第10話 再契約

文字数 2,315文字

 次の日、キンタへーレンを訪ねると、へーレンが先に提案をして来た。
「貴殿の心配は山の価値が棄損してしまうことでしょう。そこで、事業が上手くいかなくなっても私が元の値段で買い取るという誓約をしましょう。その上で、会社財産に組み入れたこのキンタへーレンも買い戻しましょう。さすれば会社の手元現金に余裕ができ、また将来の事業への心配も減りましょう。」
 そういって誓約書案を出してきた。是清はその誓約書案を一通り読んでみたが、すぐに気付いた。
「こんなコンディション・サブシークエント(condition subsequent‐解除条件)だらけのオファーなんて何の意味がある?こんな条件は飲めない。」
 誓約書案にはへーレンが山の権利を買い取る義務が規定されてはいたが、一定の条件に当てはまる場合にはその義務が免除されるという解除条件付きの誓約だったのだ。しかも、その一定の条件というのが列挙されており、へーレンの義務としては意味を為さなかった。しかし、へーレンは食い下がった。
「貴殿は、なぜ日本の事ばかりをお考えなのですか。鉱山は低品位鉱しか取れないとしても、採掘を始め精錬機械を取り付ければ、利益を生むようになるのは当然ではないですか。貴殿は今、株主の方ばかりを気にされているのではないですか。株主の顔色ばかりを窺って、事業を(ないがし)ろにするかのような態度は解せません。」
「事業を続けて行くには低品位鉱を採掘して銀鉱を大量に精錬していく必要がある。今、無理をして事業を始めても利益が上がらず、株主に損失を与えることになる。最初からそれが判っていながら、事業を続けるというようなことは私の道徳心からできない。利益を生むためには、多量生産のために精錬能力を増強しなくてはならない。そのためにはさらに株主を募って資本を強化せねばならない。株主を集めることに失敗したならば、この事業にかかる日秘鉱業会社の権利は全て放棄しよう。そのために次の条件を飲んで欲しい。」
 是清がカウンター・オファーを出した。 

『一 日本組合がへーレンの権利を六万英ポンドで買い取ること。その代金として、日本組合は現金で五万英ポンドを支払い、残りは新たに日本で設立する会社の株式とすること。
― 株主募集を六か月間行い、へーレンへの支払いをその間に行うこと。もしその間に支払いが無ければ、日本組合は鉱山に関する権利を全て失うこと
― 本契約の締結を持って、有限責任日本興業会社の契約を無効とすること― へーレンに対する支払いがなされないことが日本側から通知された場合には、カラワクラにいる日本人坑夫に通知し、下山および帰国にかかる費用を会社財産から支払うこと。』

  とにかく、最初に晴雄たちが締結した契約が無効となることが重要だった。その上で、株主が集まり事業が継続できれば、へーレンにとっても悪い条件では無かった。へーレンは、渋々契約条件を飲んだ。ここにやっと新契約が成立した。有限責任日本興業会社の契約は無効となった。 是清はすぐに支度を始め、日本へ帰ることとした。カジャオの港には、へーレンはじめ、鉱山事業に関係する者ら数人が見送りに来たが口数は少なかった。是清は動き出した船から見えたアンデスの山に別れを告げた。二度とこの地を踏むことはないだろうと知っていたのだ。
 一方、是清が帰国したという報を受けて、カラワクラに残っていた山口と屋須は大いに激怒した。
「坑夫を山に残したまま、事業がうまく行かないからと言って、日本にそそくさと帰るとは何て奴なんだ。」
 温厚なクリスチャンの医師である屋須らしくない、語気を強めた言い方だった。 

 六月五日、是清は日本に着いた。横浜の港には、藤村ら日秘鉱業会社の株主が数名迎えに来ていた。
「どうだった秘露(ペルー)は?」
 取り敢えずの挨拶もそこそこ、新橋へと向かう汽車の中で是清は無言を貫いていた。ところが、藤村が新たな技師を秘露(ペルー)に派遣したところだと言ったので、是清はやっと口を開いた。
「すぐに呼び戻してくれ。新たな技師など無用だ。」
 是清があまり説明をしないので、藤村等も一体全体どうなっているのかがわからなかった。

 新橋では、新聞記者が是清に秘露(ペルー)のことを尋ねてきた。是清は言った。
「鉱山は非常に有望だ。事業は順調に計画を進めている。」
 翌日の新聞には是清の言のとおりの記事が掲載されたが、何日か経って秘露(ペルー)の状況がすっぱ抜かれた。
 『秘露銀山は空穴なりと』
  記事には次のようなことが書かれていた。
「またもや、碧眼奴にしてやられた。鉱山技師田島晴雄が昨年調査した時には塞がれていた穴が今回の調査で発見され、掘りつくされた鉱山であることが分かった。理学士田島氏の調査が不十分であったとの批判は免れない。」
 新聞はまだ晴雄を詐欺師呼ばわりしてはいなかった。しかし、腹が収まらない株主たちはどうしても主犯を探したかったのだ。三浦梧楼ら株主は、田島晴雄を詐欺により告訴した。当然、追加資金の募集は不調に終わり、日秘鉱業会社は破綻した。
 資本増強の不調がへーレンに電報で伝えられへーレンは大いに落胆したが、最後に交わした契約に従い日本人坑夫等の下山に協力した。屋須や山口等は冬になって荒れ狂う天気の中、アンデスからの下山を強行した。坑夫らを励ましながら、やっとの思いでリマに戻り、そしてカジャオから帰国の船に乗った。是清も眺めた同じアンデスの風景を船から眺めながら、屋須はいくつもの峠を越えながら下山した、その苦難から無事に乗船できたことを心底神に感謝した。そして、今度こそ神の道を歩むことを決意した。屋須はグアテマラで下船し、二度と日本へは戻らなかったのだ。



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