第14話 洗い髪のお妻

文字数 16,162文字

 明治二十五年(1893年)の年の夏のまだ暗くなるかならないかの薄暗い時間に、一台の人力車が吾妻屋の玄関前に着いた。吾妻屋のすぐ前が待合の枡田屋があるため、烏森に慣れた晴雄の目にも日常の光景であったが、その後、降りて来た芸妓には目を奪われた。その芸妓は、髷を長く垂直に結った島田に艶やかな青緑の、いわゆる金春色の着物を着こなしていた。
 芸妓は晴雄の顔を見ると、「あら、こちらじゃ無かったわ。」と言って振り返り、枡田屋の中へと消えていった。奥手の晴雄にさえも一瞬にして強烈な印象を残して行った芸妓だったが、その数日後、その芸妓を再び目撃することとなる。

 何やら表通りが騒がしくなっていたので、中庭で植木などの手入れをしていた晴雄は。烏森の表通りまで何の気なしに出てきた。すると髪を垂らした女が走っているではないか。若い女性が髪を垂らしたまま走るなどというはしたない姿は滅多に見れるものではなく、すぐに野次馬が集まりだし、街はかなり騒然としている。
(あの時の芸妓だ。)晴雄がそう思った横で、桝田屋の仲居が吾妻屋の玄関に飛び込むようにして入って行き、マサを大声で呼んだ。
「お吟姐さん、大変よ。お妻姐さんが髪を垂らしたまま走って行ったわ。」
 マサは呼ばれるまま通りに出たが、さすがに喧噪を巻き起こした疾風は遠くに行ってしまっていた。
「確かに歳の頃は、十七、八の女が髪を結わずに、長くだらしなく垂らしたまま小走りに駆けていたのよ。あれは、お妻さんに間違いないわ。」
 枡田屋の仲居は確信を持って情報をマサに伝えたが、マサはそれほど驚くことはなく、玄関から宿に引っ込んだ。女性が、ましてや芸妓があのようなあられもない恰好をさらしていたのであれば、マサはもっと驚いても良いだろうにと晴雄はやや不思議に思ったが、マサはちょっとばかり怪訝な顔をしただけだった。
 お妻の名前は晴雄も知っている。そしてこの烏森(からすもり)に来てから何度か見かけたが、はっきりと見たのは先日の人力車から降りた時に目の前に現れた時が初めてだった。お妻は烏森(からすもり)の花の家という芸者屋に来たばかりの芸妓だったが、すぐに一番人気となった。マサともすぐに仲良くなった。
 表通りの騒動が一段落したのか、晴雄達が宿に引っ込んで玄関回りの片づけをしていると、芸妓が二人駆け込んできた。
「お吟さん、お妻姐さんは洗い髪そのままで写真屋に駆け込んだそうよ。」
「なんでも、今年の稜雲閣の百美人に写真を出すのに、そこの待合の桝田屋で髪結いを待ってたらしいんだけど、いくら待っても来やしないんで、しびれを切らして走り出し、人力車をつかまえて築地の写真屋まで急いで行っちゃったということのようなのよ。」
 このことによって新橋だけでなく、花柳界全体や浅草のような繁華街でも、洗い髪お妻の噂でもちきりになった。そもそも、芸妓が百美人のための写真を撮られる場合、手古舞姿(筆者注:江戸時代の祭礼の余興に出た舞「手古舞」の時に、芸妓が男髷(おとこまげ)を結い、右肌ぬぎで伊勢袴に手甲・脚絆、足袋にわらじをつけた姿)が多く、新橋芸妓の場合、小紋(筆者注:繰り返しの小さな模様を型染めしたもの)で決めたのが多かった。洗い髪そのままで写真に撮られるなんてはしたないという声も大きかったが、それよりもとにかく、その写真の衝撃が大きかった。洗い髪お妻は、花柳界に通う男どもの心をわしづかみにしたようだった。つまり、男というものは、着飾って化粧した女のどこまでも美しい姿に心打たれながら、一方で、洗い髪のような日常の延長の姿に欲情するものらしい。お妻自身もちゃっかりこの流れに乗り、お座敷にこの洗い髪のように、髪を結わずに出ることもあった。お妻のことはちょっとしたブームになり、街でも髪を結わない女性が出現する有様となり、この話をもとに小唄まで作られたりした。

