第6話
文字数 2,559文字
「え、俺?」
行人はホタテを口に運んだフォークをそこで止めた。白い歯がわずかにのぞき、一瞬赤い舌が見えた。翔太の背骨のどこかがきしんだ。
「言っても加藤くん、引かないでね。俺はねえ、高校からずっとバンドやってた」
「バンド!?」
「うん。友だちから誘われて。っつっても、ポップスよりのチャラいヤツね」
しゃべり方も立ち居振る舞いも、とにかくカッコいいひとだと思っていたが、ひと前に立ち慣れているからだったか。ひとから見られること、見せることに慣れている。
「そおかあ。だから係長、いつも何してもカッコいいんですね」
行人の動きがまた止まった。しばらく下を向いたままじっとしていたが、少ししてようやく上げたその顔は赤かった。行人は翔太の視線を避けるように窓の外に目を向けた。翔太はワインのせいか、自分の言動が気に障ったかと案ずることなく、外を眺める行人の顎のラインを眺めていた。美しい、鋭角なラインを。
行人はまた軽く咳払いをして、食事に戻った。
それから行人は、自分の幼い頃のエピソードを、思いつくままにいくつか話した。バンドをやるようになる前は、遊んでばかりいたこと。友人たちとゲームもしたが、一番熱中したのは時計やラジオの分解だったこと。
「家の中で壊れた機械があれば、絶対もらって分解してた。そのうち、逆に何かが壊れたときには俺が疑われるようになっちゃって。『お前が分解して、組み立てに失敗したんじゃないか』って」
「すごいですね。エンジニアになろうとは思わなかったんですか?」
「高校に入ってバンドやって、そこからは音作りにハマっちゃったからね。エフェクターとか選ぶのには役立ったかな。ずっと音楽やってて勉強なんて全くしなかったから、大学入るとき難儀したよ」
行人がこんなにしゃべるのは初めてだった。しかも笑顔で。ソフトな声で高すぎず低すぎず、いつまででも聞いていたい声だった。そんな行人のトークに耳を傾けているのが嬉しかった。翔太は気付いた。
(どうしよう。俺、このひとのこと、好きだ)
リアルで近くにいるひとに恋してしまうのは、生まれて初めてだった。
明日から、職場で、どんな顔をしたらよいのだろう。
翔太は思わず目を閉じた。
同じ。今までと同じだ。
誰とも深く関わらず、ひとりでずっと生きていく。そのことに変わりはないのだから。
いつまででも聞いていたかったが、頼んだ皿はすべて空になった。
地下鉄駅まで一緒に歩き、改札で反対方向のホームへ別れた。
家に帰ってベッドに入っても、翔太の耳の中ではずっと行人の声が聞こえていた。ワインのほろ酔いも手伝って、翔太は幸せな気分で眠りに落ちた。
そんなことがあってからも、職場での行人は全く変わらなかった。つっけんどんで無表情、指導内容も相変わらず厳しい。ときには聞いている原田がドン引きするような鋭い指摘もあった。
「おいおい加藤、この間入社してきたばかりのお前にさ、前年の販促費の推移とか聞いてもしょーがないだろう。あいつ、マジで何考えてるんだ」
行人が席を立った隙に、原田は憤慨したように翔太に言った。
「いえ。前年の予算と実績の数字は、資料として全て渡されてます。俺の理解が追いついてないだけで、係長の指導は正しいです」
原田は首を振った。
「いやいやいや、加藤くん。きみが西川係長に心酔したくなるのも分かるけど、そこまでいくともはや洗脳だよ。きみはもうちょっと、自分を大事にしてもいい」
洗脳か。そう見えているうちは大丈夫だ。翔太は少し安心した。知られたくない気持ちの方は気付かれてない。
「僕は物覚えのいい方じゃないんで。とっとと仕事を覚えられるなら、今は洗脳もウェルカムですよ」
翔太が自嘲的にそう言うと、原田はべえっと舌を出した。
「うわあ、加藤くんはドMだねぇ。とても俺なんかじゃついていけねーわ、その感覚」
翔太が二度目に行人に食事に誘われたのは、二週間後のことだった。今度は無国籍風の居酒屋だ。
「お疲れさまー」
ビールで乾杯して、翔太はザワザワと賑やかな店内を見渡した。
「ここは、もしかして、ウチの製品入ってます?」
