第6話
文字数 1,595文字
保健室の奥には、パイプ椅子が二つ用意してあり、八代はその正面にある回転式の灰色の椅子に座っていた。予想通り八代は僕たち、主には樹を糾弾した。なぜそんなにも反抗的な態度をとるのか。なぜ危険な真似をするのか。
しかし当の樹は相変わらずで、
「危険って何がですか?」
と、全ての質問にろくに答えようともせず、へらへらと煽った。僕も相変わらずだった。八代を、嫌な人間を前にすると上手く声が出ない。
二人が何を言い争っていたのかはよく覚えていない。なるべく聞かないようにしていたのかもしれない。
僕本人のことは、僕には関係のないこと。今の僕は僕じゃない。そんな意味不明な気持ちが、噛まれた日からずっと心の隅に存在していた。
チャイムが何度か鳴って、保健室の外が騒がしくなり始める。そんなに長い間話していたのか。八代は重い溜息を吐いた。
「もう帰ってええか?」
論争を繰り広げていた本人は、もう飽きた、といった表情でストレートに言った。
「今日はもういいが、これからもこんなことがあったら、お父さんとお母さんを呼ぶからな」
ぴく、と樹の頬が震えるのが見てとれた。両方とも全く引かないな、もうしばらく言い争いは続きそうだ。
「じゃ、行こうや」
急に立ち上がった樹の関節がぱきぱきと鳴った。
「うん」
また何か言い返すだろうと思っていたから、少し驚いたが、慌ててここに来て数個目かの短い返事をし、僕もおずおずと席を立つ。
「ちょっと待て、最後に何か言うことがあるだろう」
立ち去ろうとする僕たちを八代が呼び止める。その低い声に緊張して頭皮の裏側がビリビリと突っ張る。
「え、あ、すいませ――」
「言うこと? ああ、担任なら生徒の家庭の事情くらいちゃんと把握しとけや」
樹の濃い眉の間に深い皺が寄る。
やっぱり、まだやりあうつもりなのか。学校にいる以上、生徒が教師に勝てるわけないのに。もう一度座れ、と言われることを想像し、頭が痛くなる。
「……そうだったか。悪い」
しかし、八代は目を逸らしてそう言ったっきり何も言わなかった。
「謝るのは俺のほうやな。すいませんでした」
樹は頭が膝にくっつきそうなほどの深い礼をして、真剣に謝っていた。少なくとも僕の目にはそう見えた。
「す、すいませんでした」
勢いよく頭を上げ、颯爽と去ろうとする樹を追うように、僕も頭を下げる。
保健室を出る間際、なぜだか樹だけが呼び止められ、すぐに終わるからと僕だけが外に出された。なんとなく、貼ってある「中学保健ニュース」に目をやる。尿検査のしくみ。応急処置について。写真付きのカラーのポスターを眺めるのは、別に好きではないが嫌いでもなかった。感染性屍喰症についてもあった。症状を抑える薬はあるが、完治の方法は見つかっていない。日常生活の中で感染することはない。ポスターの文字を追う目は、そこで止まった。
樹はなぜ、僕に――いや、感染者にわざわざ接触してくるのだろう。僕が感染者でなければ、樹はあんなことをしなかっただろう。僕たちは関わることもなく、お互い普通に過ごしていけただろう。
普通ってなんだろう。
人間だった頃の僕は、普通だっただろうか。
保健室の中から八代の叫び声が聞こえ、それを皮切りに呼吸が再開された。どうやら答えの出ない自問に、息が止まるほど考え込んでいたようだ。様子を確かめようと戸に指をかけた瞬間、戸は開いた。
目と鼻の先に樹がいた。僕より少し高い位置にある端正な横顔。
「そんなに心配なら、今すぐにでも検査受けてきたらええんちゃいますか」
吐き捨てるように言って、ぴしゃりと戸を閉める。
「家どのへんなん? 一緒に帰ろうや」
「うん」