『鐘かすむ凌雲閣に咲き競う
美人くらべや恋くらべ
ぱっと浮名を花立ちばなの
想いうずまき入れぼくろ
おつま命と心にさして
意地は一筋烏羽の
ぬれて仇めく洗い髪』

「お妻の件はねえ、僕が仕掛けたんだよ。」
 元数寄屋町の広告屋、今でいう広告代理店である東京広報舎の光山が、吾妻屋の居間のソファに腰かけながら、マサにこっそり教えた。光山は、吾妻屋の新聞広告を出すのに晴雄とお吟がつき合っていた広告屋だったが、他にも吾妻屋に泊っている政治家になにやら接触をしていた。いつも洒落たチェックのハンチングを被って、チャコール・グレーのスリーピースを着こなし、丸眼鏡を掛けた光山は、いかにも商人という感じであり、少しばかり偉そうに、気取ったポーズで煙草をふかしながら語る癖があった。
「今度ね、宣伝用の写真にこの吾妻屋の部屋や玄関を貸してほしいんだ。モダンな高級旅館のイメージで商品を宣伝すれば売れるし、この吾妻屋だって評判になるでしょ?」
 足を組んで、いつもにように横柄な態度で、物事を決めつけるように喋っていた。
「宣伝をしてくれるのは有難いんだけど、あんまり派手過ぎることは御免ですよ。うちは、品の良い高級旅館でやってくつもりなんですからね。お妻さんをここで写真に撮って商品を売り出そうなんて、考えないでくださいな。」
 光山は、マサが出してくれた玉露をすすりながら、吾妻屋の庭を眺めていた。
「ここは本当に落ち着くね。いい旅館なんだがなあ。もったいないよ。」
 光山が何を考えているのかわからないので、マサは黙っていた。
「僕はね、こういう良いものを見ると、人に紹介したくなる性質なんだよ。もっと売り出したいと思うんだ。根っからの広告屋なんでね。商売の事だけじゃなくてさあ、なんか黙って見過ごされるのが我慢がならないんだよね。ほら、ここに良いものがあるぞ、って日本中、いや世界中に知らせたいと思うんだよ。是非、旦那さんと話しをさせてよ。」
 このような話を聞いていて思うところがあった。確かに、光山は、お妻の売り出しの件もそうだし、広告屋としては中々のやり手だった。それを利用したい気になったのだ。
「お妻さんのことだってね。芸者ってのは、日本が世界に誇る文化じゃないか。その価値をもっともっと知らせたくてね。」
「それならね。」マサは話をする機会を伺っていたのだ。「そんな、世界に誇る花街で旅館を経営する、うちの主人を売り込んでくださいな。」
 光山は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに冷やかすような、しかし皮肉は込められていない素直な笑顔になった。
「いやあ、お吟さん、いや女将の旦那への入れ込み方は、実は我々のような者にも聞こえて来ていたんだが、こりゃあ本物だね。良いでしょう。考えておきます。その代わり、しばしばこの吾妻屋を使わせてくださいよ。」
 マサは頬を赤らめていた。もう夫婦になって何年も経ち、この旅館をやって来たのだ。それでも、冷やかされて、晴雄と初めて会った頃の自分を思い出しながら、自分でも笑ってしまった。
 
 光山は、新橋の芸妓を新聞広告に使うことを以前より計画していた。稜雲閣の百美人は光山の仲間の企画だったが、その百美人展を見た時に閃いたのだ。芸妓は様々な商品の宣伝に使える。華があるし、気品もある。商品のイメージ作りには、芸妓を使ったポスターがうってつけなのだ。
 光山は、実際さらに洗い髪お妻の写真を売り出した。そのため、お妻の例の写真は、たちまち髪結いの店の中にもポスターとしても張られるようになった。洗髪料のパッケージにもお妻の写真が飾られた。煙草のゴールデン・バットのパッケージには、おまけとしてお妻のシガレット・カードが入れられて、煙草は爆発的に売れた。お妻は日本初のアイドルだったのだ。
 洗い髪のお妻の売り出しのせいで、新橋、烏森(からすもり)界隈の料亭や待合で、元々人気だったお妻の人気が過熱した。みんなが競うようにお妻をお座敷に呼んだのだ。光山のような芸妓の売り出しのせいもあって、ますます芸妓達は人気になり、新橋界隈は華やかさを増して行った。
 政財界の要人の多くお妻を贔屓にしはじめたが、どうやら頭山満と恋仲となったという噂が烏森(からすもり)中を駆け巡った。頭山にお妻が惚れたらしいということだった。頭山の方も初めてお妻を桝田屋の座敷に呼んだときに一目ぼれしたのだという噂が新橋中に流れた。
 お妻は、伊藤博文やら渋沢栄一などの新橋でも最上級の客の座敷を断り、もっぱら頭山の座敷にばかり出ると噂された。
「お妻さん、頭さんが虫も殺せない性格で、あんな豪気な人が凄く優しいのでびっくりして惚れたという話なんだけど。」マサは旅館の事務室で宿帳の整理をしながら、聞いているか聞いていないかわからないような晴雄に構わず話しかけた。「ちょっとその話はどうなのかしらね。お妻さんのことは良く知っているけど、頭山さんみたいな人に惚れるという人じゃないと思うわ。御侠(おきゃん)だし、元々、お妻さんはね、歌舞伎役者の市村(いちむら)羽左衛門(うざえもん)さんと恋仲だったのよ。まだ売り出し中でお金のない市村さんをずいぶん支えていたみたい。あ、これ一緒に玄関帳場まで運んで。」マサは書類の山を晴雄に渡して、戸を開けた。事務室を出て廊下を歩いている時にも掃除が行き届いているかしっかりと見極めながら話を続けた。「それにお妻さんは、伊藤さんたちのお座敷を断ったりしてないわ。何か噂と違うのよね。」
 晴雄は話をうまく呑み込めなかった。
 その市村羽左衛門がお忍びで吾妻屋に泊りに来た。横には洋装をしている女が寄り添っていたが、晴雄も一目で芸妓だとわかった。その美しさに隙が無いのだ。羽左衛門に寄り添うようにおとなしくしていたが、時折、口から出る言葉はキレがあり、ちゃきちゃきの江戸っ子だった。晴雄は後でマサに教えてもらったが、この江戸っ子はお鯉という芸妓だった。二人は密会に吾妻屋を利用したようだった。待合にも寝床があるところもあるし、湯殿を備えている所もあったくらいなのだが、新橋一の美人芸者との密会に待合を使うわけには行かなかったらしい。
「市村羽左衛門は、お鯉さんと結婚するらしいわ。もうじき話題になるんじゃないかしら。」
 晴雄は改めてマサのこの烏森での情報網に感嘆した。マサが教えてくれる花柳界の男女の事情は、晴雄にとってそれほど興味のあるものではなかったが、その花柳界の真ん中で旅館を営む者としては、情報を仕入れておかないわけにはいかなかったのだ。
「お鯉さんは、最初近江屋の半玉をやってた頃、15代目の市村羽左衛門さんに見染められて、その頃からの仲なのよ。市村さんは酷く女癖の悪い人でねえ。ああ、あたしったら、あたしも花柳界にいた人間として、あまり人様の事を噂するのは良くないわね。お願い、ここだけの話にしておいて頂戴。」
 まあここだけの話も何も、晴雄もそれほど花街の噂話に興味のある友人が多いというわけではなかったのだが、マサの話は少し逸れ出した。
「芸妓にとって歌舞伎役者と遊ぶというのは、そおねえ、男の人が吉原で娼妓と遊ぶような感覚かしら。歌舞伎役者の一人や二人囲うのが芸妓の甲斐性ってとこね。でもね、もう一つは、それは旦那とか贔屓の男に対する当てつけよ。ね、芸妓は娼妓じゃないって建前でも、水揚げされて旦那が付くというところは、昔ながらの人身売買よね。娼妓が年季明けするのと、芸妓が落籍されて旦那がつくの、そんなに変わらない。自由がないのよ。良い旦那は、そりゃ、芸妓たちにとっても憧れるところだけど、でも女として普通に恋だってするわよ。その自由がないことに対する抗議で、歌舞伎役者と遊んでるの。」
 晴雄は、マサがそういう世界に居た人間だということを改めて思い知らされた。マサが自分より数段、厳しい人生を歩んできた気がして、頭が上がらない気がしたのだ。晴雄は、下を向いたまま続きを聞いていたが、マサは思い出したようにお妻の事に触れた。
「お妻さんもねえ、今でも切れていないはずよ、市村さんと。頭山さんとの事で、伊藤さんや渋沢さんの座敷を断ってまで頭山さんのところに行くって噂になっているけど、そんなの芸者屋のお母さんが認めるわけないわよね。」
「それはどういう事なのかい?」
「何らかの理由があって頭山さんが噂を自分で流してるんじゃないかしら。」
「何のために?」
 その数日後、お妻は、ふらっと吾妻屋にやって来て、マサを呼んだ。
「お吟姐さん、話を聞いてくれる?」
 お妻は明らかに疲れた、悲しい目をしていて、何か深刻な事態を抱えているように思えた。

