第10話
文字数 1,325文字
朝礼が始まる前に、藤原は自分で黒板に書かれた相合傘を消していた。我に返ってから、また八代に呼び出されるのではないか、と心配したが、それは杞憂に終わった。きっと、誰も何も言わなかったのだろう。
大丈夫だと意地を張る樹を説得して保健室に行くと、春野は黙って傷口を消毒し、ガーゼを貼ってくれた。
「あんまり無茶するのは良くないわよ」
と、独り言のように言って僕たちを教室まで送ってくれた。八代には「転んで頭を打っただけや」と樹が嘘をついた。
飲酒喫煙は勧められて手を出さないように。不純異性交遊はしないように。校長の、結局なにが言いたいかわからない長い話と、生徒指導のありきたりな注意。部活動の表彰式。終業式の時間が過ぎ、いつものように樹と一緒に帰ろうとしたが気分は重かった。冬休みには、スカイツリーへ行こう、東京タワーのほうがいいかも、約束とも呼べない話を本気にしていた僕は、今日の下校時間を楽しみにしていたはずなのに。上野の博物館に行こう、と誘ってみようと思っていたのに。
周囲の目が怖かった。
「帰ろうや」
技術の授業で作ったオルゴールをはじめとする、たくさんの荷物を抱えた僕に対して、普段通り身軽な樹が言った。
藤原たちのグループはこちらを見て嘲笑っていたが、教室内に八代がいるのもあり、直接的には何もしてこなかった。それに、樹がそちらを睨みつけると、彼らは慌てて目をそらした。
「気にすんなよ」
樹が手を握ってきたので、僕も握り返した。あの日の握手と同じく、汗ばんでいたが、気持ち悪いとは思わなかった。暖かい。
手を繋いだまま、坂を下る。陸上部は終業式なのにもかかわらず、坂を駆け上がっている。その途中、校門の前に立って生徒を見送っている生徒会と教師がちらちらと僕らを見ているようで嫌だったが、その度に僕の手を握る樹の手に力が入るので、平気だった。すこしだけ強くなったような気がしていた。
繋いでいない方の腕が、重い荷物のせいで痺れてきた。顔に出ていないだろうか。
同じ通学路の色がなぜか違って見えるのは、まだ今が昼過ぎだから。
「いつき」
舌ったらずだ、と自分で思った。続ける言葉はひとつしかなかった。樹、僕のことが好きだって本当?
「冬休みにさ、上野の博物館に行かない?」
そうじゃない。
「博物館? ええけど、俺、アホやからなぁ」
「僕も、ほとんどわかんないけど。す……面白いよ」
好きなんだ、という言葉を、無意識のうちに避けていた。どうしよう。もうすぐ樹のアパートに着いてしまう。
「俺んち、いま誰もおらんけど、寄ってかへん?」
思ってもみないチャンス、かもしれない。家の中なら、道端よりも話しやすい。昼ご飯を用意して待っているだろう母親の姿が脳裏に浮かんだが、後で電話を入れることにしよう。駄目だと言われても、帰るつもりはなかった。
「うん。行く」
ぱっと樹の顔が明るくなる。
「やっとやな」
そういえば、今まで何度も誘われて、毎回理由をつけて断っていたっけ。
「昼飯、俺が作ったるわ」
ガッツポーズをして笑う樹はとても幸せそうで、僕も幸せだった。
額のガーゼの白は、この世でいちばん白かった。
大丈夫だと意地を張る樹を説得して保健室に行くと、春野は黙って傷口を消毒し、ガーゼを貼ってくれた。
「あんまり無茶するのは良くないわよ」
と、独り言のように言って僕たちを教室まで送ってくれた。八代には「転んで頭を打っただけや」と樹が嘘をついた。
飲酒喫煙は勧められて手を出さないように。不純異性交遊はしないように。校長の、結局なにが言いたいかわからない長い話と、生徒指導のありきたりな注意。部活動の表彰式。終業式の時間が過ぎ、いつものように樹と一緒に帰ろうとしたが気分は重かった。冬休みには、スカイツリーへ行こう、東京タワーのほうがいいかも、約束とも呼べない話を本気にしていた僕は、今日の下校時間を楽しみにしていたはずなのに。上野の博物館に行こう、と誘ってみようと思っていたのに。
周囲の目が怖かった。
「帰ろうや」
技術の授業で作ったオルゴールをはじめとする、たくさんの荷物を抱えた僕に対して、普段通り身軽な樹が言った。
藤原たちのグループはこちらを見て嘲笑っていたが、教室内に八代がいるのもあり、直接的には何もしてこなかった。それに、樹がそちらを睨みつけると、彼らは慌てて目をそらした。
「気にすんなよ」
樹が手を握ってきたので、僕も握り返した。あの日の握手と同じく、汗ばんでいたが、気持ち悪いとは思わなかった。暖かい。
手を繋いだまま、坂を下る。陸上部は終業式なのにもかかわらず、坂を駆け上がっている。その途中、校門の前に立って生徒を見送っている生徒会と教師がちらちらと僕らを見ているようで嫌だったが、その度に僕の手を握る樹の手に力が入るので、平気だった。すこしだけ強くなったような気がしていた。
繋いでいない方の腕が、重い荷物のせいで痺れてきた。顔に出ていないだろうか。
同じ通学路の色がなぜか違って見えるのは、まだ今が昼過ぎだから。
「いつき」
舌ったらずだ、と自分で思った。続ける言葉はひとつしかなかった。樹、僕のことが好きだって本当?
「冬休みにさ、上野の博物館に行かない?」
そうじゃない。
「博物館? ええけど、俺、アホやからなぁ」
「僕も、ほとんどわかんないけど。す……面白いよ」
好きなんだ、という言葉を、無意識のうちに避けていた。どうしよう。もうすぐ樹のアパートに着いてしまう。
「俺んち、いま誰もおらんけど、寄ってかへん?」
思ってもみないチャンス、かもしれない。家の中なら、道端よりも話しやすい。昼ご飯を用意して待っているだろう母親の姿が脳裏に浮かんだが、後で電話を入れることにしよう。駄目だと言われても、帰るつもりはなかった。
「うん。行く」
ぱっと樹の顔が明るくなる。
「やっとやな」
そういえば、今まで何度も誘われて、毎回理由をつけて断っていたっけ。
「昼飯、俺が作ったるわ」
ガッツポーズをして笑う樹はとても幸せそうで、僕も幸せだった。
額のガーゼの白は、この世でいちばん白かった。