第11話

文字数 5,620文字

「ご飯作るって……」
 その日の昼食は、カップラーメンだった。
「なんや。文句あんのか?」
 銀色のやかんからお湯を注ぐ僕の肩に腕がまわり、体を揺さぶられる。
「ちょっと、危ないよ!」
 しかも、お湯を沸かしたのも注ぐのも僕で、樹は隣でちょっかいをかけてくるだけだった。
「これが一番うまいんや」
 樹はお湯を注ぎ終わったカップの蓋の上に箸を置き、両手に取る。
「居間は散らかってるから、俺の部屋行こうや。ま、部屋の方が散らかってるけどな!」
 僕は樹を横目に追いながら、ダイニングテーブルの椅子の上に置いてある荷物に手を伸ばした。
「あ、置きっぱなしでええよ。母ちゃん帰ってくんの遅いし」
 手に取った荷物を置き直す途中、鞄の中身が溢れかけたのを慌てて戻した。
 急いで廊下に出ると、カップラーメンを両手にドアの前で立ち尽くしている樹の姿があった。飼い主が買い物から帰るのを、スーパーの前で待っている犬みたいだ、と思って、すこし可笑しくなってしまった。
「ドア開けてや」
 ドアノブを捻って戸を開く。独特の匂いが漂ってきた。くすんだ煙の匂い。樹の部屋は、段ボールが放置されたままのリビングと違って生活感に溢れていた。古い畳。その上には起きた時のままであろう形で固定された布団。折りたたみ式のテーブルと、透明の衣装ケース。窓には子供部屋、という言葉が似合う空と雲の柄のカーテン。散らばった漫画と衣類、飲みさしのコーラのペットボトルとチョコレートの袋。意外に思ったのは、壁に大きな木が描かれた絵画が飾られていたことだけだった。
「適当に座ってや」
 樹はテーブルを蹴って動かして、布団の脇に座った。それを見て僕はその正面に腰を下ろす。それを見た樹が、
「畳、ケツ痛いやろ。こっち座ってええで」
 と言ったので座ったまま布団の上に移動した。そして、カップラーメンの蓋を開けた。
「まだ三分経ってないよ」
「ちょっと硬めの方がうまいで、ほら。乾杯」
 押し付けられたラーメンを手にとって、乾杯をする。冷えた手が急激に温められ、痒くなった。
 麺を啜りながら、切り出すタイミングを計る。樹は僕のことを好きだと言った。僕が言えないそれを、みんなの前で当然のように言ってみせた。友情、恋愛感情。僕が樹に対して抱いているのはなんなのだろう。「ゾンビの僕」に好きだ、と告げた彼は、本当に僕のことが好きなのだろうか。
「そんな食べるの遅いと、伸びてまうで」
 信じられないが、樹はもう食べ終わっていた。スープまで綺麗に。僕が考え事をしていて時間を忘れていたせいもあるだろうけれど。
「え、うん。急ぐ」
「アホ、ゆっくりでええって」
 こつん、とこめかみの辺りを拳で軽く叩かれる。
「樹」
 今度はちゃんと発音できた。今度こそ。
「ん?」
 優しい声だった。情けないが、何を訪ねるのだったか忘れてしまいそうだった。
「……いや、その。樹は、黒髪のほうが、似合うと思う」
 樹は僕のことが好きなの? 何度も頭の中で反芻したはずの短い言葉にまた詰まって、ずっと思っていたことを告げた。
「そうか? 聖が言うんやったら、ほんまやろな」
 茶髪を掻いたあと、ネクタイを解いてシャツのボタンを外し、布団の中で丸まっていたスウェットに着替え始めた。続いてベルトを外し、ズボンも同じように履き替える。その白い腹と腰に、またどきりとさせられた。
「初めて見た時から、そう思ってた」
 彼は立ち上がって窓を開けながら、それなら早く言うてくれや、と笑いながら言って、衣装ケースの引き出しを開けた。取り出したのは、黒く染まった瓶とタバコの箱とライター。そして、窓から身を乗り出すようにしてから、振り返った。
「聖、体弱いんやったっけ」
 僕は首を横に振った。
「タバコ、大丈夫か? また噎せるかも」
「そのことは言わないでよ」
 麺を食べ終わり、カップをテーブルの上に置いた。スープは残した。
「隣で見ててもいい?」
 樹が無言で手招きをしたので、僕も窓の前に立った。冷たい風が顔を撫でる。慣れた手つきでタバコを箱から取り出し、咥え、ライターがカチリと鳴る。じ、と紙と葉が燃える音がして、ふっと白い煙が口の端から漏れる。僕の手に箱とライターが預けられ、瓶の蓋を開く。いつもは表情豊かな樹の窄められた唇は、僕の目には特別に映った。
「内緒な」
「うん」
 景色がいい、とは言えない三階の窓から見える住宅街の中に登っていく煙と、白い息を僕は見ていた。
「僕も、内緒にしてほしいことがあるんだけど」
