第4話

文字数 3,695文字

 メニューは白米とわかめの味噌汁、白身魚のフライと野菜炒め、そして瓶の牛乳だった。生徒の配膳が終わった後、八代が教室に入ってきた。
「今日は樹が来て初めての給食だからな! 先生も一緒に食べることにするよ。給食当番、頼んだぞ」
 自分で入れたらいいのに。
「自分で入れたらええのに」
 僕の口から出たかと思ったその声は、上山のものだった。
「うっといねん、口先だけのアホが」
 小声でそう言い切ってから、フライを箸で突き刺して口に運んだ。
「おいおい。先生、まだ席についてないぞ」
 八代が、上山の席に座った桜井の正面にパイプ椅子を置いた。冗談っぽく笑っている担任の姿を一瞥してから、味噌汁の器を手にとって汁を啜る。
「しかも、勝手に席を変わったら駄目だろう」
「これは……」
 桜井がびくりとして、弁解を始めようとする。それを遮って、器を置いた上山が口を挟んだ。僕は黙って見ていた。
「なんか、聖と仲良うなってな。俺は転校生で、周りにもあんまり馴染めてへんし。聖も、ゾン……病気ってのもあって、あんまり人と関わるの得意とちゃうみたいやから、お互い慣れるために、しばらくの間だけ許してくれはらへんかなあ。頼むわ、先生」
 なにを言っているんだ。言いたいこと、聞きたいことは山積みだったが、僕はなにも言わない。
 そんな僕の心情をわかっているのかいないのか、上山は両手を拝むように合わせ、わかりやすい嘘をスラスラと並べる。こんなものに騙される奴はいないはずだが、八代は違った。
「おお、そうか。それはいいことだ。ありがとう、樹」
 優しい転校生に感謝し、ルール違反を広い心で許す熱血教師の自分。そういうものに酔っているように見えた。
「先生、給食です」
 この日給食係だった委員長がトレーを運んでくる。八代は当然だといった様子で礼も言わずにそれを受け取り、
「よし! いただきます!」
 力の入った掛け声には、ほんの数人が小さな声で反応しただけだった。
「こっちの給食も、意外とうまいんやな」
 上山はかっこむように完食した後、皿をトレーごと持って配膳台に行き、すべての皿を山盛りにして帰ってきて、一瞬とも言える早さでそれを半分以下にした。食べるのが遅い僕はまだ半分も食べていない。
 給食の時間なのにいつもと比べてみても明らかに静かで、箸で皿をつつく音だけが響いている。さながらテレビの特集で見たことのある刑務所の食事のようだった。刑務所なら、上山はきっと懲罰房行きだ。
 箸を口に運んでから咀嚼し嚥下するまでの間、上山は目だけで僕を凝視した。
 怖い。
 彼は僕のことを「ゾンビ」として見ている。ゾンビの食事を観察しているのだ。
「樹、よく食うな! 先生も負けないぞお」
 空気の読めない八代の声が誰にも拾われることなく空中に消える。
「聖も、もっと食わなきゃ背が伸びないぞ。あと、食べ終わったらちゃんと食器はアルコールで拭いておけよ」
「はい」
 ぼそっと返事をし、やっと最後の一口にまで減った茶碗に箸を伸ばす。もう自分のものを完食した二つの真っ黒い宇宙が一瞬八代に向いていたが、すぐにこちらを捉える。
「牧方が、いや、ゾンビがほんまに食いたいのはこんな飯じゃなくて――」
 箸先をくるくると回した後、上山は自身の首を指した。
「こういうのやろ?」
 窓は閉まっているはずなのに、冷たい風が背中を突き抜けた。それが冷や汗だと気付く前に、八代が激昂した。
「そういう言い方ってよくないだろう」
「なにがあかんねん、ほんまの事やろ」
 ひとつの動揺も見せることなく、間を空けずに上山は言葉を返す。緊迫した空気。僕のせいなのだろうか。口に入れた米が飲み込めない。気分が悪い。
「そういう言い方、ってなんやねん? 俺がゾンビって言うたことか? それともさっき自分が『ちゃんと食器はアルコールで拭いておけ』って言うたことか?」
 関西弁混じりではあったが、馬鹿にするように口調を真似る。明らかな挑発。八代の眉間に皺がよる。
「いじめは良くないだろう」
 ありきたりな言葉での反論。上山には微塵も聞いていないようだった。
 いじめているのはどっちだ。
「いじめてるのはどっちやねん」
 またしても、僕が思ったことが言葉になった。
「先生は」
 八代が言いかけたところで、僕に限界が訪れた。咳き込んで口の中の米を吐き出した。せり上がってくる胃液と給食が混ざったものをギリギリのところで止めることができたのは、不幸中の幸いだった。
