第11話 投獄
文字数 5,089文字
宮城集治監は二階建ての六棟の房が放射状に広がる「
晴雄は重大事件の未決囚という事で独房に入れられたが、これは精神的にかなりきつかった。晴雄は断じて人を騙そうとはしていなかったのだ。それがどうして、このようなことになるのか、その理不尽さに納得が行かず、腹も立っていた。
晴雄の両親が手をまわしたのか、弁護人として、刑法改正案起草委員を務め、第一回の帝国議会選挙で衆議院議員に当選して議員となっていた刑法の専門家である宮城浩蔵がやってきた。宮城はインテリ風で背も高く、スリーピースが板についていた。同じくインテリではあるが、鉱山の現場に張り付いていた晴雄には見慣れないタイプの人間だった。
晴雄は宮城が弁護人となった経緯も全く
「宮城先生、法律の事は良くわかりませんが、これだけは言っておきたいです。僕には本当に
晴雄の話を聞いて、宮城が弁護の方針を伝えた。
「田島君、君の言う通り、君に
「宮城さん、裁判のことはお任せしますが、何卒、よろしくお願いします。」
刑法の大家である宮城弁護士は、刑法に国外犯の規定がないことを理由とする公訴不受理の申請を行った。
下級審による審理開始の決定に対しても不服を申し立て、一時は大審院が控訴院に差し戻すなど善戦したが、結局翌年の明治二十四年(1891年)四月十三日に公判を開く決定が告げられた。
「刑法に規定がないという主張が通らず不満だが仕方がない。これでいよいよ裁判となるが、検察側は
晴雄は公訴不受理が認められなかったことに納得してはいなかったが、それよりも、裁判が開かれるというこの決定までに一年近くかかったことにかなり消耗していた。
「田島君、中々大変だがね。ここは一つ、気持ちを落ち着かせて、体調を整え、準備しておいてくれ給え。私もできるだけの力を貸すつもりだ。何としても無罪を勝ち取ろうじゃないか。日本の刑法は今も改正が議論されている時で過渡期とも言える状況だ。状況が流動的な中で、そんな無理が通って道理が引っ込むような判決は出しようがないと私は思っている。頑張って行こう。」
宮城の主張は、もちろん根拠がない話では無かったが、田島の精神面が崩れないように励ます意味もあった。実際、ここから長い裁判は続いたのだ。
ある日、東京から来たという新聞記者が事件の事を聞きたいと言って面会に訪れた。短い時間だが、外の人と話せるのは晴雄にとって気分転換になった。しかし、この新聞記者は人の話なんかまともに聞くタイプでは無かった。記者が事件の事について通り一遍の質問をしてきたので、晴雄はとりあえず答えた。
「報道にある通りですよ。僕が詐欺を働いたというところ以外は。」
「つまり君は、
「そこは...確かに...」
「なるほどねえ。他に無罪の証拠でもあれば良いんだが、特に証拠がないとなると記事にはし辛いなあ。」
記者にきちんと話しても無駄だろうと言う気はしたが、晴雄はこれだけは言っておきたいと思い付け加えた。
「ともかく疑いがあるとしても、このような扱いは酷いではないか。日本は近代国家として刑法も整えるのであれば、収監者をもう少し人間として扱って欲しい。」
「なるほど...」
その新聞記者は、面倒くさそうに形だけメモに取り、特に感想も言わず、面会室からそそくさと出ていってしまった。 その後、本人のかかわる事件に関しての記事は見せてくれないのが慣例であるにもかかわらず、看守が記事が掲載された新聞を特別に見せてくれた。そこには次にような見出しがとあった。
『田島晴雄理学士、予として猿に化せしめんとする乎、と怒る。』
晴雄は怒りで狂いそうになった。
「人を猿に貶めているのは誰なんだ?」
晴雄は看守には礼を言ったが、怒りで発作が起きてしまいそうなくらい胸が苦しくなって、冷たい床にそのまま横たわったのだった。
そしてさらに一年後、逮捕から二年後の明治二十五年(1892年)七月十一日、東京地方裁判所で一審の判決が出た。
「鉱山購入に代金一万六千ポンドを三浦梧楼らに請求し、これをへーレンに交付して応分の手数料を受けるという密約があり、実際に六千ポンドを受け取ったのは、鉱山の対価を詐称したものであるが、刑法にこれを罰する条文はなく、無罪とする。」
判決を聞いて、宮城と晴雄は握手を交わし、無罪を喜んだ。