 明治二十七年(1894年)7月の梅雨も明けた頃、朝鮮半島を巡って日本と清国が戦争に入るという号外が烏森の街にもまき散らされた。号外を手にして、晴雄は子供の頃、まだ国が荒れていて戊辰戦争が勃発した頃の事を思い出した。上野戦争や東北での戦いなど、実際に自分の目でも見たし、大人たちからよく話を聞いていた。日清戦争開戦で浮かれる街の人々を横目に、晴雄は銃砲の音を思い出し、気分が憂鬱になるのだった。
 戦争には頼らない貿易による国の強化を唱えていた徳富蘇峰の国民新聞でさえ、すっかり豹変してしまった。日清戦争を支持し、国民新聞で国民の戦意を煽りに煽ったのだ。徳富だけではない。かつての自由民権運動の弁士たちも誰もが戦争を支持していた。
 川上音二郎に至っては、戦争が始まるとすぐに朝鮮へ渡っていった。行く前に光山と頻繁に会っていたのは、渡航の金の工面やらなんやらを光山が面倒見ていたかららしい。何しろ、光山は陸軍にコネを持っていたし、戦地で軍に案内してもらうにも、軍に連絡しておく必要があったのだ。そして、音二郎は帰ってくると戦地で見聞きしたことを「川上音二郎戦地見聞日記」として芝居にした。これが大当たりした。烏森の近くの芝浜でも、芝居小屋というより、ほとんど掘っ立て小屋のような所でも、公演を開いていたが、押すな押すなの大盛況で、小屋の中は異常な興奮に包まれていた。晴雄も光山に誘われて見に行ったが、そこには満足そうな顔をした頭山とその取り巻き連中もいた。戦争前には、国民の中に少しはあった厭戦気分などどこへ行ったかわからないほど誰もが浮かれていた。
 そして、日清戦争が日本の勝利に終わると、さらに国民の間の気分は沸騰した。誰もが派手に金を使い、新橋や烏森(からすもり)の花街は空前の景気になり、前から見かける縮緬地の裾模様に、今度は繻珍(しゅちん)の丸帯をした、派手な芸者を多く見る様になった。日本中が戦争景気に沸いた。その好景気も手伝って、吾妻屋の経営は順調そのものだったことが、晴雄にとって複雑な気持ちだった。戦争に反対していたわけでも賛成していたわけでも無かったが、こんな風に景気が良くなっていくことに居心地の悪さを感じていたのだ。

