第7話

文字数 1,966文字

 教室に戻って荷物を取り、下足室で、僕は入学した頃に買ったコンバースのスニーカーに、樹は赤いぴかぴかしたバスケットボールシューズに履き替える。
「バスケするの?」
 本当に聞きたいのは、保健室で八代に何をしたのかだが、そっちはなんとなく学校を出てから聞きたかった。
「いや、カッコええから買った!」
 樹はさみぃ、と独り言のように続けて、リュックからマフラーを出して首に巻く。
「あ、ヒョウ柄」
 それを指して僕は言った。
「大阪っぽいやろ」
「大阪っていうか、樹は派手好きなんだね」
 樹は、大きな目をさらに見開いた。
「……どうしたの」
 何か悪いことでも言っただろうか。不安になって問うた。
「いや、やっと笑ったから」
 意表を突かれた後、なんだか恥ずかしくなって顔を背けて校門に足を向ける。
「あ、おい! 待てって」
 背後で樹が焦っているのがおかしくて、僕は前を向いたまま、もう一度笑った。

 家の方向が同じだったので、学校から出て左手の急な坂を駆け上がってくる陸上部員たちを横目に下り、それから僕たちは色々な話をした。東京に初めて来たけれど、まだ東京タワーもスカイツリーも見に行けていないということ。大阪のほうが汚いけれど住みやすいということ。甘いもの全般が好きだということ。前に付き合っていた女子のこと。
 一方的な樹の話に、僕は相槌を打つだけだったが、それはとても居心地が良かった。
「明日からチャリ通しよかな」
「うちの学校、自転車通学は禁止だよ」
「うえ、こんなに遠いのに」
 確かに家は遠かったが、こうして他愛のない話をする時間が長くあるのはなんだか安心できた。面倒で、何を考えているのかわからない転校生が相手だとしても。しかしそんな中でも、いつ僕の病気のことを話し始めるのだろうか、ということだけが不安で仕方ない。
「なんか、普通やな」
 垂れてきたマフラーを後ろに払って、空に向けるようにして呟いた。転校初日で騒ぎを起こし、担任に呼び出されておいて「普通」だとは、肝が座っているというか、まともな神経をしていないというか。
「なにが普通なの?」
 樹が蹴った小石が路肩の溝に落ちるのを二人で見届ける。
「学校も、街も、そこに住んでる人も。それから――ああ、ええわ。なんでもない。そういうもん、なんにも変わらへんねんなーって」
「大阪と同じってこと?」
 彼の目には、僕のことも普通に映っているのだろうか。
「うーん、まあ、そんな感じ」
 は、と樹が笑うと、白い息が浮かんだ。
「あ、俺の家ここ!」
 樹がそう言って見上げたのは、ちいさな公園の横のちいさな木造アパートだった。
「今はたぶん、誰もおらんけど……寄ってくか?」
 しまった。世間話ばかりで、聞きたいことをひとつも聞けなかった。
「いや、今日はやめとく。母さんが心配するから」
 両親が過保護なのは事実だが、会ったばかりの転校生の家に行くのは気が引けた。
「今日は、ってことは、いつか来るんやな?」
 にい、と不敵に笑う樹。大人びているのに、表情や情緒は小さい子供のようだ。
「うん、いつか。じゃあね」
 その場しのぎの返事をして、僕は踵を返した。
「また明日なー」
 明日も樹の暴挙に付き合うことになりそうだ。胃は痛くなるが、さほど嫌ではなかったのはなぜだろうか。
「俺、八代のこと噛んでやった!」
 背後から大声が聞こえて、驚いて振り返る。噛んだ? 八代を?
「あいつ、すっげえビビってた!」
 黒板消しをドアの上に挟み、それが直撃した。そんなありきたりな話をするように、樹は言った。
 そんなに心配なら、今すぐにでも検査受けてきたらええんちゃいますか――。あれはそういう意味だったのか。八代は樹に屍喰症の検査を勧め、それに激情した樹は八代を噛んだ。もちろん樹は感染していないのだから問題はないが、八代は慌てて病院に駆け込むだろう。
「あんまり、無茶しないでよ……」
 感染の可能性を抜きにしても、教師に噛み付くという行為自体が大問題だ。
「聖も笑ってるやん」
 僕も笑っていたのか。笑顔というのは、意図せずに出るものだったのか。懐かしい感覚をひとつ、取り戻したような気分だった。
「あのさ、その、僕と友達になってくれる?」
 妙なことを口走った。樹と友達になれば、毎日が今日のように滅茶苦茶になるだろうか。そもそも、僕と友達になどなってくれるのだろうか。言ってから後悔した。
「友達、て。『なる』言うてなるもんなんか? それじゃ、プロポーズみたいやな」
 夕日に透ける茶髪と、真っ黒い瞳がきらきらと光っていた。すっかり寒々しくなった公園の木々の緑や赤や茶色と、アパートのひび割れた壁に上塗りされただけの白いペンキが、一枚の絵のようだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み