「宮城先生、感謝します。」
しかし、それも束の間、検察はすぐに控訴した。
「田島君、先日の無罪は喜ばしいが、上級審での審理はまだ予断を許さない状況だ。一つ、提案なんだが、高橋是清氏に謝罪文を書いてはどうだろう。素直に謝罪の意を示し、できれば高橋氏個人との間で和解したい。そうすれば、上級審での裁判にも影響を与えられる。万が一有罪となっても、情状の余地が出てくるんだが。」
「先生、裁判の事は良くわかりませんが、どうして詐欺など働いていないのに謝罪しなくてはならないのでしょうか。」
晴雄は声を荒げたが、宮城はこれを制して諭した。
「気持ちはわかるが、謝罪は詐欺を認めるということを意味するものではない。君自身にもあった不注意を認め、意図と反して損失を与えたことを詫びるということだ。裁判というのは、一か百かではない。非があった部分につきこれを素直に認めれば、刑期の短縮など、必ず実を取れるものだ。」
晴雄は完全には納得しなかったが、致し方なく筆と墨を看守に要求し、独房の中で筆を取った。
『秘露の件にて、お詫び聞こえさせたく思ひたてまつり候。現地にての調査に於いて、手づから抜かりあひしことは認めぬ得はべらずにて候。いさふに、全て国際経験の不足と、商慣習への無知より来るものにて、決して欺罔働きしものにてはありはべらずにて候。現地にての調査にては限界もありはべりき候にて、正式契約まへの、鑽井調査などあたはざりし為に、文獻のみ、調べたにとどまるものなり。今思はば、仮契約の段階にて現地調査の權利確保共べきであひけるに悔やまれはべりなり。小生、契約といふものに疎く、又、盛んに急かすへーレンの策にまんまと嵌め共れたもの思ひまはしはべり候。小生の未熟ゆゑにご迷惑お掛けしことは、此處に深くかしこまりきこゆるにともに、萬、悪意はなく、過失にて、あのごとき結果となりしことは、何卒、ご理解たまはりたく、御あらまし聞こえさせはべりにて候』
是清は
『...何等一点の塵なしに立派に陣払いの始末を付け他の事業に御着手奉折候、この塵を残しつつ他に手を着ける事は万々御不得策と存候...』
日秘鉱業株式会社の株主へは会社整理で残余財産をいくらか分配したが、是清はこの上、何ができるか考えていたところだった。
そのために、新たな鉱山に投資し、その収益で迷惑を掛けた株主、
是清は晴雄のわび状を何度も読み返し、手紙を手前に置くと、しばし沈思黙考した。そして意を決したかのように目を見開くと、妻の品を呼んだ。
「知っての通り、わしは
品はわかっていますという顔で、声を出さずに頷いた。
「やがてこの家も売り払い、少しでも関係者の満足のために差し出す所存である。」
品は微笑んでさえいた。
「これから、しばらく貧乏暮らしになるが、堪えて欲しい。ついては本日、その前の最後の垢落としで、これから
是清の真剣な申し出に、品は吹き出さんばかりの笑顔で言った。
「あなた様がそれほどお急ぎになっているからには、お考えのあることでしょう。そのことで詰問したりは致しません。どうぞ、お好きになさって下さい。」
是清は品の許しを得て、
同年十一月五日、結局、晴雄は詐欺取財の正條に依り重禁固三年罰金三十円監視六か月と逆転有罪の判決を受けた。
「事実と異なる被告の書いた報告書は、奸計的策略に該当し、架空の成功についての期待を抱かせるために,財産の一部を騙し取った」との判断だった。
「残念ながら、君が受け取ったという手数料六千英ポンドというのが鉱山購入代金の一部を構成していると判断された。確かに鉱山代金に手数料分が上乗せされているという見立ては不合理なものではない。しかし、鉱山が有望とする報告は奸計的策略などではなく、君が
晴雄は宮城の慰めにも怒りを露わにした。
「先生、そんなことより、なぜ我々が証人申請した是清は証人として呼ばれなかったのでしょうか?なぜ是清が裁判の外で株主にした説明だけが罷り通り、私の裁判所での証言は全て無視されるのでしょうか。もう最初から有罪と決めてかかっているようなものではないですか。不当だし茶番です。不当な裁判によって僕は抹殺されようとしているのですよ。」
宮城にももはやどうすることもできず、晴雄の叫びも公平に聞いてくれる者は居なかった。晴雄は上告を断念し、そのまま宮城集治監に収監された。