 誤魔化しのきかない切り出し方をしてしまった。
「ずっと、言おうと思ってたんだけど」
 時間を稼ぐように、まどろっこしい言葉を繋げる。外を走るバイクのエンジン音に、ただでさえうるさい心臓が揺らされる。
「その、さ」
 樹は、こういう時に遠回しな言い方をするのは嫌いだろう。
「好きだよ」
 げほげほ、と樹が大きく噎せた。煙か息か、もしくはその両方が混ざった空気が、その口から溢れる。
「なんつーか、今更?」
 ひとしきり笑った後、呼吸を整え、それだけ言ってタバコを瓶の中でもみ消した。
「なんでそんな泣きそうな顔してんねん」
 窓を閉めて、衣装ケースの上に瓶を置いた樹の冷えた両手が、僕の頬を挟んだ。
「だって」
 だって、なんなのだろう。僕は、嫌われるとでも思っていたのだろうか。それは、樹を信じていないということになるのではないだろうか。
「泣かんとってや」
 タバコの匂いがする指が、僕の涙を拭う。指輪の部分が一層冷たかった。
「樹は、僕のことが好き?」
 幼い子供が駄々を捏ねるように泣きじゃくり、手の中でタバコの箱がへこんだ。恥ずかしかったが止まらない。指輪の感触が嫌で、樹の手をどける。
「好き」
 間髪を入れない、いつも通りの即答。
「僕がゾンビだから?」
「……寒ぃ」
 手を引かれて布団へ戻り、またテーブルを足で蹴って元の位置へ追いやる。
 樹は質問に答えずに、黙って僕の背中を摩っている。どんな答えでも、僕は樹のことが好きなことは変わらないだろう。はっきりと予想はつかないが、きっと彼の答えは優しいものだとわかっているから。泣きながらそんなことを思った。
「……あの絵」
 ぽつりと樹が言う。顔を上げると、さっき目に入った大きな木の絵を示す指があった。
「親父が描いた」
 細い枝が絡まって太くなったような幹に、よく見ると一人の男が飲み込まれている。
「菩提樹って言うんやって」
「ボダイジュ……?」
「うん。俺の名前も、親父がつけた。この木から取ったってさ」
 生い茂る緑色の葉と、その合間から垂れる蔓状の枝と光。
「この木の下で、お釈迦様が悟りを開いたんやって」
 仏教の話だろうか。
「俺の親父、ゾンビになって死んだ」
 なんでもない話をするかのようなトーンでそう言った。驚いて樹を見ると、その大きな瞳が小さく震えていた。
「街で変な因縁つけられて、噛まれてな。そのこと、近所の奴とか、学校でも噂されてさ。親父は優しかったから、そんなんおかしいって考え込んで、鬱になって。俺とか母さんがゾンビの家族って扱いを受けるのが嫌だって、迷惑はかけられないって遺して、死んだ」
 今度の声は、ひどく震えていた。僕はすっかり脱力した樹の手を握った。何と言えばいいのか、わからなかった。僕が何を言っても、樹を傷つけてしまいそうだった。
「そんなんだから、親父のこと噛んだゾンビのこと、恨んでしもてな。でも、親父もゾンビなんよ。おもろいことに」
 僕よりも力強い手が震えるのを、黙って握り続ける。
「母ちゃんの地元がこっちやから、引っ越してきたのもそのせいなんよ。それで、入学する前に、八代に、このクラスには屍喰症のやつがおるって聞かされてな。大阪では親父以外に、身近におらんかったから。ゾンビが、聖が、誰かを傷つけるような奴やったら、殺したろって思ってた」
 だから、あんなに突っかかってきたのか。
「でもさ、聖と話してみたら、なんか、変やん。聖、なんにも悪いことしてないやん。それやのに、噛まんと感染せぇへんのに、あいつらビビって、変やなって」
 いつの間にか、ふたりで泣いていた。しゃくり上げている樹の言葉を待つ。
「そっちの方が、すげぇむかついた。親父もこんな気持ちだったのかもしれない。ゾンビじゃない奴らのほうがよっぽど死んでるって。聖には、嫌われたと思ってた。あんな真似して、呼び出し食らって。でも一緒に来てくれたやんか」
 ひとつ、大きく息を吐くように樹は笑い、
「父ちゃん、何してるんやろな」
 両目から大粒の涙が溢れた。
「……菩提樹、かっこいいね」
 なにも言うことができない僕の、精一杯の本心だった。
「せやろ。夏になったら、黄色い花が咲くんやって」
  樹はくしゃくしゃの顔で歯を見せて笑う。剥がれかかったガーゼから傷口が覗いていた。
「花言葉は、結婚。離れ離れになるのが嫌だったナントカいう名前の夫婦が、樫の木と菩提樹になったんよ。ギリシア神話の話やけど」
「……僕たちは、木になれないのかな」
 樹が急に顔を上げて、息を整えてから真っ直ぐに言った。
「なる」
