ステフおばさんのクッキー

文字数 1,694文字

「クッキー買って来たんだけど食べる?」
 恋人の提案にうなずくと、彼女は洋菓子店のレジ袋を食卓に置いた。

‟AUNT STEPH’S” (ステフおばさんのクッキー)

 袋から何枚かつまんで口に運ぶ。店名のロゴマークの中央には、人当たりの良さそうな眼鏡の女性が微笑んでいる。彼女のふくよかな体型は、海中のハリセンボンを思わせた。恋人が仕事帰りによく買ってくる、この『ステフおばさんのクッキー』の『ステフおばさん』とは何者なのだろう。実在するのだろうか。「ステフ」なら、やはり本名はステファニーだろうか。サクサクとした口触りを味わいながら、私は『ステフおばさん』のモノトーンのイラストをまじまじと見つめた。

 カンザス州ウィチタのはずれ。子供だったころの創業者が、ライ麦畑の間にある一本道を一目散に走っていく。大好きなステフ伯母さんが焼いているであろう、クッキーの香ばしいにおいが僕の家のオーブンから、ライ麦のハーベストゴールドとひとつになって広がっていく。「おやおや。そんなに慌てなくても、クッキーは逃げたりしないわよ」。腰は曲がっているが、かくしゃくとしているステフは甥が自作のクッキーを食べる光景をなによりも……。

 ここまで勝手に妄想を広げたところで、この『ステフおばさん』の物語が焼菓子の味とは全く関係のないことに気付く。『ステフおばさん』という語感とやさしいタッチのイラストから作り出された、「ドラマ」を食しているのではないか。
 ステフという女性がどこかにいたのかもしれないが、恋人がいま買ってきたものは間違いなく『ステフおばさん』が焼いたものではない。『ステフおばさん』がさいたま市(それも旧・浦和市)に住んでいるなら別として、おそらくそうでない。

 昨年ぎっくり腰を起こしてしまい、何事もゆっくり生活するようになった河島は今年で55だった。彼の勤務先は『ステフおばさんのクッキー』の工場だった。勤続年数の長い河島は、もはや無限に等しいほど作られていくクッキーに対して、わずかな感情も湧かなかった。それは河島の夫婦生活も同じだった。娘婿とそりが合わず、それが遠因となり、妻との関係もここ10年でいっぺんに冷え切った。今では朝、「おはよう」と言うのが唯一の夫婦間のコミュニケーションである。河島は65まで働くつもりでいたが、この生活が今の腰の状態で、いつまで継続できるのかわからなかった。もしも腰の状態の改善が見込めないまま、妻が離婚を切り出したら……。

 食べる手が止まった。いくら自分の妄想とはいえ救いがなさすぎる。しかしかながらこれも「ドラマ」であり、菓子そのものと関係のある話でない。もしも仮に『ステフおばさんのクッキー』と『娘婿とうまくいっていない河島さんのクッキー』が全く同じ味だとしたら? 私としても前者のほうが食べたいが、「全く同じ味」なのである。前者と後者の違いは名前からの認識論的印象でしかない。

 『レアードパパ』というシュークリーム店もあるが、レアードって誰だろうか。アメリカの州の名前を冠したチキン屋がもし、『下落合フライドチキン』だったら、同じチキンでも同じ味に感じるだろうか。全国各地の名湯の地名の入浴剤があるが、私は登別も乳頭も道後も別府も行ったことがない。伊香保には行ったことがあるが、『伊香保温泉気分』を入れて入浴した際に、伊香保を思い出したことは皆無だ。いったい自分は何を感じてきたのだろう。悩める私をレジ袋の『ステフおばさん』が優しく見つめている。
「あれ?」
 恋人の声がキッチンから聞こえてきた。
「ごめん、さっき渡したの『ステフおばさん』じゃなかった。袋の中身入れ替えてたの忘れてた」
 私の思考がすべて停止する。
「『ステフおばさん』の袋には今日、総務部の後輩がお土産にくれた『草加せんべい風ビスケット』を入れたんだった」
 恋人が「本物」の『ステフおばさんのクッキー』を皿にのせて持ってきた。いや、そもそも彼女は恋人なのだろうか。私が自分の恋人であってほしいと願っているだけで、彼女の本心は違うかもしれない。それは『ステフおばさんのクッキー』と『草加せんべい風ビスケット』が違うように。
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