やる気が無いなら帰れ

文字数 2,746文字

 あさがお町ファルコンズの小学生5年生の選手たちは、決してやる気が無いわけではなかった。監督もそれを自覚しているはずだった。少し怠慢に見える守備の連携に対して、わずかな喝を入れるだけのつもりだった。
「やる気が無いなら帰れ」

 ノグチは家に帰った。野球は大好きだったけれど、この指導者の下でもうプレーしたくないと感じる言い方だった。いつもより早く帰ったことに母は怒りもせず、「そういう日もあるわよ」とだけ優しく話しかけた。
「俺やっぱりH大付属中学、受験する」
 母が優しいことにむしろ居心地の悪さを感じ、その場の空気を変える大きなトピックを口にすることにした。ノグチは正直なところ『お受験』についてあまり前向きでなかったが、『お受験』をすればもう少年野球しなくてもいいかもしれないと今思いついたのだ。
 こうしてノグチの将来の妻に出会う人生が始まった。まず受験会場で出会い、妻は不合格になるも、H大付属中で出会った友人の紹介で再会を果たす。大学時代に一時風俗に入れあげ彼女から呆れられるも、「俺にはサトコだけだよ」と紋切り型の台詞口にする人生がはじまったのである。


 モトヤマは公園に帰った。自宅のすぐそばの公園のベンチでユニフォーム姿のまま流れる雲を眺めていた。
 おとといも学校で担任教師から「自分で考えて行動しろ」と言われたばかりだった。「小5にもなってそんなこともわからないのか」と。
 しかしモトヤマは監督の言葉の真意は別として、帰りたかったので帰ったのだった。そもそも監督の時代遅れで高圧的な指導に嫌気がさしていた。あの一言がなかったとしても、どこかで野球を辞める決心をしていただろう。
 モトヤマはその日以降、まったく野球に触れなかった。しかし鉄道写真の撮影という趣味に出会った彼の人生において、野球の不在はさしたる問題ではなかった。
 26年後、秩父へ蒸気機関車の撮影に足を運んだ際に偶然屋舗要に会った。大洋ホエールズの俊足選手だった彼もモトヤマと同じく、鉄道写真を趣味としていた。モトヤマはヒゲの似合う彼に言った。
「屋舗さん、僕も昔野球をやってたんです」


 シノダは正妻の家に帰った。シノダには隣の学区に今年中学生になる年上の愛人がいたが、今日は正妻の家に帰った。正妻はシノダと同じく小学5年生だった。
「おかえりなさい。いまペプシコーラ冷やしてますから」
 うやうやしく夫を出迎えた。シノダの妻は2011年生まれとは思えない古風な女性だった。幼稚園の時に保育士が読み聞かせてくれた、向田邦子の短編小説に出てくる女性を思わせた。
 『おっとっと』をつまみにペプシコーラを飲みながら、せわしなく家事をする妻を見つめる。いつもは野球で自宅にいない時間帯の彼女も、いつもどおりせわしなかった。帰り道に「もしも間男がいたら」などと想像をした自分が急に恥ずかしくなった。
「あと10分で、昼餉おつくりしますからね」
 「昼餉」という言葉にシノダは思わず吹き出した。それこそ向田邦子の小説のようではないか。


 マツハシは成田近くのホテルで1泊し、翌朝シアトルに帰った。
「マッツ。ヘイ、調子はどうだい(ワッツ・アップ)
 マツハシの所属するマリナーズの三塁手、セルジオ・ロドリゲスの口癖だった。送球の上手い彼によれば「一番好きな英語」だという。
 マツハシは12日前にマイナーリーグ降格が言い渡されていた。日本式にいえば二軍落ちである。マツハシは契約上、マイナー降格は拒否できるオプションを持っていたが、行使しなかったのは一度メジャーを離れて自分の野球を見つめ直したかったからだった。ただしすぐにマイナーにはいかず、一度帰国して自分がかつて所属した少年野球チームでプレーしたのだった。
「マッツ、ふるさとのチームはどうだった」
「俺が小1のときと変わってなかったよ。相変わらず監督は『やる気がないなら帰れ』って言ってた」
「野球なんてどこも同じだよ」
 ロドリゲスは今年で高校に上がる年齢だが、彼は幼稚園に入学する前に2浪していた。年上ながら気さくに話しかけられる存在であったが、ドミニカではかなり苦労したという。
「野球なんてホームを出て、またホームに戻るだけだよ」


 ソニックマンは「未来」に帰ることにした。アニメの視聴率も下がっていたし、居候もそろそろやめにしようと思っていたころだった。
 居候先のトビオ少年は案外ドライだった。「そっか、残念だね」としか言わなかった。ソニックマンは「未来に帰る」と言い出したドラえもんを引き留めようした時ののび太のような、激しい感情をトビオに期待してしまっていた。そのことを口には出さなかったのは、ソニックマンのアニメは『ドラえもん』に似すぎているともっぱらの評判だったからである。


 リュウジは極道の世界に帰った。幼稚園年長時にすでに若頭であったリュウジにとって、少年野球の世界は平穏すぎた。
 「アニキ、丸くなりやしたね」 
 久しぶりに再会した子分のヤスの顔つきが、精悍なものになっていることをリュウジは見逃さなかった。
 「バカヤロウ。野球だって生きるか死ぬかの世界なんだぞ」
 「それ、『併殺(ダブルプレー)』とか『一死(ワンアウト)』とかでしょう」
 面会時間はあっという間に過ぎた。ヤスは来年小学2年生だったが、来年はまだ娑婆には出られないらしかった。


 エリカはAV女優に復帰した。そもそも引退したわけではなかったのだが、出演期間のブランクが空いたせいでネットに「引退」と書かれてしまったのだ。
 少年野球も美容整形してほとぼりが冷めるまでの間だけのつもりだった。AVの世界で18歳も37歳も44歳も演じたことのあるエリカにとって、小学5年生としてセカンドを守ることは容易だった。世界最古の職業たる娼婦が生まれて以来、年齢をごまかしたことのない風俗嬢がいたのだろうかと思いながら、流し打ちの練習に励んでいた。
 しかしエリカがAVの世界に戻れるのはまだ先のことだった。エリカが業界にいない間に、よくわからない法律ができていたからだった。


 コムラは下宿先に帰り、母の胎教以来11年ぶりに『釜山港へ帰れ』を聴いた。「帰れ」という言葉からこの曲を思いだしたのだ。チョー・ヨンピルのあとに桂銀淑(ケイ・ウンスク)のカバーを聴き、人知れず涙を流した。


 そのほかにも寮に帰る者、故郷に帰る者、新宿ゴールデン街、サンパウロ、『あつまれ どうぶつの森』で作ったゲーム内の村、イスカンダル、日本大学藝術学部、永井豪とダイナミック・プロ、マクラーレンF1チーム、ドーナッツへいや、オリックス、調布市立図書館、5ちゃんねると様々な場所へファルコンズの少年選手たちは帰っていった。一人残された監督は誰もいない閑散としたグラウンドを見てひとりごちた。
「監督の指示をちゃんと聞く選手たちだ」
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