 なんだかプロポーズみたいだな、と思い、あの日の言葉を思い出す。
「なる、って言ってなるものじゃないでしょ」
 たしかに、と樹は呟いた。すこしだけ嬉しそうだった。だから僕も嬉しかった。
「なんで俺が聖を好きになったか、やったっけ」
 もうその質問の答えは、どうだって良かった。理由なんて、最初からいらなかったのかもしれない。
 樹の手が僕の手から離れ、すぐに柔らかく暖かい感覚に体全体が包み込まれる。
「聖が、聖だったから」
 僕の肩に顔を埋めた樹が、はっきりと言った。ふわっとタバコの匂いがした。白い首筋が、僕の唇のすぐ横にある。
「うん」
 何も変わらなかった。最初から。普通のことだったのだろう。それに、普通でなくても良かったのだ。
 顔を上げた樹の手が頬に触れる。涙の跡が見えるほどに距離が近付く。
「いい?」
「いまさら?」
 僕は笑った。
「まって」
 互いの鼻が触れ合った頃、僕は樹を咎めた。
「指輪はずして。なんか、やだから」
 わがままな僕の言ったそれに、素直すぎるほど、すぐにぱっと頬から手が離れる。
「元カノに貰ったっていうの、嘘。父ちゃんに貰った」
「嘘つき」
 指輪のついた手を取り、僕のほうから唇を重ねた。自分の心臓の音か、樹の心臓の音か、もうわからなかった。
「……僕には、嘘、つかないでよ」
 唇を離し、剥がれかかったガーゼを貼り直すと、樹は、いてっ、と短く言って顔を歪めた。
「じゃ、俺、はじめてこんなんやった」
「ぼくも」
「聖も俺に嘘つくなよ」
 樹のほうからだった。今度はさっきよりも長い。
「これ、傷口?」
 ワイシャツの隙間から覗く、赤黒い傷痕。噛まれた時のものだった。感染したときの傷は切除手術などを受けたとしても浮き上がってきて永久的に残る、と医者から言われていた。
「うん」
「なんか、むかつく」
 樹は傷口に噛みつき、吸った。ゾンビが人間を噛んで感染するのは周知の事実だが、人間がゾンビを噛んでも大丈夫なものなのだろうか。止めようかとも思ったが、今更そうするのも納得がいかないので黙ってその背中に手を回した。
 暫くの間そうしていた。傷口を、それ以外の場所を、ワイシャツのボタンを開けて鎖骨付近を、何度も何度も噛んで、吸った。
「キスマーク、できへんわ」
 藤原にそうしたように、樹は僕に馬乗りになって、行為を繰り返した後そう言って、もう一度、僕たちはキスをした。首や肩のまわりに樹の顔が近付くたび、僕の視線はその首筋に釘付けになった。暖房のない、隙間風のひどい部屋なのに、体が熱い。
「ごめん」
 そう言うと、樹は顔を離して髪を撫でてくれた。そして僕の横に寝転がった。右手を天井にかざす。陽の光に照らされてきらきらと降る埃と、光る指輪。真横には、樹の首がある。お釈迦様が見た菩提樹の下の景色も、こんな感じだっただろうか。
「ごめん」
 もう一度そう言うと、樹は右手を下ろしてこちらを向いた。
「なに」
 茶色い髪を、頬を、首を撫でる。
「こんなことしてたら、樹のこと、噛んじゃいそう」
 目のやり場に困って、顔を毛布の中に埋めた。
「聖がそうしたいなら、してもええよ」
「したいけど、したくない」
 なんじゃそりゃ、と樹は笑い、僕の頭を抱き寄せた。ふと、母親に電話するのを忘れていたことを思い出す。いいや、あとで謝ろう。次は僕の家に樹を呼んでみよう。樹を紹介したら、両親はどんな顔をするだろうか。きっと驚くだろうな。
「人間は、みんな地獄に行くんや」
 寝る前の子供におとぎ話をするように、樹は僕を抱きしめたまま話し始めた。
「蚊を殺すだけで、酒飲むだけで、地獄に落ちる。でも、死んだ後に自分のことを想ってくれる人がいれば、逃れられるんやって。それなら、俺も地獄行きやろな」
「樹を地獄に行かせるような神様か、仏様か、わかんないけど。そんなやつの審判、信じないよ」
「まあな。でも、俺は思うねん、いま生きてるここが、そもそもそういう世界とちゃうかーって。天国と地獄との合間で、どうなるかは自分次第で」
 髪を撫でる指が心地よくて、僕は目を閉じた。あたたかい。
「自分で掴み取った天国以外、俺はゴメンやからな」
「それでも僕は、樹が死んだら、樹のことを想うよ」
「嬉しい、けど、俺が先に死んだら、聖がひとりで悲しむことになるやろ。それは、嫌だ」
 そんなの、僕だって同じだ。
「悲しいも、嬉しいも、最初っからひとりで思うものだよ。たぶん」
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