第15話

文字数 3,169文字

「僕は平気だけど、樹は足りないかも、です」
 フライドチキンを食べ終わって、油でべとべとになって行き場をなくした手を空中に浮かせながら僕は言った。
「うん。足りねえ」
 僕が半分食べて残したポテトに手を伸ばし、ジャージに着替えた樹が咀嚼しながら言う。
「あとでコンビニでも行こっか」
「そうや。それなら黒染めのやつ買ってや、聖に手伝ってもらって染めるから」
 樹のお母さんが骨を空き箱に放り投げて、紙ナプキンを僕に渡してくれた。自身も綺麗に整えられた爪先を拭っている。
「聖に、黒髪のほうが似合うって言われてん」
「あらま。あたしが同じこと言った時には染めなかったのに」
 ケーキは風呂入ってから食おうや、と樹が言って、袋に直接口をつけて残ったポテトを飲み込んだ。
「眠くならないうちに、コンビニ行っちゃいましょ」
 長い指で机の上から高級そうな、しかし使い込まれて端が擦り切れている長財布をとるのを合図に、僕たちは席を立った。
 廊下へ続く扉を開くと、ひやりとした空気が流れ込み、身震いが走る。
「ほらいっくん、上着持ってくる」
 いっくんって呼ぶな、と返事をした彼は自分の部屋に入っていき、すぐに二着の上着を持ってきた。首元にファーのついたカーキ色の長いコートと、ナイキのロゴマークが入ったシャカシャカした素材のジャケット、それとヒョウ柄のマフラー。
「どっち着る?」
 僕が戸惑っていると、
「こっちが似合う!」
 樹の母親に提案されたのはカーキ色のコートの方だった。
「じゃあ、こっちにする」
 重い素材のそれを渡されて、言われるがままに袖を通す。首の周りがくすぐったかった。
「このコート……いっくんには大人っぽすぎるけど、聖くんには似合うわね」
 タバコの匂いが染み付いたコートは、いつも着ている母さんが買ってきたダッフルコートとは全く違っていて落ち着かない。
「これも巻いて、外寒いから」
 樹の手によって乱暴にマフラーが巻きつけられる。すこし苦しかったけど、そのままにしておくことにした。
 日付が変わってから親以外の人と一緒に外に出るのは初めてかもしれない。コンビニに行くだけなのに、僕の胸は高鳴った。アパートの外階段を降りる足音だけが響く。そこに、カチカチと小刻みな音が混ざっているのに気付き、音の方向を見ると、両手をポケットに入れて綺麗な鼻と頬を真っ赤にして震えている樹がいた。
「マフラー、返そうか?」
「いい。俺は平気やから」
 僕に対してつく嘘は、どうしてこうも下手くそなんだろう。
「なに笑ってんねん、うりゃ!」
 マフラーとコートでの防御がギリギリ及ばない胸元付近に、氷を投げ込まれたかと思った。驚いてもつれた足を、階段の上でなんとか整えて、樹の手を取って抑え込む。
「あんまりはしゃがないの」
 ぎゃ、と樹が悲鳴を上げる。うなじに、彼の母親が手を突っ込んでいた。僕は樹の右手を掴んだまま、自分のポケットに入れる。
「反対の手、握れないね」
 僕が言うと、
「じゃあ、母ちゃんがもーらい!」
「めっちゃ恥ずかしいわ、これ」
 樹は不満気にそう言ってはいたものの、表情はとても柔らかかった。
 深夜に見る公園の木は、明るい時間に見るのと違って酷く歪んでいた。化け物の影のようにも見えるが、不思議と怖いなどとは思わなかった。ただ「そういう一面もあるんだな」と思った。
「一番星」
 空を見上げる樹の口から、白い息が立ち上り、街頭の灯りに照らされて闇に溶ける。
「え、どこ?」
 上を向いて空を探したが、どれのことを言っているのかわからなかった。僕の目では、澄んだ空と三日月しか見えなかった。あそこだよ、と樹は主張するが、やはり見つからない。
 不意に体がガクンと引っ張られ、前につんのめる。
「ちょっと、危ないってば!」
 左端の彼女が、空いた方の手で髪を掻き上げながら笑った。
「そうやで、聖。俺たちは運命共同体なんやから!」
「今のは樹が転んだからだよ」
「そうよ、いっくんが転んだとこ、あたしも見てたよ」
 えー、と樹が嘆き、うなだれた後、すぐにはっとして顔を上げて、
「俺、この線から落ちたらサメに食われるから」
 と大真面目な顔をして言った。
「切り替え、早すぎ」
 僕の言葉が道路の白線の上に足を置くことに集中している彼の耳に届いているのかいないのか。
 遠くに見える高層マンションの光の群れが、イルミネーションみたいだった。