 その頃、羽左衛門と結婚したはずのお鯉が吾妻屋に顔を出すようになった。マサと居間で世間話をしているところを晴雄が通り過ぎると、お鯉は格別な笑顔で晴雄に挨拶した。黒々とした髪を、何の気無しに切下げにしていたが、それでもどこか妖艶さが残っており、お妻とは違った雰囲気ながら、明らかに人を惹きつける魅力を持っている女性だった。
 マサによれば、市村羽左衛門と結婚していたお鯉だが、羽左衛門の女癖や歌舞伎界のしきたりに嫌気がさして、離縁して、新橋に戻ってきたのだそうだ。
 そんなお鯉とお妻が鉢合わせになる事もあった。元々、まだ売り出し前の羽左衛門を何から何まで面倒を見ていたのがお妻だったのだから、お鯉は言わば羽左衛門を寝取った格好だったのだ。面白い事に、バツが悪そうにしていたお鯉に対して、お妻は堂々としていた。
「あら元気そうね、お鯉さん。羽左衛門の女癖で苦労された様だから心配していたのよ。」
 お妻は明らかに当てこすったような言い方をしたが、お鯉の反応を楽しみにしていた風もあった。
「いえね、あたしもこういう性質だから、ここの水が合うのよ。誰かさんみたいに洗い髪晒さなくたって、唄を唄ってりゃ幸せだしね。」
 ハラハラしながら話を聞いていた晴雄を横目に、マサは二人のやり取りを楽しんでいた。でもこれからもこの二人の女同士の鞘当てを放っておいても大丈夫なものだろうか。
「心配ないわ。二人ともそんなでも無かったわよ。お鯉さんも江戸っ子だから売られた喧嘩は買わないと済まない性質だけど、お鯉さんくらいになれば、いくらでもお座敷の声はかかるしね。」
 マサの言う通り、お鯉は新橋で再び人気の芸者となったが、すぐに桂太郎がかなり入れ込んでいるというのが噂になった。
「お吟姐さん、今回の事では色々お世話になったわね。この新橋に戻ってきて、こんなにすぐにまた誰かのところに行くなんて考えてもいなかったけど、今度こそ、あたしも収まる所に収まることにしたわ。市村さんの時とは違って、今度はもっと固い人ですから。」
 マサのところでお鯉はそんな風に話をしていたが、固いと言っても、今度は本妻では無いのよね、と話を聞いていて晴雄はぼやっと考えていた。もしかしたらマサも同じことを考えていたかも知れない。マサが以前に、誰かに自分の人生を委ねるなんてまっぴらだと言っていたのを覚えている。本妻か妾かはともかく、桂のような男の下に行くというのは、もはや自分の人生を歩むというのとは全然違う生活だろう。
 お鯉が桂の妾になったという噂は、すぐに烏森中に広まった。お鯉は、赤坂の家を与えられて、まるで本妻みたいに振る舞っているらしいということだった。
「女の人生よね。」マサは否定も肯定もしない口調で、立ち寄ったお妻と話した。「で、お妻さんは?そろそろ、良い人を見つけたんじゃないの?」
 マサは、普通の女性同士の会話として、お愛想程度で聞いただけだったのだが、お妻の表情は曇った。いつもマサとお妻は、女性同士の取り留めもない話をしていたのだが、今日のお妻の表情は違った。いつかも同じような事があったのをマサは覚えていた。通りかかった晴雄も一目で首を突っ込まない方が良い事を悟った。

 マサはお妻の事を気に掛けていたものの、たまにやって来るお妻と少しばかりの時間を過ごす以外は、いつも自身の生活の糧、吾妻屋の切り盛りで忙しそうに動き回っていた。それらの贔屓の中に財閥の番頭級の男が何人か居た。彼らは新橋や烏森(からすもり)の待合、料亭で頻繁に茶器や書画の展覧の会を開いていた。そうした会に呼ばれて、勉強のためにマサも出向いたことがあった。マサは、その財閥の紳士たちの会合を何とか吾妻屋に引っ張って来たいと考え、積極的に売り込んだ。
「会合の後、そのままお泊りいただくこともできますし、烏森の真ん中なので花街に繰り出されるにも都合が良い事でしょう。」
 そうしたマサの営業が功を奏し、財閥紳士が吾妻屋に来てくれるようになった。ただ吾妻屋に来て会合を開いてくれても、警察令で芸妓を吾妻屋の座敷に呼ぶことは出来なかった。そこでマサは考えた。芸妓を呼んで宴会を開くことは出来ないが、逆に芸妓たちが教養を深めるための勉強会ということにすれば、財閥紳士と芸妓たちが和やかに時間を過ごすことはできるのだ。
 日中は元々、芸妓たちは唄や踊りの稽古に出かけることが多い。そこで、茶器や書画の展覧会の始まる一、二時間前の間、芸妓たちを呼んで勉強会を開くことを考えたのだ。お座敷に呼ぼれるのではなく、自ら勉強をするのだから問題は無かった。マサは、陶磁器にまつわる文化、歴史について財閥紳士たちを講師とした。このような会合で芸妓たちを集め、紳士たちも鼻の下を伸ばしながらも、丁寧に本物の教養というものをきちんと教えた。
 集まってきた芸妓の中にお妻も居た。財閥の紳士が書画の勉強会をやるからとマサが呼んだのだ。この時は、芸者の正装をして来たわけでは無く、髪だけ夜の座敷に備えてつぶし島田に結っていたが、緋鹿の子の上に黒襟をかけた格好だった。それでも、紳士たちの間で、西洋風に口笛を吹く者もいる始末で、他の芸妓達よりも数段目立っていた。この時、晴雄はお妻と目があったが、お妻は思わせぶりにふっと微笑んだ。
 マサは、紳士たちとこうした会合を重ねて行くうちに、さらに思いついたことがあった。
「会社の重役会などの御用がありましたら、大広間をお貸しすることもできますので、ご用命いただければと存じます。」
 この頃はビルヂングというものが不足しており、財閥ですら、大きな会議をする部屋に不足していた。特に、重役会などの重要な会議は、秘密の事項も多い。会社から離れて旅館の大広間で開催するのは、その意味でも都合が良かったのだ。吾妻屋で大会社の重役会議などがしばしば開催されるようになることで、さらに高級旅館としての名声を高めて行き、教養ある人々が吾妻屋を好んで使うようになった。このことで業績もさらに伸びていったのだった。