「イエース。ウチの豆の水煮とスープ、使ってもらってるよ」
行人はメニューを指差した。
「秋津経由だから、俺の担当じゃないけど」
行人はそう言って、ジョッキを傾けた。ということは、原田の担当区域だ。
「いいんですか? せっかくお金落とすんだから、係長担当のお店を使えばいいのに」
翔太は心配そうにそう言った。行人は即答した。
「いいんだよ。せっかくプライベートでメシ食うんだから、仕事関係ないとこに行きたいじゃん。嫌だよ、加藤くんとメシ食ってるところに、お店の支配人とか来て、挨拶とかしなきゃならなくなったら。そりゃ、加藤くんの勉強にはなるだろうけど、そんなとこで勉強しなくてもいいように、昼間ミッチリ指導してるもん」
ザワついた店内。ちょっと昔の洋楽がエンドレスでかかっている。客同士が話すのも、少し声を張らないと聞こえない。翔太と行人がカウンターの端に並んで座っていると、何か話すたび、耳を相手に近づける形になる。翔太はどぎまぎした。それを気付かれないよう平静を装っているが、成功しているかどうか分からない。
行人は翔太に「動物の内臓は食えるか」と訊いた。
「はい、俺、この間も言いましたけど、食えないものないんです」
翔太は胸を張ってそう言った。
「ふーん。そういうこと言う子には、中国とかアフリカとかの、もんのすごい珍味をムリヤリ食わしてみたくなるね」
行人は意地悪そうな笑顔でそう言った。
「受けてたちますよ。じゃあ係長、今度俺をそういうディープなところに連れてってくださいよ」
翔太がそう言うと、行人はまた数秒動きを止めた。
(何なんだろう、この間 。どうやら俺の言ったことが気に障ってる様子でもないし)
注文した料理が届き始めた。中にはハチの巣のようなハニカム構造の物体が、トマトの赤い汁で煮込まれたひと皿もあった。
「何です、これ」
「トリッパだよ。牛の胃袋の煮込み。うまいよ。食ってみ」
「いただきます」
弾力のある歯応えから、じわっと旨みがにじみ出る。トマトのまろやかさが臓物の持つ濃い味を和らげ、この上ない美味だ。
「係長、うまいっす!」
「だろー」
行人はホタテを口に運んだフォークをそこで止めた。白い歯がわずかにのぞき、一瞬赤い舌が見えた。翔太の背骨のどこかがきしんだ。
「言っても加藤くん、引かないでね。俺はねえ、高校からずっとバンドやってた」
「バンド!?」
「うん。友だちから誘われて。っつっても、ポップスよりのチャラいヤツね」
しゃべり方も立ち居振る舞いも、とにかくカッコいいひとだと思っていたが、ひと前に立ち慣れているからだったか。ひとから見られること、見せることに慣れている。
「そおかあ。だから係長、いつも何してもカッコいいんですね」
行人の動きがまた止まった。しばらく下を向いたままじっとしていたが、少ししてようやく上げたその顔は赤かった。行人は翔太の視線を避けるように窓の外に目を向けた。翔太はワインのせいか、自分の言動が気に障ったかと案ずることなく、外を眺める行人の顎のラインを眺めていた。美しい、鋭角なラインを。
行人はまた軽く咳払いをして、食事に戻った。
それから行人は、自分の幼い頃のエピソードを、思いつくままにいくつか話した。バンドをやるようになる前は、遊んでばかりいたこと。友人たちとゲームもしたが、一番熱中したのは時計やラジオの分解だったこと。
「家の中で壊れた機械があれば、絶対もらって分解してた。そのうち、逆に何かが壊れたときには俺が疑われるようになっちゃって。『お前が分解して、組み立てに失敗したんじゃないか』って」
「すごいですね。エンジニアになろうとは思わなかったんですか?」
「高校に入ってバンドやって、そこからは音作りにハマっちゃったからね。エフェクターとか選ぶのには役立ったかな。ずっと音楽やってて勉強なんて全くしなかったから、大学入るとき難儀したよ」
行人がこんなにしゃべるのは初めてだった。しかも笑顔で。ソフトな声で高すぎず低すぎず、いつまででも聞いていたい声だった。そんな行人のトークに耳を傾けているのが嬉しかった。翔太は気付いた。
(どうしよう。俺、このひとのこと、好きだ)
