ノー・ウーマン・ノー・クライ

文字数 1,851文字

“No Woman, No Cry”

  何年か前にお笑い芸人が小説を書き、大きな文学賞を獲得した。劇場で他の芸人と火花を散らした人間とは思えないほど、穏やかかつ柔らかい青春小説で、康太も心を打たれて、何度も読み返した。その作品の終盤にボブ・マーリーの代表曲、『ノー・ウーマン・ノー・クライ』も登場し、彼のしゃがれた歌声に洋楽とは縁遠かった康太も魅了れた。機嫌のいい時など、印象的なこの表題のフレーズをレゲエ・スタイルの裏拍を取るリズムで口ずさむこともあった。
 しかしながら、聞けば行くほど不思議な歌詞だった。No Cryであり、Don't Cryではない。スマートフォンで康太は訳詞を調べてみた。



  この曲の訳については、ワールドミュージックの永遠の謎ともいうべきフレーズらしく、様々な解釈があることを知ったが、一番有力な説として、“泣かない女はいない”という訳が目に留まった。泣かない女はいない。
  康太がボブ・マーリーを聴きながらベッドに潜った4時間前。康太の目の前の女の子も泣いていた。友達付き合いをしていた女性に、康太が恋人として付き合ってほしいと告げると、彼女は涙を流した。
「すごく嬉しいし、康太くんが恋人になったらどんなに幸せかと思うけど、私にも好きな男の人がいるの」
  とても紳士的で尊敬出来る男性だが、妻子がある人物だという。そしてその男性の妻も同じように尊敬しており、とても自分にはそのふたりの関係を壊すことなど出来ないのだ、と涙ながらに訴えた。



  こちらも有力な訳として紹介されていた。康太も涙を流す彼女に同じようなことを口にした。
  いつも元気一杯で笑顔でいる彼女が、月明かりの下、すすり泣く。瞳を真っ赤にしている姿は普段の姿とのギャップもあって艶めかしく、動揺している彼女に適切な言葉を囁けば自分のものに出来るかもしれないという不埒な考えが、一瞬だけ浮かんだ。
  しかし、そうした口説き文句を持ち合わせていない康太は「泣かないで」と言うのが精一杯で、何とか和ませようと過去の恋愛に関する失敗談を誇張して話した。アイドルに片思いしてポスターを自室に飾るもそれを妹に笑われた話や、中学の好きだった女性教師にレンタルビデオ店のアダルトコーナーから出てくるところをを見られた話、実はアニメのヒロインにちょっと恋焦がれていた時期があったことを冗談めかして話した。
  話をするたびに彼女は大笑いし、アニメのヒロインの話に至っては、「康太くん、落語家みたい」と爆笑したが、彼女が不安を打ち消すように笑っているのが見て取れて、康太は辛かった。



  こちらはかなり面白い意訳であったが、ボブ・マーリーの情感たっぷりの歌い方にはこれがいちばん似合うかもしれないとも思った。
「康太くんだって泣いてんじゃん」
  彼女を笑わせようとしたつもりがいつの間にか目尻から涙が溢れていた。もはや様々な感情が入り混じり笑い話どころではない。とにかく笑おうと、笑い声をあげればあげるほど、悲しくなった。そして彼女も泣きながら笑った。泣きながら笑う彼女の姿はもはや、直視出来ないほど美しく、とにかくわざとらしく笑った。
「泣いてないよ。俺は大笑いしてる」
 
“Everything's gonna be all right, Everything's gonna be all right”

  康太のイヤホンからジャマイカの英雄は歌い続ける。それは“No Woman No Cry”とは異なる、誰もが同じ解釈ができるであろうフレーズだった。
「なんだか楽しいね」
  一緒に泣いて笑った彼女が、ぐすんと一回鼻をすすると、白い歯を見せて微笑んだ。康太もつられて口角を上げる。この瞬間からもう彼女に想いを寄せるのをやめようと思い、同時に彼女の悲恋を、いや、人生を応援しようと思った。彼女が恋する妻子ある男性のことを、そしてその奥さんを尊敬するように、康太も彼女に敬意を持ったから好きになったのだ。そこから好意を抜けば当然敬意は残る。
  この先2人がどうなるかはわからない。でもきっと上手くいく。あらゆるものは上手くいく。彼だってそう歌ってる。眠りの世界に体を沈めていく。リピートのスイッチが入ったままのウォークマンは相変わらずボブ・マーリーを再生し続けて、トレンチタウンから裏拍を刻んだ。
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