第9話

文字数 2,190文字

「お前ら、付き合ってんだろ!」
 樹と一緒に教室に入るやいなや、いきなりそう言われた。クリスマスイブの、終業式の日のことだった。ヒューヒューと囃し立てる口笛、ホモじゃん、引くわ、という嘲笑。奇異の目。黒板を見ると、僕と樹の名前が書かれた大きな相合傘があった。事態が飲み込めなかった。どうしてそんなことが言えるのか、樹とはまだ、普通の友達になれているかすら、僕にもわからないのに。
「いつも一緒に登下校してるのに、学校じゃよそよそしいもんな」
 うまく声が出ない。樹はどう思っているのだろう。嫌な思いをしているだろう。早くなにか言い返さなければ。
 樹は無表情のまま黒板をちらりと見てから、僕の手を握って飄々と席に向かった。
「え、手繋ぐとか、公認カップルじゃん」
 中心となっている、サッカー部の藤原が、周りの奴らと一緒に手を叩いて笑った。それ以外の生徒はピリピリとした空気で僕たちを見ている。
 樹は音を立てて僕の椅子を引き、突き飛ばすように僕をそこに座らせ、自らは机の上に座った。
「俺が聖と付き合ってたら、なんや?」
 よく通る声だった。
「は? 否定しないとか、やっぱホモじゃん。きもちわりぃ」
 そう言って樹に詰め寄るが、動じない。僕はあの日、転校初日の給食の時間のように、ただ押し黙っていることしかできないのだろうか。
「うるさいねん、クソ童貞」
 唇の動きだけで笑う樹の言葉に、藤原の両目はわなわなと震えた。
「お前ら、昨日の夜もヤッてんだろ」
 取り巻きが後ろから煽る。
「そうやったら羨ましいか?」
「やっぱ、ヤッてんだ! そいつ、前からなよなよして女みたいだったし。つうか、お前も感染してんじゃねえの」
 ガツン。鈍い音が響く。樹が顎に向かって頭突きした音だった。悲鳴と心臓の音が響く。あの日と同じだ。呼吸が詰まる。
「馬鹿かよ、セックスじゃ感染せぇへんって知らんのか?」
 なんだか、僕とセックスしたかのような口ぶりだった。樹がこうなると止められない。
「てめえ!」
 藤原が樹を押し倒し、その拍子にまた鈍い音が鳴る。体が思うように動かない僕は、吹き飛ぶように椅子から転落する。
 頭から血を流している樹が、藤原に馬乗りになっている。
「なんやったら、今からお前のこと噛んでもええんやぞ」
 ゆるくネクタイを締めている、日に焼けた首筋を樹は指でなぞっだ。
「お前ら、こいつどうにかしろよ!」
 取り巻きは困惑し、震え、こちらを見ているだけだ。僕も同じだった。樹が藤原の震える顔を、何度も打つ。その度に額からぽたぽたと血が垂れる。視界が、脳が揺れる。
 樹がその首に顔を近付ける。
「やめろ!」
 自分の叫び声だと気付くのに、幾許かの時間がかかった。
 僕は勢いに任せて樹の体を引き倒し、その隣にへたり込む。仰向けに倒れたまま動こうとしない樹の頭を撫でると、ぬるりとした生暖かい液体が傷んだ髪と絡まりあっていた。視界が霞んだ。樹の真新しいシャツに垂れた血が滲んでいる。
「やめてよ、もう、こんなことしないで」
 馬鹿にされたことへの怒りだろうか。樹が傷ついたことへの悲しみだろうか。平穏な、僕なりの普通が失われてしまったことへの執着だろうか。
 ち、と舌打ちをした藤原が、腹いせのように倒れたままの樹の脇腹を蹴った。
「やめろって言ってんだろ!」
 思わずその足を掴む。僕の手についた樹の血が、ズボンにべたりと付着した。今までとは違う意味で、思うように体が動かなかった。
「ゾンビだからって、調子に乗ってんじゃねえぞ。上山、てめえもゾンビ相手に優しくして、いい気になるなよ」
 腹の辺りを蹴りつけられた。サッカー部レギュラーの肩書きは伊達じゃなかった。蹴られた箇所から胸にかけて、熱を帯びた痛みが広がる。藤原の言った言葉は、樹に言われる「ゾンビ」とは真逆だった。事実を突きつけられることの恐怖。お前は普通ではない、人間ではない、そういうことを思い知らされる。
「聖に手ぇ出してんちゃうぞ」
 起き上がろうとする樹の額を再び撫でる。どくどくと血管が動いているのが指先に伝わる。
「どうして、どうして樹は、もっと普通にできないの、なんで」
 ほとんどがうまく発音できなかった。血塗れになった手で涙を拭う。雨上がりの公園の、鉄棒のような匂いに噎せ返った。
「普通って何や?」 
 樹が口の中の血を吐き出す。どうすることが正義なのか、どうすれば大切なものを守れるのか、何もわからなかった。
「聖がこんな目にあう世界が普通なんやったら、そんなもん、いらんわ。俺が聖のことを好きなんが、俺の中での普通や。好きな相手が傷つけられて黙ってられへんのが俺の普通や」
 一息でそう言い切ってから、僕にだけ見えるようにして笑った。
 嬉しかった。僕も樹のことが、たぶん好きだった。それでも、うまく笑い返すことができなかった。藤原が言ったことが引っかかっていたのだ。樹は僕がゾンビだから、僕のことを好きなのだろうか。それに、男が男を好きだというのは、藤原たちの中では異常なのだろう。
「さんきゅ」
 僕の手に樹の手が重なる。指輪だけがひやりと冷たかった。前の彼女から貰ったという指輪。
 僕がゾンビで、男だから、樹は僕を好きになったのだろうか。
 それでも、僕が人間で、女だったなら。
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