第37話

文字数 3,093文字

 一月四日の仕事始めは、工場でお汁粉がふるまわれる。今は作っていない小豆の水煮を初日に一ロットだけ回し、開いた鏡餅を投入する。アサヅカフーズの伝統行事だ。
 普段事務所詰めで工場に出入りすることのない事務系社員も、この日は工場に集合して部門間の交流を深める。組織は効率を追求すると縦割りになりやすい。だが、食品メーカーの心臓部はあくまで工場。事務所の人間は工場に親しみ、工場の人間は事務職のバックアップがあってスムーズに稼働できると感じる。そうした機会として、この行事は毎年継続されている。
 年明け初日は溜まった郵便物とメールを振り分け、挨拶回りのスケジュールを組むだけで午後になってしまう。お汁粉は午後四時。お汁粉が終わったら今日は解散だ。左党の面々にはふるまい酒が用意されている。
 バタバタと昼もそこそこに、翔太は休み明けのタスク整理に右往左往した。脳みそがバカンスぼけで上手く働かない。そこへ持ってきて、郵便物やメールを内容に応じて振り分けるとか、スケジューリングとか。翔太の苦手なジャンルのタスクばかりだ。
 業務の合間に横目で見ると、行人は係長席で優雅にPC三昧だ。白いYシャツから出た首や手の甲がほんのり灼けている。翔太は手洗いに立ったついでに、鏡で確認してみた。自分の肌も、行人と同じくらいに色付いていた。
(まさか、誰にも気付かれないとは思うけど……)
 翔太はネクタイの結び目の辺りを押さえた。幸せな、幸せな休暇だった。
 三時五〇分。社内放送が工場への集合を促した。
 いつも時間には余裕を持って行動する行人が、珍しくPCに向かってまだ指を動かしている。翔太はそっと促した。
「係長……? 行きますよ?」
 行人は面白くなさそうな顔をして「ああ」と短く答え、ようやくPCをパタンと閉じた。
 工場では、社長の挨拶、工場長の挨拶ときて、乾杯だ。工場で働くパートの母さんたちが、腕まくりをしてお椀に汁粉をよそっていく。大きな作業台の上には、やかんいくつかのお茶と、日本酒の一升瓶と瓶ビールが並んでいる。飲みものはセルフサービスだ。酒のつまみには、自社製品の惣菜が用意された。漬けものだけは、アサヅカフーズでは作っていないので、他社品だ。
 行人は入り口近くに遠慮がちに立っていた。翔太は行人の分もお汁粉を受け取り、行人のところへ持っていった。
「はい、係長」
「お。すまん」
 正月明けでひんやりとした工場に、汁粉の鍋から湯気が上がる。この日ばかりは全部門の人間が集まり、工場はひとでいっぱいだ。
(きっとユキさんは、俺に「はい、あ~ん」とかってやりたいんだろうな)
 翔太は椀をのぞきこんでふふっと笑った。
「どした?」
 行人が翔太の気配に気付いて小さく訊いた。
「ふふふ。何でも」
 翔太はにやにやしただけで、笑った理由を黙っていた。
「何だよ、カンジ悪いな」
 行人は少しばかり翔太の方に顔を向け、翔太に向けた側だけ頬を緩めた。
「じゃ、後で説明します」
「おう」
 紙コップと一升瓶を持って、ひとの群れを渡り歩いている一団がいた。誰なと指差しては特攻し、コップを持たせては酒を注ぐ。ひとしきり話したら次の群れだ。
「係長、何すかあれ」
 行人は翔太の指差す方をチラと見た。
「ああ、人事課な。春の人事異動に向けて、情報収集だろう」
「情報収集? こんなところで?」
 行人は手にした汁粉を箸でつついた。
「この一年で、それなりにメンバーが替わってる。人事の連中は書類だけで、普段他部署の人間を見ないだろう? 四月入社の新卒以外は、下手したら一度も会っていないこともある。そんな中で、考え得る最高のポジショニングをしなきゃならん。とりあえず社員の顔と雰囲気だけは見ておきたいんだろう。ここでなら全員の面を拝めるからな」
