第3話 蠱惑

文字数 3,507文字

 この席に濃紅銀鉱(ルビーシルバー)の石を持ち込んだ井上という男は、秘露(ペルー)でオスカー・へーレンというドイツ人に仕えていた。へーレンは、母方がスペイン系であったためスペイン語に堪能だったが、父方の家系はハンブルグの裕福な商人の家だった。へーレンは、実はかつて日本に住んで居たこともある。明治二年(1869年)に日本に来たへーレンは最初、横浜のドイツ商社で働き、その後築地の鉄砲洲に移り、独立した後、秘露(ペルー)の総領事のような存在となっていた。しかし、日本での商売は思わしくなく、築地の家も引き払い、五年後の明治七年には、欧州経由で秘露(ペルー)に渡ったのだった。
 へーレンは、端正な顔立ちの、エレガントで知的な人物として人から好かれた。それを利用して、人に取り入ったり、自分のビジネスに誘い込んだりするのが上手かったようだ。彼は秘露(ペルー)に行ってすぐに、マヌエル・パルド大統領夫人の妹カルメンと結婚し、そこで人脈を築いた。パルド大統領の政府からチャンチョマヨの農場が払い下げられ、不動産、金融、貿易、鉱業など手広く経営していたので、秘露(ペルー)ではかなり知られた事業家だった。
 しかし、へーレンは農場経営の事で悩んでいた。のんびりした秘露(ペルー)人気質では農場での作業に向いていないと感じていたのだ。このままでは農場経営がうまく行かず、どうしたものかと考えあぐねていたところ、突然、築地で暮らしていた頃のことを思い出した。
「そうだ。勤勉な日本人を使うのだ。」
 実は、すでにこの農場でも、片腕として日本から来た井上賢吉という男を使用人として雇っていた。へーレンは、農場の脇の自宅のバルコニーから、働いている者たちに井上に来るように伝えてくれと命じた。井上が来るとレモネードを差し出し、尋ねた。
「イノウエサン、何とか日本から農民を呼べないものだろうか。」
 へーレンの農場経営についての悩みを理解していた井上は即答した。
「日本では食うに困った農民が大勢居ます。それらの貧しい農民の中には、外国、特にアメリカなどに移住している者がかなり居ます。日本から秘露(ペルー)に農民を呼び寄せるのも不可能ではないと思いますが、如何せん、秘露(ペルー)のことは日本では全く知られておりません。」
 へーレン自身、無理もないことだと思っていた。日本と秘露(ペルー)には国交自体がまだ無かったのだ。
「イノウエサン、頼む。日本に行ってくれないか。秘露(ペルー)の農場で働く日本人を集めては来てくれないか。」
 二つ返事ということではないが、日本に帰朝すること自体は井上にとっても嬉しいことだった。ただ、どれだけ農民を集めてこられるか井上には自信が無かった。するとヘーレンは石を取り出し、井上にこう言った。
「これを持って行くが良い。」
 へーレンがこの時に、日本人の出資者たちを最初から鉱山投資に誘い込む意図もあったかどうかはわからない。しかしへーレンは、日本人の間にあった鉱山ブームを覚えていたし、実際、その頃の秘露(ペルー)では、鉱山の一大ブームが起こっていた。ドイツなど欧州各国も秘露(ペルー)に積極的に投資しており、秘露(ペルー)の鉱山の価格は高騰していたのだ。へーレンは、日本人がそうした秘露(ペルー)の実情を知れば、秘露(ペルー)で事業を展開することにも興味を持つだろうと考えた。
 へーレンは、鉱石を取り出して井上の前に置いた。へーレンが所有している土地の中にある鉱山で採れた濃紅銀鉱(ルビーシルバー)の石だった。へーレンは、この井上賢吉という男に濃紅銀鉱(ルビーシルバー)の銀鉱石を持たせて日本に派遣することにしたのだ。
「農場経営に興味を持つものをまず探してくれ。共同経営をする者が見つかれば、その者が農民を集めてくれるだろう。鉱山にも興味があれば、協同で開発する考えがあることも伝えておいてくれ。」
 井上は日本に着くと最初に、かつてからの知り合いだった城山静一に助力を求めた。城山は、かつて板垣退助の自由民権運動に参加していた事があり、人脈を持っていた。
 城山は早速、事業家である藤村紫朗(しろう)に話をしてみた。藤村は秘露(ペルー)での農場経営にはほとんど興味を示さなかったが、井上がもちこんだ銀鉱の見本である石に強い関心を示した。
「興味深い。早速、その石を鑑定してもらおう。農商務省に持ち込むのが良い。」
 藤村は前田正名(まさな)にも声を掛けた上で、一緒に農商務省に行って高橋是清を鉱山投資に引っ張り出すよう説得することを頼んだ。前田も乗り気になり、藤村と一緒に農商務省まで出掛け、特許局の新設に奔走していた高橋是清を捕まえた。