 晴雄はとにかく管理に徹した。元々理学士で、経営とか簿記に関しての知識は無かったが、それらを独学で学び、きちんとした複式簿記で旅館の売り上げ、債権債務の管理をすることができるようになっていた。それだけでも、どんぶり勘定が多かった当時の旅館業においては画期的だったのだ。
「本当に助かります。」
 執務室で晴雄にお茶を出しながら、マサは椅子に座った。
「当然の事じゃないか。少しでも君に追いつかないとね。君は客商売の玄人だけど僕は違う。理学士なんて肩書は、ここでは何の役にも立たないからね。」
 晴雄は別段、投げやりに言ったわけではないが、マサは気にしていた。
「そんなこと仰らないで。あたしは、晴雄さんのすることは信じています。昔から...」
「いや楽しいよ。商売には学問では学べないものが確かにある。毎日が刺激的だよ。」
 晴雄がそういうとマサは本当にほんとしおた表情を見せたのだった。
 晴雄は、管理の仕事だけでなく、自分でも営業に出かけもした。大学時代の同窓生を尋ねて回ったが、同年齢程度の同窓生では官界や財界ではさすがにまだ高級旅館を自由に使いこなせるほどに出世はしていなかった。晴雄が訪ねて行くと、懐かしがってくれるものの、必ず最後には聞かれた。
「獄にはいつまで入っていたんだい?」
 晴雄が心機一転、仕事に打ち込もうとしても、人々の記憶から中々事件が消えず、晴雄の営業成績はマサほどには上がらなかったのだった。

 そんな営業活動から、吾妻屋に戻るとき、烏森の路地を歩いているとどこからともなく、三味線の音が聞こえてくる。どこかの芸妓やお酌が稽古をしているのだろう。時折、例の唄も混じる。お妻の人気は絶大だった。