リアルで近くにいるひとに恋してしまうのは、生まれて初めてだった。
明日から、職場で、どんな顔をしたらよいのだろう。
翔太は思わず目を閉じた。
同じ。今までと同じだ。
誰とも深く関わらず、ひとりでずっと生きていく。そのことに変わりはないのだから。
いつまででも聞いていたかったが、頼んだ皿はすべて空になった。
地下鉄駅まで一緒に歩き、改札で反対方向のホームへ別れた。
家に帰ってベッドに入っても、翔太の耳の中ではずっと行人の声が聞こえていた。ワインのほろ酔いも手伝って、翔太は幸せな気分で眠りに落ちた。
そんなことがあってからも、職場での行人は全く変わらなかった。つっけんどんで無表情、指導内容も相変わらず厳しい。ときには聞いている原田がドン引きするような鋭い指摘もあった。
「おいおい加藤、この間入社してきたばかりのお前にさ、前年の販促費の推移とか聞いてもしょーがないだろう。あいつ、マジで何考えてるんだ」
行人が席を立った隙に、原田は憤慨したように翔太に言った。
「いえ。前年の予算と実績の数字は、資料として全て渡されてます。俺の理解が追いついてないだけで、係長の指導は正しいです」
原田は首を振った。
「いやいやいや、加藤くん。きみが西川係長に心酔したくなるのも分かるけど、そこまでいくともはや洗脳だよ。きみはもうちょっと、自分を大事にしてもいい」
洗脳か。そう見えているうちは大丈夫だ。翔太は少し安心した。知られたくない気持ちの方は気付かれてない。
「僕は物覚えのいい方じゃないんで。とっとと仕事を覚えられるなら、今は洗脳もウェルカムですよ」
翔太が自嘲的にそう言うと、原田はべえっと舌を出した。
「うわあ、加藤くんはドMだねぇ。とても俺なんかじゃついていけねーわ、その感覚」
翔太が二度目に行人に食事に誘われたのは、二週間後のことだった。今度は無国籍風の居酒屋だ。
「お疲れさまー」
ビールで乾杯して、翔太はザワザワと賑やかな店内を見渡した。
「ここは、もしかして、ウチの製品入ってます?」
「イエース。ウチの豆の水煮とスープ、使ってもらってるよ」
行人はメニューを指差した。
「秋津経由だから、俺の担当じゃないけど」
行人はそう言って、ジョッキを傾けた。ということは、原田の担当区域だ。
「いいんですか? せっかくお金落とすんだから、係長担当のお店を使えばいいのに」
翔太は心配そうにそう言った。行人は即答した。
「いいんだよ。せっかくプライベートでメシ食うんだから、仕事関係ないとこに行きたいじゃん。嫌だよ、加藤くんとメシ食ってるところに、お店の支配人とか来て、挨拶とかしなきゃならなくなったら。そりゃ、加藤くんの勉強にはなるだろうけど、そんなとこで勉強しなくてもいいように、昼間ミッチリ指導してるもん」
ザワついた店内。ちょっと昔の洋楽がエンドレスでかかっている。客同士が話すのも、少し声を張らないと聞こえない。翔太と行人がカウンターの端に並んで座っていると、何か話すたび、耳を相手に近づける形になる。翔太はどぎまぎした。それを気付かれないよう平静を装っているが、成功しているかどうか分からない。
行人は翔太に「動物の内臓は食えるか」と訊いた。
「はい、俺、この間も言いましたけど、食えないものないんです」
翔太は胸を張ってそう言った。
「ふーん。そういうこと言う子には、中国とかアフリカとかの、もんのすごい珍味をムリヤリ食わしてみたくなるね」
行人は意地悪そうな笑顔でそう言った。
「受けてたちますよ。じゃあ係長、今度俺をそういうディープなところに連れてってくださいよ」
翔太がそう言うと、行人はまた数秒動きを止めた。
(何なんだろう、この
注文した料理が届き始めた。中にはハチの巣のようなハニカム構造の物体が、トマトの赤い汁で煮込まれたひと皿もあった。
「何です、これ」
「トリッパだよ。牛の胃袋の煮込み。うまいよ。食ってみ」
「いただきます」
弾力のある歯応えから、じわっと旨みがにじみ出る。トマトのまろやかさが臓物の持つ濃い味を和らげ、この上ない美味だ。
「係長、うまいっす!」
「だろー」