第8話

文字数 1,004文字

 次の日、八代はげっそりした顔で教壇に立った。感染していれば暫く入院になるはずだから、検査には行ったものの陰性だった、というところだろうか。
 樹は昨日の通り、全ての授業を寝て過ごしたが、体育のサッカーでは準備体操で校庭を二周しただけで息切れしている僕と比べ、大活躍を見せていた。真冬だというのに半袖に半ズボンで、裾を引っ張って顔の汗を拭く樹の白い腹を見て、図らずしも「美味そうだ」と思ってしまったのを頭を横に振って打ち消した。
 人間が美味そうに見えるとは。昨日の夜も、今日の朝も、ちゃんと薬を飲んだはずなのに。
 給食の時間、樹は当然の如く僕の正面に座った。八代はもうこなかったし、僕がアルコールで食器を拭かなくても咎める者は誰もいなかった。

 僕と樹が会話と呼べる会話をするのは、下校の時間と、登校時に偶然会った時だけ。教室ではうまく声が出ないから、という僕の勝手な理由のせいだった。
 いつしか僕は、樹が登校する時間に合わせるようになって、彼の制服はブレザーに変わった。
 樹が病気のことや転校初日のことを聞いてこなかったので、僕からもそのことを聞くのはやめにした。昨夜見たテレビの話や、面白い漫画の話をしている間だけは、普通でいられる気がしたからだ。
 それでも、同じクラスの生徒がすれ違うと上手く声が出なくなった。僕の思う普通は、周りから見ても普通なのだろうか、と息が苦しくなるのだ。自分が普通だと、この環境の中で勘違いしているだけなのかもしれない、と。
 学校では僕はいつもひとりで、それは樹も同じ。
 ひとりとひとりが合わさっても、永遠にふたりにはなれない気がした。

 買い食いなんていうのは漫画やドラマの中だけの話だと思っていた。樹がおでんのちくわぶを食べたことがない、というのでコンビニで買って食べることにしたのだ。
「その指輪、いいね」
 おでんの後に肉まんを食べる樹の手を見て、ふとそう言った。
「ん、ああ……。これ、元カノに貰ってん」
 僕が返答に困っていると、樹は指輪を空にかざした。
「結構、ええやつやねんで」
 コンビニの蛍光灯がきらりと反射する。僕もそれを見る。
「なんか、渋いデザインだね」
「なんや、おっさん臭いっていうんか?」 
 むっとした顔で樹は僕の目を見た。
「ううん。似合ってる」
 僕も樹の瞳を見た。宇宙よりも暗く、深海よりも深く、どこか寂しそうだった。
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