『鐘かすむ凌雲閣に咲き競う
美人くらべや恋くらべ
ぱっと浮名を花立ちばなの
想いうずまき入れぼくろ
おつま命と心にさして
意地は一筋烏羽の
ぬれて仇めく洗い髪』

 営業活動の成果はまだまだだったが、こうした烏森の風情は心地よいと思うようになっていた。そして烏森の路地に見慣れた黒板塀を見ると吾妻屋に戻ったことが確認できて、ここが一番落ち着けることを再確認した。晴雄は烏森(からすもり)での生活にも旅館経営にも慣れてきた事を自覚し始めていた。そして晴雄は、いつもまでも過去に生きるわけには行かない、そう自分に言い聞かせながるのだが、それでもふとしたことで紋々としてしまう。
 明治二十八年(1895年)の七月、三浦梧楼が井上馨の後任として駐韓全権公使となり、混乱の続く朝鮮半島に行く事になるという事が報道された。八月に入ると、今度は是清が横浜正金銀行の支配人に就任したという報道を新聞で読んだ。晴雄は、仙臺の監獄に閉じ込められていた時の事を想えば今の生活は天国のように感じられていたし、不満があるわけではないが、三浦は国の代表として朝鮮に行き、是清が国際貿易の要である銀行の支配人にまで出生したという話を知って、晴雄はどうしても気持ちが落ち着かないのであった。そんな時、晴雄は新聞紙をわしづかみにして、ゴミ箱に放り投げ捨てていたのだが、大抵の場合、その場面をマサに見られていた。マサは、あれこれ言うようなことはせず、ただ黙って晴雄に笑顔を見せるだけだった。
 それでもある時、マサは晴雄に尋ねてみた。
「今でも是清さんを恨んでらっしゃるの?」
 そんな場合、晴雄はぶっきらぼうに答えるのであった。
「今更...」
 マサは質問を変えてみた。
「今でも汚名を雪(すす)ぎたいのですか?」
 この質問には、晴雄はかなり苛立ちを見せるのだった。
「名誉...か。詐欺師として刑を受け、今さらどのような方法で名誉を回復できるというのだい?ただいつか、連中には一矢を報いたい...」
 マサは、自分の無力を感じるとともに、この感情をそのままにしておくことが何か良くないことを引き起こさないか、胸騒ぎがしていたのだった。
 こんな日の夜は、晴雄は悪い夢を見た。場所は霧がかかった岩だらけの山、その谷の合間に建てられた小屋、中では荒くれ男たちが騒いでいる。荒くれ男と秘露人で喧嘩が勃発し、荒くれ男は拳銃を取り出す。その流れ弾に晴雄があたる、そんなところで目が覚めるのだった。
 夢見が悪い日も、不機嫌なまま客前に立つわけには行かない。何しろ客商売なのだから、黙って働くしか無いのは当たり前なのだ。それでも、古創というのは、季節の変わり目など、風向きの変化によって痛むこともあるものなのだ。是清が横浜正金銀行の支配人になった頃から、吾妻屋を取り巻く環境も何とは無く変化しているのを感じ取って、晴雄はその古創を放っておくわけにも行かない気がしていた。
 その数日後、晴雄は吾妻屋の執務室でぼんやり考え事をしていた。そこへ、マサが玄関の帳場に置いてある金庫を持って部屋に入って来た。
「何を考え事なさってるんですか?」
「いや、別に...」
 晴雄が視線を逸らして、客室の居間用に取っている日本新聞に目をやった。国力の拡充の重要性を訴える記事がその日のものでも展開されていた。
「是清さん、横浜正金銀行の支配人になったそうね。」マサの言葉に晴雄は不意を突かれたように驚いて思わずマサの方を見た。「どうしても、是清さんのことは忘れられないのですか?」
この前と同じようなマサの質問に、晴雄は視線を落とし反応していないフリをしたが、少し考えてから知らないフリを諦めて答えた。
「いつもいつも考えているわけじゃないさ。ただ、完全に忘れようったって無理な話だ。こっちは秘露(ペルー)から帰って、誰にも会えないまま、そのまま監獄に直行したのだからね。そして、何とか君の助けを得てこうして出てこられても、もう理学士の名誉は失われたまま。僕が君と身を粉にしてこの吾妻屋を盛り立てようという時に、向こうはバンカーか...」
 晴雄はマサにはできるだけ正直な気持ちを伝えた。執務室は秋の初めとは言え暑い光が差し込んでいて、深刻な話をするには似つかわしくない明るさだった。晴雄とマサはしばらく黙っていたが、マサが口を開いた。
「そうねえ...忘れられないなら無理に忘れることは無いでしょう。男の方なら見返してやるという気持ちも大切なものでしょう。ただ、是清さんは、なんか運の強い人なんだわ。晴雄さんの運はこれからですよ。私はそう信じてます。」
 マサは必死に晴雄の気持ちを静めようとしたつもりだったが、晴雄の返事は予想していないものだった。
「とにかく、いつかかならず借りを返す。奴にも絶対に代償を払わせる。」
 晴雄の見返すというよりももっと強い言葉遣いに、マサの心はかなりかき乱されたのだった。

お妻がいつものようにマサと雑談をするために吾妻屋にお茶を飲みに寄っていた時に、マサに何気なく聞いてきた。
「旦那さん、理学士さんなんだってね。凄いね、旅館の切り盛りもできるんだね。」
 お妻がどういう気で言っているのか、そもそも、晴雄が理学士であることなんてとうに知っているとマサは思っていたので、やや怪訝な顔をしながら相手をした。
「良い人と一緒になったと思ってますよ。働き者ですし。」
「あら、お吟姐さんの惚気(のろけ)話を聞きに来たんじゃないんだけど...」
 お妻は自分から聞こうとしたくせにマサの話に苦笑していた。
「旦那さんは、かつて、あの横浜正金銀行の高橋是清さんとも仕事しようとしてたんだってね。秘露(ペルー)の銀山に挑戦して、失敗...そして今は、こうして高級旅館を切りまわしている。あたしもそんな人に女房にしてもらいたいよ。」
 派手な生活をしているお妻らしくない言い方にマサは違和感を持ったので、あえて口をはさんだ。
「お妻姐さんは、新橋に来る男の中で最高の男をつかまえるんじゃなかったの?これまで噂になった人たちだって、みんな歌舞伎役者とか、財界の若旦那とかそういう人たちばかりだったじゃないの。」
 人の噂話にはあえて触れないのが烏森芸者の気風であったが、マサはいつもお妻から色々な話を聞いていたので、その時も何気なく聞いたつもりだった。お妻は真面目に答えようとはせずに、ちょうどその時、居間の横を通りかかった晴雄を捉まえ、怪訝な顔をしているマサに構うことなく、晴雄に話しかけた。
「旦那さん、いつもお世話になっています。特に、お吟姐さんには、いつも本当に良くしてもらっていて。」
 お妻のお愛想に、晴雄も特に警戒心なく、会釈した。
「旦那さん、実はね、今、お吟姐さんとも話をしていたところなのよ。旦那さんが良い男だって。」
 こういうお世辞にどのように対応すべきかの社交術までは晴雄は身に着けてはいなかった。
「あのね、あたしはお二人の吾妻屋をもっと盛り立てたいと思ってるのよ。あたしはお吟姐さんにはずっと憧れていたし。」
 マサはお妻に少し調子のよいところがあるのは知っていたので話半分に聞いていたのだが、晴雄が案外、話を真に受けている感じがあったので、少し落ち着かなかった。
「旦那さんは、本当に惚れ惚れするくらい、いい男よね、働き者だし。だから、あたしに応援させて。いい考えがあるの。あたしは知り合いが多いから、吾妻屋のこと、旦那さんのことを広めてもらうことだってできるわよ。」
 人を疑うことをあまりしない晴雄でも、何とはなしに話の調子のよさに違和感を持ち始めたが、悪い気はしなかった。しかし、マサは明るく振舞うお妻にいつもとは違う不自然さを感じていた。

