名前をつけてやるよ

文字数 1,868文字

「その、アカリちゃんにタバコくさいって、言われたくなくて……」
アカリはショウタが香水を振りまく姿を思い浮かべた。要領がわからず何滴も垂らしたのは、きつくなってしまっている香りから容易に想像できた。普段タイマンだ、ステゴロだとわめいている男が、香水ひとつに苦戦しているのだ。それも自分のために。いっそう年下の恋人が愛しく見えた。
 アカリはショウタに抱きつくと



 優れた創作は作者の手を離れて勝手に物語のなかで動き始めるというが、重彦の創作によって生まれた登場人物たちは、いつもここで動きを止めしまう。
 重彦はパソコンの前で硬く腕をこまねいた。重彦が小説を書こうすると、はじめは登場人物が生き生きと物語をなぞり、時には重彦が思いもしないセリフを口にすることさえあった。だがなぜか「濡れ場」になると、ピクリとも筆が動かなくなった。自分で創作したはずの登場人物の裸体に照れてしまい、三木寺重彦という恥ずかしがりの男が、頬を赤らめてしまうのであった。もう23にもなり、小説を書き始めた童貞のころに比べ、わずかながら本物の女性とそうした間柄になったこともあるにも関わらず、現実の女性との営みのほうが、小説の中の情事より、はるかに落ち着いて物事を進められた。
 重彦という同じ「生みの親」が書いた登場人物ゆえ、同じ親を持つもの同士の姦通は、脳内にしかいない人間でも禁忌なのではないか。大仰とは思いながらも、そこまで思い悩むほど重彦はセックスの描写が書けなかった。


 相談に乗ってくれたの吉田太だった。重彦の友人で唯一小説を執筆している人間であった。
「そこまで真剣に自分の作品に対して悩める、シゲはすごいと思うけどなあ」
 太の作風は、短い作品を次々と書いていくスタイルで、長編は書こうと思ったことすらないという。太はじっくりと作品に向き合う重彦を「自分にはできない書き方」とほめたが、重彦も太に対して同じことを考えていた。「書いては後悔の繰り返し」と自嘲的に話していたが、重彦は自作のセックスに照れているような、自分の何倍も意味のある後悔だとおもった。
「シゲもペンネームをつけたら」
 思ってもみないアイデアだった。確かに太はペンネームを使って書いていた。なんとなくではあるが、本名で書くほうが真面目で文章に締まりが出るように感じていたので、筆名を使う選択肢を考えたことがなかったのだ。
「そんな肩肘張らなくてもいいと思うけどね。俺は『よしだふとし』なんてありふれててるし、変なこと書いても、あれは『もうひとりの自分』が書いたものだからって、言い訳もできるしね」
 なるほどと思った。太の「吉田太」という名前はかっこいい、特に縦に書くと左右対称になり迫力があるのも思ったが、太の作品には合わないかもしれない。また「もうひとりの自分」という発想も面白いと思った。
 太のペンネームは「涙河・オニール・充留」であった。


 家に帰ってからあらためて白い紙にマジックで自分の名前を書いてみた。

 三木寺重彦

 「重」の字をを中心に重苦しい印象である。「戦国武将のような名前」と評されたこともあった。硬派な剣豪小説を書くなら良いかもしれないが、重彦の小説の主人公は、初心な不良少年と沖縄の名家から上京してきた女子大生である。『ガソリンとシークワーサーの香り』という題に対して三木寺重彦では、確かにバランスが悪いかもしれない。すこしでも柔らかい印象になるよう、先ほどの紙とマジックペンで、自分の名前をひらがなにしてみた。
 
 みきでらしげひこ

 最初の「みき」が女性的な名前に見えてきた。「みき」を名前にしたらどうか。そして残った文字を組み合わせて「こでら」が見えてきた。「小寺みき」。なんだか少女漫画家のように見えてきた。漢字も大幅に減り、柔らかい印象が生まれたのを実感すると、重彦のなかに、「小寺みき」というもう一人の人格が目を覚ますのを実感した。

「これはすごい!」
 重彦が、というより「小寺みき」が書き上げた『ガソリンとシークワーサーの香り』を、読み終えた太が顔をほころばせる。
「ただ、ただね」
 太の顔が曇り、言葉を選んでいる。しかし何を言われても平気な気がした。小説に関することなら、脳内の「小寺みき」が自分の代わりに受け止める。もはや重彦にとって「小寺みき」は、そうした「別人格」を超えた存在だった。常に自分の中のひとつの部分として、常時自分と行動を共にする。そういった領域にすら達していた。
「シゲ、濡れ場が書けるようになったのはよかったな。……でも、さすがに多すぎるだろ!」
 
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