ゴールデン街にて

文字数 1,661文字

「あれ、マッキーじゃん。なにしてんの、こんなところで」
 午前一時の新宿アルタ前のライオン像の前で久しぶりに会った早苗さんはボブ・カットになっていた。僕は終電を逃して途方に暮れていることを話すと、「うちの店に来なよ」と誘ってくれた。なんでも今年の春からゴールデン街のバーに週に二回、バーテンとして店番をしているのだそうだ。
 花園神社の近くにある店に行くまでの道のりでは昔話に花を咲かせた。早苗さんと知り合ったのは7年前、学生時代にアルバイトをしていたエロ雑誌の編集部の、編集長の彼女だった。時折3人でご飯を食べたりもしたが、美術専門学校でデザインの勉強をしていた彼女はいつも服装も仕草も洗礼されており、三流大学の文学部で油を売っているだけの自分と比較して、とても同い年とは思えなかった。僕は敬意をこめるのと女性との距離の詰め方がわからなかったので、「さん」付けと敬語で彼女に接していた。
 店に着くと互いにビールを飲み始め、お互いの近況に話題が切り替わった。僕は大学を卒業してから、ライターとして仕事をしていること、早苗さんは様々なウェブサイトにイラストを描いたり、バイトをすることで生計を立てていることを話した。
「マッキー変わってないね」
「早苗さんも変わってないですよ」
 間接照明に照らされた早苗さんの顔を覗くと、相変わらず化粧は薄かった。しかし唇だけどぎつい朱色の口紅が塗るという独特な化粧術は変わっておらず、東洋的な切れ長の瞳と相まって、鋭角的な美を彼女の顔から感じた。
「編集長は元気にしてます?」
「スズキさん? あれとは別れた」
 カウンターに立つ早苗さんはピアニッシモに火をつけると、ふうっと紫煙を吐いた。当時雲の上の存在だった編集長を“あれ”と呼ぶところから、タバコのフィルターに口紅の跡を付けるまで、あらゆる所作が美しく、見てて惚れ惚れと見入ってしまった。
「マッキーは誰かと付き合ったりしてないの? ほら、前に話してたミカちゃんって言ったっけ?」
「もう大分前のことじゃないですか。3年前の冬に告白してあっさり振られましたよ」
 早苗さんはピアニッシモを左手に挟んでヒヒヒと笑った。2人きりの店内は男女の話題をしたせいか、妙に艶っぽい空気になったように感じた。思えば早苗さんに対して美人だと思っても、付き合いたいだとか、恋人にしたいなどといった感情を持ったことが無かった。上司たる編集長の彼女だったのだから当然だった。しかしそれも過去のことである。
「早苗さんこそ、いま男の人と付き合ってる人いないんですか?」
「いるよ。今日もお店に来るんじゃないかな」
 早苗さんは問いかけに造作もなく答えた。僕はがっかりするような、安心するような気持ちになった。おそらく両方を少しずつ感じたのだろう。
 それから10分もしないうちにドアが開くと、一人の中年男性が入ってきた。それが早苗さんの恋人であることは、なんとなく一目で分かった。コートの着こなしや表情の優雅さが、早苗さんにどことなく似ていたからだ。
「君って、もしかしてマッキー? マキタくんだったっけ。話は早苗ちゃんから聞いてるよ」
「マキノです」
「早苗ちゃんがよく業界に入ったころの話をするんだけど、同い年のマキノくんがいてやりやすかったとか、同い年なのにすごくおじさんくさくて面白いとか、よく話に挙がってたんだ」
 早苗さんの新しい恋人が自分のことを知っているのは意外だった。日本人離れした彫りの深い目鼻立ちで僕に向かってほほ笑むと、早苗さんもつられて口角を上げた。僕は照れているのを隠すのに必死だった。
「じゃあ乾杯しようか。早苗、ビールをお願い」
「マッキーもビールおかわりするでしょ」
「あ、ハイボールでもいいですか」

 それからもう何年も早苗さんとも、その彼氏とも会っていない。人伝いに結婚したとか双子の親になったとか聞いたが、真相は分からなかった。彼女のイラストは時折雑誌やウェブサイトで見かけたが、その度に思い出すのは、ピアニッシモのフィルターに付いた、彼女の朱色の口紅だった。
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