 それから数日後、頭山がお妻の髪を切り落としたということが、新橋界隈で噂の的となった。お妻が歌舞伎役者市村羽左衛門と遊び歩いていたのを頭山が嫉妬して、お妻に私刑を加えたのだと実しやかに囁かれていた。
「あのお妻さんと頭山さんの話って変ですよ。頭さんが芸妓の浮気なんて気にするはずないわ。」
「頭山だって男だし、独占欲だってあるだろう?」
 晴雄も烏森のゴシップ話に興味が無いわけではなかったが、芸妓と頭山の間の人情沙汰など、晴雄にその真相などわかるわけはないのだ。
「芸妓を独占するって、そんなの旦那になったって無理じゃないかしら。」
 マサの語気は強かった。晴雄は精一杯、想像してみたが、花柳界独特の流儀のことをマサが言っているのにやや落ち着かない気持ちになった。
「頭山さんは嫉妬なんかしない人よ。お妻さんが頭山さん達の仕事をしないで、市村さんに入れ込んでばかりいるもんだから懲らしめようと思ったのかしら...でも絶対それだけではないはずよ。想像だけど、頭山さん達が烏森でやっていることを、誰かに話してしまったんですわ。それで、お妻さんを許せなかったんだと思う。でも、何があったにせよ、女の命である髪を切るなんて...」マサは憤っていた。「花柳界は口が堅いはずだから、芸妓たちは政治家達の話を聞いたって、それを言い触らしたりはしないはずだけど、頭山さんは芸妓達をちやほやする代わりに、いろいろ探りを入れているのよ。どこからお金を持ってきているのかわからないけど、金払いは良いもんだから、頭山さんの取り巻き連中はみんな芸妓にはモテる。その中でもお妻さんをずっと贔屓にしているのは、一流の政治家や財界の人に贔屓にされているお妻さんなら、そうとういろんな話を知っているはずだからよ。」
「お妻は頭山達のスパイなのか...」晴雄は呆然とした。
「晴雄さん、あの人たちにあまりうちのお客さんのことを話さないでね。あの人たちは、人の命を何とも思ってないわ。」
 
 翌日、晴雄にも話さず、マサは一人、吾妻屋の目と鼻の先にある頭山の住処ともなっている浜の家に出かけて行った。
「ちょっと、頭山さん酷いじゃないの。」
 こんな権幕のマサは誰も見たことがないくらいだった。
「おやおや、誰かと思えば吾妻屋さんじゃないか。」
 頭山は、褞袍を着て芸妓の膝枕で転寝と洒落こもうとしていたところだった。気が付くと、頭山のすぐ隣に三浦が座っていた。三浦はこの騒動を楽しむような風情だった。
「天下の頭山満ともあろう男が芸妓の頭を刈るだなんて、随分とみみっちいじゃないの。天下国家はやめにして、髪結い床でも始めようってえのかい?」
 立ったままマサが捲し立てていたので、頭山の頭を膝に置いていた芸妓の顔が引きつっていた。しかし、一瞬の静寂の後、浜の家中に響き渡るほどの頭山の高笑いが聞こえてきた。
「そりゃあいい。そうだな、いろいろ手詰まりなもんでな。ご忠告を聞き入れ、そうするかのお。」
 頭山の調子に気勢をそがれそうになったが、マサは続けた。
「髪ってえのはねえ。女の命なんだよ。ましてや芸妓にとっては商売道具だ。それを切ろうというのは、それは殺すもおんなじだよ。なんだい、ちょっとくらい浮気したからって、女を殺そうってえのは、あまりに料簡が狭いよ。」
 頭山は立ち上がって、まるでマサに接吻しようというかのようにマサの顔に近づき、顔を覗き込んだ。さすがにマサも身構えた。
「ふん...お主もわかっているんじゃろうが。」
 頭山は顔を逸らすと、後ろ手を組んで、部屋をうろうろした。
「確かに、お妻にはいろいろ頼んでいたことがあった。それを最近ではあんまりしてくれんでのお。で、お妻と話してみると、もう旦那を見つけて、芸妓をやめたいのだと言うではないか。だから未練無きよう、さっぱり髪をきって進ぜたというわけよ。」話をしている頭山は、表情は柔らかだが、時折、目の奥がまるで冬の雪空のように暗く冷たかった。「それならのう、吾妻屋さんよ。お妻に代わって色々仕事をしてくれんかのう?」
 マサは、浜の家に乗り込んできたことを後悔した。やはりこの男はとてつもなく危険なのだ。何としても晴雄を近づけてはならないと感じたのだった。

