ぺテルブルグからの水泳選手

文字数 2,170文字

「ウラジミル、元気にしてるかな」
 久々に顔を会わせた友人ふたりは、私もしようと思っていた話題を口にした。ウラジミル・セルジュコフ・スギヤマ。私たちの水泳部に輝かしい日々をもたらしたのは、遥かなる西ロシアの港町、サンクト・ペテルブルグからやってきた彼だった。

 男子のシンクロナイズドスイミングの映画が流行したころは、かなりの栄華を極めていたらしい、私たちの通う県立高校の水泳部だったが、私が入ったころにはその栄光は見る影もなかった。3年生に上がるころには不登校1人をあわせて4人になってしまっており、同好会を除いた部活動では最低の人数だった。これが将棋部や化学部ならともかく、たったこれだけの人数ために広いプールを使わせるのはいかがなものかと、教員たちで議論になっていたようで、私たちは肩身の狭い思いをしていた。
 「夏まで様子見」と結論が先延ばしになったころに、不登校生のかわりに不凍港の街から交換留学生がやってきた。札幌生まれの祖父を持つクォーターで、わずかばかり日本語が話すことが出来た彼は、なぜかずっとプールを見つめていた。私が理由を尋ねると、ゆっくりと、「アイム、スイマー。フロム、サンクト・ペテルブルグ」と答えた。真剣な顔つきで水のない春のプールを見つめる姿を、今でもよく覚えている。
 その日から水泳部は、「廃部危機にある部」から「ウラジミルのいる部」になった。プールに水を張ることが出来ない季節は、校庭の片隅でトレーニングをしていたが、邪魔者扱いだったそれまでと違って、注目される存在となり、時折サッカー部や陸上部の練習に混ぜてもらったりもした。サッカー部ではミニゲームにも参加し、189センチのウラジミルは長身を生かしてヘディングを何度も決めていた。陸上部では戯れに走り幅跳びの距離を取ってみると、陸上部の誰よりも良い成績を出したので、部長が陸上部も兼部してほしいと熱心に誘っていたが、ウラジミルは頑なに「それはできない。アイム、スイマー」と断っていた。

「ウラジミル。本当にいいやつでさ」
 高校時代に比べ、垢ぬけた印象の本谷くんが嬉しそうに語りだす。
「俺さ、中学まで全然女の子にもてなくて。当時好きだったA組の西さんに話しかけようか迷ってたら、突然ウラジミルが『水泳と、おんなじだよ』って言ったんだよ。それ以来だな。不思議と女の子と話すとき、全然緊張しなくなった。西さんとも仲良くなれたし」
「『おんなじだよ』は、俺も言われた」
 こちらは高校時代と同じく、ずんぐりむっくりの亮一も思い出したように話し出す。
「英語の成績が悪くて、休み時間もテキスト開いてたんだよ。それでもうまくいかなくて。そしたらウラジミルが俺のところに来てさ。なんかクロールの手振りで必死になんか表現して、最後に『水泳とおんなじだよ』って言ったんだよ。後で思ったんだけど、たぶん息継ぎと息抜きのことを言ってたんだろうな」
 
 学校中の皆に愛され、水泳部の地位向上に大いに貢献してくれたウラジミルは、ほんの少し日本語が流暢になったころにぺテルブルグへ帰った。大々的に送別会が開かれ、なかには泣きながら告白する女子生徒まで現れるほどだった。水泳部のプール使用は認められなかったが、廃部は免れ、市営プールを部費で使用して良いという許可が降りた。間違いなくウラジミルが愛されたからであろう。

 彼との出会いから幾星霜を経た今、苦楽を共にした3人の水泳部員が彼をしみじみと思いだす。脳内でウラジミルの大きく美しい白い腕が、きらきらと水しぶきを上げている。2人もきっと彼の泳ぎを思い浮かべているのだろう。
「この店にウォッカがあればね」
 ウイスキーを片手に本谷くんが冗談めかして言う。一心不乱に泳ぐ彼の髪の色も、ウイスキーと同じく鮮やかな琥珀色だった。さらにいい雰囲気になったところで、亮一が思い出したように言う。
「あいつの泳ぎってさ……、あれ?……」
 私の脳内ビデオにノイズが走る。
「……春子、あの佐々口さんが泣きながら告白した送別会って…………いつ頃だったっけ」
「確か、夏休みの前。いや、もっと前よ。6月の後半だったはず」
 ウラジミルに関する映像がいっぺんに呼び起させる。送別会、走り幅跳び、サッカー、みんなに愛される彼、そして最初に出会った時のプールを見つめる横顔。しかし時系列に照らし合わせると、彼は市営プールの使用許可が降りる前に、サンクト・ペテルブルグへ帰っていることになる。私の脳内でバタフライをするウラジミルが色あせてくる。バタフライ? どうして彼の泳法がバタフライなのだ? 琥珀色の髪? うちの水泳部のスイムキャップは……? 記憶にさらに激しいノイズが現れる。
「ウラジミルはとてもいい奴だったし、彼が嘘をついてるとか、そういうことを言うつもりは無い。全く無いよ。ただ……、ただね」
 亮一が慎重に言葉を選ぶ。
「『アイム、スイマー』とか言ってたけど、俺ら3人、ウラジミルが泳いでいるところ、見たことないじゃん」
 いつのまにか改ざんされ、長らくそのままだった記憶の市営プールを見渡すと、ウラジミルの姿はそこに無く、垢ぬける前の本谷くんと、ずんぐりむっくりの亮一が入念にアキレス腱を伸ばしているだけだった。塩素のにおいがほのかに漂う頭の中に、二度と帰ってはこなかった。
 
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