破天荒な転校生と、仲良くなった地味な生徒。
僕が人間ならば、そんな関係になれただろうか。
普通の会話。
普通の友達。
しかし当の樹は相変わらずで、
「危険って何がですか?」
と、全ての質問にろくに答えようともせず、へらへらと煽った。僕も相変わらずだった。八代を、嫌な人間を前にすると上手く声が出ない。
二人が何を言い争っていたのかはよく覚えていない。なるべく聞かないようにしていたのかもしれない。
僕本人のことは、僕には関係のないこと。今の僕は僕じゃない。そんな意味不明な気持ちが、噛まれた日からずっと心の隅に存在していた。
チャイムが何度か鳴って、保健室の外が騒がしくなり始める。そんなに長い間話していたのか。八代は重い溜息を吐いた。
「もう帰ってええか?」
論争を繰り広げていた本人は、もう飽きた、といった表情でストレートに言った。
「今日はもういいが、これからもこんなことがあったら、お父さんとお母さんを呼ぶからな」
ぴく、と樹の頬が震えるのが見てとれた。両方とも全く引かないな、もうしばらく言い争いは続きそうだ。
「じゃ、行こうや」
急に立ち上がった樹の関節がぱきぱきと鳴った。
「うん」
また何か言い返すだろうと思っていたから、少し驚いたが、慌ててここに来て数個目かの短い返事をし、僕もおずおずと席を立つ。
「ちょっと待て、最後に何か言うことがあるだろう」
立ち去ろうとする僕たちを八代が呼び止める。その低い声に緊張して頭皮の裏側がビリビリと突っ張る。
「え、あ、すいませ――」
「言うこと? ああ、担任なら生徒の家庭の事情くらいちゃんと把握しとけや」
樹の濃い眉の間に深い皺が寄る。
やっぱり、まだやりあうつもりなのか。学校にいる以上、生徒が教師に勝てるわけないのに。もう一度座れ、と言われることを想像し、頭が痛くなる。
「……そうだったか。悪い」
しかし、八代は目を逸らしてそう言ったっきり何も言わなかった。
「謝るのは俺のほうやな。すいませんでした」
樹は頭が膝にくっつきそうなほどの深い礼をして、真剣に謝っていた。少なくとも僕の目にはそう見えた。
「す、すいませんでした」
勢いよく頭を上げ、颯爽と去ろうとする樹を追うように、僕も頭を下げる。
保健室を出る間際、なぜだか樹だけが呼び止められ、すぐに終わるからと僕だけが外に出された。なんとなく、貼ってある「中学保健ニュース」に目をやる。尿検査のしくみ。応急処置について。写真付きのカラーのポスターを眺めるのは、別に好きではないが嫌いでもなかった。感染性屍喰症についてもあった。症状を抑える薬はあるが、完治の方法は見つかっていない。日常生活の中で感染することはない。ポスターの文字を追う目は、そこで止まった。
樹はなぜ、僕に――いや、感染者にわざわざ接触してくるのだろう。僕が感染者でなければ、樹はあんなことをしなかっただろう。僕たちは関わることもなく、お互い普通に過ごしていけただろう。
普通ってなんだろう。
人間だった頃の僕は、普通だっただろうか。
保健室の中から八代の叫び声が聞こえ、それを皮切りに呼吸が再開された。どうやら答えの出ない自問に、息が止まるほど考え込んでいたようだ。様子を確かめようと戸に指をかけた瞬間、戸は開いた。
目と鼻の先に樹がいた。僕より少し高い位置にある端正な横顔。
「そんなに心配なら、今すぐにでも検査受けてきたらええんちゃいますか」
吐き捨てるように言って、ぴしゃりと戸を閉める。
「家どのへんなん? 一緒に帰ろうや」
「うん」
破天荒な転校生と、仲良くなった地味な生徒。
僕が人間ならば、そんな関係になれただろうか。
普通の会話。
普通の友達。