「高橋君、君はかねがね言っていたね。日本人は言葉もろくにしゃべれずに闇雲に欧州などの一等国に商談に行くが、全く相手にされていない。日本人は、経済も文化もレベルの高い欧米よりも、これから発展が見込める南米の国のようなところを相手に商売を進めるべきだと。」
「いかにも」
 是清は、前田が何を言おうとしているのかを探るような眼をしながら、前田の話を聞き続けた。
「実は、よい話があるのだ。この石を見てくれ給え。」
 前田は、高橋に持ってきた濃紅銀鉱(ルビーシルバー)を、茶色の大き目の鞄から(うやうや)しく取り出して見せた。石は、相変わらず白っぽい灰色のごつごつした岩のようでいて、なぜか奥が覗き込めるくらいところどころ透明だった。その奥から放たれる妖しくも美しい紅色に是清は一目で魅せられた。前田はこの石がここまで運ばれてきた経緯を説明した。
「なるほど、それであればこの石を鑑定する必要がありますな。鉱山局を通じて、巖谷先生に見てもらうこととしましょう。預かり証を出すので、鑑定が出るまでこの石は農商務省で厳重に預からせてもらいましょうか。」
 一週間後、農商務省の鉱山局で前田と高橋も同席して、巌谷(いわや)立太郎(りゅうたろう)博士の鑑定結果を聞いた。
「つまり、この石は非常に銀の純度が高いということなんですな。」
 藤村が巖谷博士に確認を求めると巖谷は説明した。鑑定の結果、石は濃紅銀鉱(ルビーシルバー)と呼ばれる種類の鉱石であり、含銀品位二十七から二十八パーセントということで、純銀に近いものということであった。
「これは是非話を進めるべきだろう。だが、我々だけでできるような事業でもないから、出資者を募る必要がある。」
 藤村が是清に熱を帯びた口調で提案した。是清はすぐに前のめりになった。
「巖谷先生のお墨付きなら、もう今すぐにでもこの鉱山事業に着手すべきじゃないか。」
 藤村は逆にやや苦笑気味に、だが予想通りという顔をしながら、是清に更なる提案をした。「まあ、現地に行って実地の調査も必要だろう。鉱山事業はそんなに簡単じゃないからな。巖谷先生を現地に派遣するわけにも行かないだろうから、誰か現地に行ける人間を紹介してもらうのが良いだろう。」
 すると話を聞いていた巖谷が答えた。
「私の教え子から何人か紹介することはできます。ただ、みな研究や仕事で鉱山の現場に張り付いていますからな。秘露(ペルー)まで行ける人間がいるか、ですが。」
 是清がそれに反応した。
「巖谷先生、私の予備門時代の教え子で理学士となったのを一人覚えています。名前は確か田島と言ったと思います。英語はかなり出来たのを覚えています。」
「田島君は優秀ですよ。田島君なら適任でしょう。ただし彼は今、秋田の院内に居るはずです。果たして、そこを辞めてこの事業に参加できるでしょうか。」
 巖谷からそれだけ聞くと、前田、藤村、高橋等はすぐに田島晴雄を秋田から呼び寄せることに手をまわし、晴雄の外堀を埋めに掛かった。彼らはもはや、農業経営を飛ばして鉱山開発に一気に前のめりになっていた。
  こうして彼らは、烏森(からすもり)の胡月に集まった。この種の事業の相談をする時は、待合か料亭と相場は決まっていたのだ。その胡月で、井上は滔々(とうとう)と説明していた。「この石は秘露(ペルー)のカラワクラという鉱山で採れたものです。」
 井上は鉱石も持って来ていた。鞄から鉛筆と秘露(ペルー)の地図を取り出してから、実際の鉱山の場所を指し示し、丸で囲み、Carahuacraと書いて見せた。
「この鉱石が素晴らしいのは本当です。巖谷先生の分析ですから、間違いありません。」晴雄も自信満々に井上の説明を後押しした。
「これは凄い事だ。とても大きな巡りあわせだ。人生でそんなに何度もこのような機会があるものではない。早速、銀山の経営に乗り出そうではないか。もちろん、事前にさらなる調査が必要だが。」三浦がそう言うと、城山が提案した。
「田島君、是非とも秘露(ペルー)に行ってはくれまいか。そのために資金は工面しよう。鉱山を見てきてくれたまえ。そして、この鉱山開発のための権利を手に入れようではないか。」
 晴雄が秘露(ペルー)に調査に行くにあたって、藤村は事業家らしく、三浦梧楼や小野金六らから集めた金で、事業組合を作ることを提案した。


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