 驚きの声、悲鳴、席を立つ音。その中には八代が奏でたものも含まれていた。
 僕は俯いたまま、机の中からアルコールティッシュを取り出して、粘着剤で止められている封を開ける。そのかわりに、悲しいとか怒りとか、そういう感情に無理やり封をした。彼のように、そんなものを真っ直ぐに感じてしまえば、僕はおかしくなってしまうだろう。
 ゾンビの僕に感情なんていらないんだ。薬のおかげで「感情に似た何か」を感じられているだけなのだから。
「みんな、落ち着け!」
 八代がここぞとばかりに生気を取り戻し、委員長に保健室の先生を呼んでくるように、と指示を飛ばす。ほんの一口ぶんを吐き出しただけなのに、正義ヅラを振りかざすのにはぴったりか。
「へーえ。ここの仲間とやらは素直なええ子ばっかりやな。ちゃーんと担任を鑑にして、全員、上っ面だけのクソ野郎」
 ただひとり冷静な上山がまた八代を煽る。しかし、張本人はそれすらも耳に入らないようだった。
「大丈夫か、聖。みんなも落ち着け」
 湿ったティッシュで吐瀉物を拭き取ろうとしたその時。
「いじめ、とやらをなくすためには、まずは人の話をちゃんと聞くこと」
 唾液と米が混じってぐちゃぐちゃになった飛沫を、こそげ取るように指が動く。何をしようとしているんだ。反射的に顔を上げると、僕の吐瀉物を人差し指につけた上山が、その指を黒いジャージに向けた。
 悲鳴こそ上げなかったものの、八代が慄いたのはすぐにわかった。
「ふは。バーカ」
 次の瞬間、上山樹は、ゾンビの唾液を含んだ米のついた指を、己の口に、入れた。
「無知なカス教師は黙っとけ、ボケ」
 色黒の体育教師の担任の顔が、真っ白になっている。甲高い叫び声、汚ねえ、という怒号。僕は相変わらず、黙っていた。面倒を避けて意図的にそうしたわけではない。旋毛からつま先まで、すべてに電極を刺されたような感覚。意味不明なその行動に、圧倒され、なぜか高揚していたのだ。
「上山、後で保健室に行きなさい」
「もう樹って呼ばへんのかーい。それに……」
 漫才の最後のような台詞めいた言葉。ばたばたと廊下に走る二つの足音。
「誰もおらへん保健室行ってどうするねん、な?」
 いつの間にどこから出したのかはわからないが、
 委員長と保健室の女性教諭。名前は確か、春野《はるの》といったか。
「嘔吐した生徒はどこに?」
「ゲロ……嘔吐ってほどじゃないっす。ただちょっと、噎せたみたいで。こいつがゾ、屍喰症だからか、みんなパニックになってしもうて」
 おろおろと目を泳がせる『上っ面だけのクソ野郎』よりも先に、上山は飄々と言った。
「あら、そうだったの。それなら……」
「聖と俺で片付けるんで、大丈夫ですよ」
「良かった。わかったわ、もし体調が優れないなら、いつでも来てね」
 春野は僕の元に歩み寄り、背中を摩ってくれた。
 なんてことをしてくれているんだ、僕に対して。上山に対して。そんな声が周囲から聞こえてきそうだった。
「春野先生。二人を後で保健室に連れて行きます、念のため」
「でも、噎せたのはこの子――」
「聖、です。牧方聖」
 上山が口を挟んだ。
「牧方くんでしょう? なぜ二人ともを?」
「事情は、後で説明します」
 確かに、ここで簡潔に説明するのは難しい話だった。八代のことだから、「病気」の僕を擁護し、上山に叱咤するのだろう。吐瀉物を舐めたことはともかく、反抗的すぎる態度はそれも当然ではあるが、上山が叱られるのはなんだか納得がいかなくもあり、複雑な気分だった。
「……はい。もう大丈夫? おさまった?」
 少し迷ってから、彼女は八代に返事をし、僕に声をかけていた。
「大丈夫、です」
 しゃがみこんで僕の顔を覗く彼女の白髪交じりの頭を見ながら、なんとか声を絞り出した。

 春野が去った後、八代もいそいそと教室を出て行った。気まずい昼休みの間、上山はほとんど無言で机を片付けるのを手伝ってくれた。途中、
「あいつら、『仲間』のゲロがそんなに汚んかい」
 と呆れ、ぼやいていたので、
「ゲロではないけど」
 と答えた。「そういやそうやな」とだけ言って、彼は「へへ」と笑った。
 その後、リュックからペットボトルに入った飲みさしのスポーツ飲料を取り出して僕に渡してくれた。口をつけていいものか戸惑ったが、あの事件を見るに平気だろうと、思い切って二口ほど拝借した。緊張で喉が渇いていたのでありがたかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み