)
 翔太の好みは行人だ。声も好き。笑顔も好き。仕事の異常にできるところも好きだ。それに当然ベッドも。
(だから、それを本人に言ってやれよ)
と翔太は自分に対して思う。これを口にしないから、行人はあんなに淋しそうな顔をするのだ。
(いや、でも俺、結構言ってるよ)
ともうひとりの翔太が思う。
(「言ってる」っていうか、たびたび「言わされてる」な)
 翔太の頬が熱くなった。
(だから、そういうプレイじゃなく、普段から言って欲しいと思ってるんじゃないの? ユキさんは)
 行人はいつも自分の気持ちにオープンだ。翔太の言動に「カワイイーー!!」と言って大はしゃぎするし、それに。
(ユキさんは、いつも俺に「好きだ」って……)
 翔太はスマホを見る振りをして下を向いた。電車はもうすぐ空港に着く。
 三泊四日で沖縄だ。これから四日間は、原田の言ったことは忘れて過ごそう。楽しい休暇になるだろう。何より行人を独り占めにできる。
 長いエスカレータで出発ロビーへ上がっていくと、年末年始の大移動で空港は混雑していた。翔太は歩きながら行人に電話した。
「あ、ユキさん? 今着きました。チェックインカウンターの前です」
(おはようショウちゃん! 俺早く着いちゃって、コーヒー飲んでた。ショウちゃん、荷物ひとりで預けられる?)
「また子供扱いしてー。できますよ」
 翔太は唇を尖らせて答えた。
(じゃあ、預けて搭乗待合室に入っちゃって。飲み終わったら俺も行く)
 翔太は「了解ですー」と言って通話を切った。
 アサヅカには、年末年始飛行機に乗ってどこかへ行こうというひとはあまりいないと思うが、念のため別行動だ。そのために、地下鉄は同じ路線なのに、あえて待ち合わせ場所を空港にしたのだ。時間ギリギリの翔太と、早め早めの几帳面な行人とでは、細かな打ち合わせをしなくても、自然と便を分散できる。
 出発ゲート付近は飛行機を待つ乗客ですでに混んでいた。沖縄直行便にそんなにひとが乗るなんて、翔太は知らなかった。年末年始に沖縄で過ごすひとがこんなにいるとは。帰省しなくていいひとがこんなにいるとは。
 翔太は姉の菜摘に「年末年始は帰らない」と連絡しておいた。「彼氏と沖縄に行く」と言うと、菜摘は大層悔しがった。菜摘が母にどう伝えたかは分からないが、そこは心配していない。菜摘がいい感じに言っておいてくれているだろう。
 ゲートから少し離れた椅子に座って、翔太は背負ったバッグから文庫本を取り出した。本はもともとあまり読まないが、行人に影響されて最近読み出した。何ページもめくらないうちに、後ろから肩をたたかれた。
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