 行人は、「去年の仕事始めにもいたぞ。見なかったか?」と付け加えた。翔太は首をひねった。記憶にない。多分、行人と行ったばかりの温泉旅行のことをぐるぐる思い出し、余韻にふけっていたのだろう。
 原田がビールを手にやってきた。後ろに内海も控えている。こちらはお茶だ。
「係長、呑んでますか?」
「いや。俺、酒は呑みませんから」
「またまたあ。多少はたしなむでしょ? 情報、入ってきてますよ」
 行人は片方だけ眉を上げた。
「可愛い部下に、少しくらい付き合ってくれても、バチ当たらんでしょ。ひとの担当社をチョロチョロするばかりじゃなく」
 原田は新しい紙コップを取り出してビールを注ぎ、行人に手渡そうとした。行人がまた何か辛辣なことを言いかけるのを、翔太は横から止めた。
「原田さーん、まあまあ、係長の分は俺がいただきますから。勘弁してくださいよ、ね」
 翔太は原田の手からコップを取り上げ、ちびちびと呑んだ。原田は「ぐーっといけ。ぐーっと」と促したが、翔太は自分のペースを崩さずにゆっくりと時間をかけて呑み干した。翔太がチラと原田の後ろを見ると、内海が止めてよいやら悪いやら、この場のノリをつかみあぐねて困っていた。
「内海さん、心配しなくても大丈夫。みんな大人なんだから、各自自分のペースで好きにやってればいいんです」
 翔太はそう言ってやった。内海はホッとしたような顔をしてうなずいた。翔太は仕返しに原田の手からビール瓶を奪い取り、原田のカップに注ぎ返した。内海は経理配属の同期に声をかけられ離れていった。
「原田さんこそ、呑みが足りないんじゃないですか? 原田さんは酒豪ですもんね」
 翔太は原田を適当にあしらおうとした。ここは工場だ。アウェイで、しかも自分の部署内のゴタゴタはマズい。翔太にとってではない。行人にとってだ。
「何だよこのぉ。加藤こそ、係長にゴマすりか? 全く、ズルいヤツだよお前は」
「まあまあま」
 翔太は行人の表情を横目で確認した。行人は涼しい顔をして汁粉をすすっている。
(ひどいよ、ユキさん。原田は俺に任せたってか)
 この場での最善手は確かにそれだ。翔太は原田に「日本酒の方がいいんじゃないですか?」と勧めてみた。
「莫迦野郎、俺にポン酒を勧めてみろ。お前にも同じだけ呑ませるぞ」
「いやあ、困ったなー、原田さん、酒癖悪いっすよ」
 人事の一団がやってきた。
「営業一係のみなさんですね。新年、おめでとうございます! 昨年は大活躍でしたね」
 紙コップに酒がなみなみと注がれ、行人の鼻先に差し出された。
「いや、わたしは……」
 行人が断ろうとするのに、翔太は割って入った。
「失礼ながら、係長の分は、代理で僕がいただきます」
「そうですか、じゃあ部下さんに。こちらは……」
「マーケティング部営業一課一係、加藤翔太です!」
「ああ、加藤さん、昨年はお疲れさまでした」
 人事担当者は翔太にコップを手渡した。翔太はちびりちびりと慣れない日本酒を口にした。
「いやあ、素晴らしかったですね、昨年の快進撃は! 『Pro'sキッチン』、販売計画の一三〇%、前年対比はなんと二七〇%ですよ。これまでアサヅカでは、誰もできなかった、前人未踏の快挙。おかげでわたしたちも満足なボーナスをいただけました。さすが営業のエース、西川さんだ。今年もぜひ、よろしくお願いしますよ!」
 人事が大声で行人を褒め称えるのを、行人は困った顔をして聞いていた。
「いや、わたしは何も。数字を作ってきてくれたのは係のみなさんですし、そもそも工場のみなさんの製造ありきですので……」
 行人がそう珍しく謙虚に回答していると、聞こえよがしに声がした。
「そうだ。ひとの作ったものを右から左するだけの、キレイで気楽な商売だよ。なあ、額に汗して働いてるのはこっちだってのに」
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