 コンビニの店内は嘘のように明るく暖かい。僕たちは手を解いて、陳列棚を物色する。買い物カゴに次々と菓子類や飲料を入れていく樹の母親がいきなり振り返り、
「聖くんも欲しいものあったら言いや、今日はクリスマスなんだから」
 理由になっていない理由。お腹いっぱいなので、と遠慮すると、
「こっちの店、大阪より時給いいから。食べ物じゃなくてもええんよ」
 間を空けずに耳元で囁かれる。
「ありがとうございます」
 求めている商品を探して、僕が向かったのは日用品コーナーだった。化粧品やシャンプーの並ぶ棚を目で追って、目当ての物を取ってパッケージを見る。恐らく、これで間違っていないはず。酒類の冷蔵庫の前にいる、樹の母親にそれを渡した。
「あら、これでいいの?」
 僕は無言のまま頷く。
「意外とちゃっかりしてるというか……」
 しなやかな手で箱をカゴの中に入れ、レジへ向かう。
「樹、もう帰るよ」
 会計をする彼女にお礼を告げて、コンビニに入ってからずっと漫画雑誌を立ち読みしていた樹に声をかけた。
「あと一ページで読み終わるねん」
 開かれたページを覗き込むと、有名な海賊漫画があった。
「八代が好きなやつ」
「悔しいけど、八代もええ趣味しとるなあ」
 樹は雑誌から目を離さずに笑った。
 
 帰り道は徒競走をした。重いレジ袋を提げた樹に惨敗した僕に命じられた罰は、ケーキの切り分けだった。マフラーを巻いているのにも関わらず冷たい空気が肺に入ってきて、喉の奥が独特の鉄の味に満たされる。
「あんたらの若さにはついてけないわ」
 早々に走るのを諦めて、途中からは歩いていた樹の母親がようやくアパートの階段を登り終えた。
「早く鍵開けてや! 寒いねんから!」
「やっぱり、寒いんじゃん」
 その場で小刻みに足踏みをしていた両足が止まって、黒く、蛍光灯を反射してきらきら光る両目が僕を見る。
「今の、嘘やから!」
「嘘つかないって約束したのに」
「ごめんって、怒らんとってや」
 怒ってないよ。
「あ! 黒染め、買うの忘れとった」
 やっと追いついた樹の母親が、鍵を開けて振り返る。
「いっくん。袋の中、見てみなさい」
 樹は袋の中に手を突っ込み、がさごそと手探りで漁った後、はっとした顔で僕を見た。
「聖くんがいてよかったわね」

 ケーキを食べて、樹の髪を染めるのを手伝った。額に傷があるから今日はやめておいたほうが、と咎めたが、どうしても今やりたいと押し通されたので防水の絆創膏を貼ってからカラー剤を塗った。そのあと一緒に風呂に入って、ドライヤーで互いの髪を乾かしあった。柔軟剤の匂いのするタオルがふかふかして気持ちいい。樹の母さんが、僕のぶんの布団を用意してくれようとしたが断った。狭い布団でふたりで寝たほうが暖かいからだ。
 寝る前に、樹によく似た笑顔の男性に手をあわせた。菩提樹の絵を描いていた親父の前でクリスマスを祝うのはなんか変だな、と樹は笑っていた。部屋へ戻るとすぐに、樹がカーテンを閉めたので、どきどきしたけれど、そのまま何もせずに手を繋いで眠った。
 なんだか、色々なことがあった一日だったな。
 次の日の朝、目が覚めると、またもや僕が布団を独占していた。
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