 つまり、この話の裏はこうだった。
 日清戦争終結後の政情が安定しない朝鮮半島に日本政府がテコ入れをするに際して、頭山達は、朝鮮の特命全権公使である井上馨の後釜に盟友三浦梧楼を強力に推していた。朝鮮半島には息のかかった安達謙蔵や、内田良平と東学党の乱を引き起こした武田範之などが居て、杉村を通じて盛んに連絡を取り、工作していた。井上の腹は三浦で決まっていたが、肝心の日本政府内では意見が割れ、三浦本人の気持ちも定まっていなかった。政府の伊藤公等は連日、新橋の待合で「会議」を続けていた。この会議での「工作」をお妻も任されていたが、期待通りの仕事しないばかりではなく、三浦と何かと対立している山県有朋に、頭山らの情報を漏らしてしまったらしい。
 頭山はお妻を諦め、三浦を含めた政府の主要な者達による会議が花月で開かれているところに照葉を送り込んだ。
 長い時間堂々巡りの話し合いが続いたところで、照葉が三浦に酌を注いだ。三浦は酒を煽りながら、自分は行かぬ、誰々に行かせれば良いというように、盛んにくだを巻いた。すると、下を向いて話を聞いている素振を見せていた照葉がうとうと始めた。
「こらあ、近頃の芸者はなっとらんな。客の前に居眠りするとは何事か?」
 三浦は激怒するわけでは無く、揶揄い気味に照葉を叱った。すると照葉は言い返した。
「そりゃあ三浦さん、眠くもなりますよ。同じことの繰り返しなんですもの。」
「何だとう?」今度は三浦は少しだけ語気を強くした。
「聞いてりゃあ、もう大の男達がああでもない、こうでもないって、もうこんなこと繰り返してないで、三浦さんが朝鮮へ行けばよろしいのではないですか。」
 照葉の文句に白けていた座が大きく盛り上がった。
「そうだ、そうだ。三浦を覚悟を決めい。」誰ともなく、盛んに囃し立てた。
「ほらほら、ようござんすか?もうこれで朝鮮へは三浦さんがお行きになると決まったら、祝宴としましょう。」
「そうだ。三浦で決まりじゃ。」と一同は大喝采となった。
 三浦は芸妓達の前で苦虫を噛み潰したような顔をした。自分が朝鮮へ行けばどういうことになるのかよく知っていたからだ。

 数日後、この頃大人の女では珍しいおかっぱ頭に帽子を乗せたお妻が、マサと晴雄を訪ねてきた。
「ねえ、ちょっと話があるの。いや、話っていうより、少しお酒を飲まない?少しなら、どこかへ出かけられないかしら。」
「何かあったら困るので、二人とも外に出るのはちょっと。それよりうちに上がらない?今日は大広間も空いているので、仲居に酒くらい持ってこさせるわよ。」
 マサがそう言ってお妻を玄関から上がらせた。廊下を隔てて中庭が良く見える部屋だったので、お妻はしばらく立ったまま中庭を眺めていたが、仲居が酒を運んでくると、その後、お妻が自分で戸を引いて閉めた。
「今日は何かあったの?」
 マサは先に晴雄に酒を注いだ後、お妻に尋ねながら、お酌をした。
「いや別になんとなく、ほら、大好きなお二人と一緒にお酒を飲んだことも無かったし、ここの所いろいろあってじっくり話せなかったじゃない?」
 お妻は晴雄の顔もマサの顔も直視することなく、酒を男のようにあおりながら、つらつら話し始めた。
「頭さんとは何があったというのです?」
 晴雄は、マサが聞きにくいことをはっきりと尋ねたので横目ではらはらしながら、酒をすすった。
「別に...頭さんとはもう切れることになったのよ。暴力を振るわれたわけではないわ。ただ、頭さんと切れるためには、その方が踏ん切りがつくと思って...」
マサには、お妻の話がなんとなく嘘だということが分かった。芸妓が髪を切るということは、男の人が床屋でさっぱりしてもらうのとはわけが違うのだ。
「私は頭さんのことはそんなに知らないけど、あんな怒りっぽい人だとは思わなかったわ。烏森で遊んでいて...」
 マサはこの旅館の中にも杉村のように頭山と繋がっている者がよく泊まっていることを思い出して、言葉を飲み込んだ。
「ほんと言うとね、何を考えているか全くわからない人よ。芸妓には優しいし人気があるけどね、時たま、ものすごい眼光で睨みつける時があるもの。今はあの人たちの頭には、朝鮮の事しかないけどね。『ともかく、女狐のことは、きっちり片を付ける。』って言ってたわ。」
 政治に疎いマサは、お妻の言うことがピンとこなかった。晴雄も良くわからないという顔をしてマサの方を見た。
「烏森も生きにくくなったわよねえ。昔は潮の香のする海辺の街でもっと長閑(のどか)だったわよね。政治の事なんて、あたしは嫌い。そんなことに関わるのもまっぴらよ。」
 酔いが進むにつれ、お妻の話はやや愚痴っぽくなってきた。マサはお妻が烏森を離れるつもりなのだということを悟った。仲の良い芸妓が烏森を去るということ以上に、街が輝きを失っていく寂寥を感じたのだった。

 その後、お妻から風の便りが届いた。
「お妻さん、米倉さんに落籍されるって。」
お妻を贔屓にしていた者には、伊藤博文から西郷従道などに加えて、財界の大物である米倉一平もいた。その米倉が遂にお妻を落籍し、妾としたのだ。時代に翻弄されたお妻も、やっと収まる所に収まったのだった。
「烏森が寂しくなるわねえ...」
 マサの漏らしたため息のような言葉に晴雄も頷いた。綺麗な芸妓ならこの新橋烏森界隈にはそれこそ五万といるのだが、あれだけの存在感を持った芸妓は二人と居ない。


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