イングリッシュ・レッスン

文字数 1,733文字

 もう大分昔のことなので、細かいことは忘れてしまったが、確か小学2年生か3年生だったと思う。母の勧めで、母が仕事上の付き合いで知り合った女性が先生をする、マンツーマンの英会話塾に通うことになったのだ。あまり乗り気ではなかったが、「ちょっとの間だけでも良いから」と言われ、通うことにした。
 私にとって想定外だったのは、教室の場所だった。塾というのだから学習塾のようなところを想定していたのだが、実際は先生の女性の家をそのまま教室にしている、個人塾だったのだ。内気で、あまり人様の敷居をまたぐのを得意としていないのは当時からであった。どうしてもその家に染み付いた、自分の家とは違う匂いを嗅ぐのが苦手なのだ。
 その自宅兼教室は駅前のマンションの5階にあったが、ハイソサエティな住民が住んでいるマンションであることは、子供ながらに理解できた。先生の家もかなり裕福らしいのは、飾ってある洋食器や家具からなんとなく察することが出来た。そうした環境で「アイ、ライク、チョコレートケーキ」といったようなレッスンを受けていると、なんだか外国にいるような気分になった。

 何度か通ううちに先生とも少し親しくなり、彼女の家族構成なども知るようになった。2人の娘がおり、1人は東京、1人は横浜で暮らしていること、夫がかなりゴルフが好きで、週末はいつも家を空けていることなどを、レッスン後におやつ(これも今にして思えば高価なものばかりだった)を食べながら話し、母が迎えに来るのを待った。
 小学校のクラス内でも「英会話塾に通ってる」ということが、なぜか子供の間でステイタスとして一目置かれるようになり、私自身も英会話とおやつに楽しみを見出したころから、先生の教え方が、やや雑になってきた。時折「ちょっと自習してて」と言って、数十分ほど席を外して電話をしたり、前に教えたところを重複して教えたりするようになっていた。私はそうした様子が少し気になりつつも、お互いの存在に慣れて、緊張しなくなったのだろう、とくらいに考えていた。

「……コウイチくん、今日レッスンの日だっけ……」
 ある日予定通り自宅兼教室を訪ねると、やたら化粧が濃く、うろたえた様子の先生が現れた。なんか変だな、と思いつつもリビングに進むと、上半身裸の大学生くらいの青年が「ユキコさん、どうしたんだよ」と言いながら寝室から現れた。私は絶句した。青年も固まっていた。
「コウイチくん、この方はね……タナカ先生と言って、今日は特別に一緒に教えてくれるのよ」
 流石にその嘘のつき方は無理があるだろうと思いはしたが、そのタナカという青年も、上半身裸のまま「ハァーイ。……アイム、ティーチャー、タナカ」と取り繕うとしている様子が痛々しく、彼女たちに付き合うことにした。先生は何度も「タナカ先生は特別な先生だから、ほかの人に言っちゃダメだからね」と念を押し、3人でABCの歌を歌ったり、「アマゾン、リバー、イン、ブラジ-ル」などを言い合ったが、全く頭に入ってこなかった。
 私は一刻も早く母が迎えに来て、この場から去る、というか消えてなくなることが出来ないかないかを考えていた。先生の教え方が雑になっていた理由も全て察したし、自分の中で上品だと思っていた大人のイメージが崩れるのも嫌だったし、なにより浮気の現場なんて見たくなかった。90分間のレッスン時間が、永遠のように長く感じた。
 家に帰ってからとうとう感情が限界に達した私は泣きながら教室を辞めたいと母に懇願した。先生が浮気していることを幼すぎてうまく言葉に出来ない焦りから、もはや我を忘れ泣き喚き、最後のほうはもしかしたら英会話教室なのだから、英語で言えば母も納得してくれるのではないかという理屈で、「アイ、ドン、ウォント、イングリッシュ、レッスン!」、「アイ、ドン、ライク、マイ、ティーチャー!」と出来る範囲の英語で母に訴えた。母もその異様さにあきれつつも納得したようで、退会を許された。
 
 なぜ今、私がこんな話を思い出したかと言えば、ピアノ教室から帰ってきた娘が、泣きながらピアノの鍵盤に拳を打ち付け、しっちゃかめっちゃかな音を奏でているのだ。

個人塾ではない、教室に通わせているのだが。
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