第29話 燎原の火

文字数 4,507文字

 東京はあっと言う間に火の海になってしまった。愛宕山に居を構えていた恒雄は、燃え盛る街を何とか潜り抜け、浜離宮まで逃げた。
 烏森にも火が迫っていた。地獄のように見えた。吾妻屋が気になっていたのだが、火の勢いが強く、とてもではないがその中を搔い潜って烏森に到達できる見込みはなかった。医師として、火の勢いが収まったのならば、人の救助をしなくてはならないとは考えていたが、火を消すことはできそうもない。晴雄さんやマサさんは無事なのだろうか。そして、二人の子供たちは。そしてあの美しい吾妻屋の建物はどうなってしまったのだろう。

 翌朝、火が収まったころ、烏森を目指して歩き始めた。普通なら十分も歩けばつく距離なのに、がれきと焼け焦げた人の死体が行く手を阻んだ。
「なんということだ。」
 一応、医師として、息があるものはないか確認しながら歩き進んだので、その分も遅くなり、烏森の吾妻屋があったと思われる場所につくまで一時間弱はかかってしまった。
 吾妻屋の隣の烏森神社の鳥居の残骸をやっと見つけた。烏森の駅が見えるが、震災前に考えていたよりもずっと駅に近い場所だった。周りは多く燃えてしまっていたが、吾妻屋のビル棟は全焼ではなかった。建物全体も他の建物よりは状態が良い様に見える。もちろん、家族も誰一人、その場所にはおらず、生きているのか死んだのかも分からなかった。
 恒雄はポケットから紙片とペンを取り出し、メモ書きし、落ちていた釘で吾妻屋の焼け残った建物の壁にメモを打ち付けて、そこから立ち去った。そして愛宕山の病院の方を目指して歩いた。町中に死臭が漂っていた。
 愛宕山の近くにあった病院も、病棟はかろうじて無事であり、すでに溢れかえっている患者の対応に追われることに、恒雄も医師として覚悟を決めた。
 本来は待合室であるところに、普通の家にあるようなカーテンで診察室を(こしら)えていた。内科が専門の恒雄もかり出されてケガの診察をこなしていたところ、カーテンを開けて、二人の若い男女と見た顔の中年女性が診察室に入って来た。
「田島さん!」
 恒雄はマサに気付き、思わず大きな声を上げた。
「晴恵さんと晴彦さんも、よくご無事で。」
 恒雄が声をかけるとマサは力なく微笑んだ。恒雄は続いて晴雄の事を聞こうとしたが、少し躊躇した。マサが逆に状況を説明した。
「晴雄さんはまだ見つかっていません...」
 震災で、誰もがみな(やつ)れていたが、マサは明らかに震災の疲れを越えて、心労で眠れない様子だった。診察は列をなしているので、詳しく話を聞く時間は無かったが、マサは晴雄が京橋から烏森に向かってる時、地震に遭遇したらしいということを教えてくれた。晴雄を探しに行こうにも、人の流れと火の流れから、自由に動き回れない状態で、やっとのことで浜離宮まで逃げたということだった。
「おそらく怪我をして、どこかに運び込まれているのでしょう。大丈夫ですよ。」
 そう言ってマサを慰めたものの、医師として絶対という言葉を加えられなかった。

 震災から三日経って、ようやく、救援物資も届き始め、支援が徐々に広がって行った。恒雄が勤めていた病院にも、薬や医療機器が届けられて、なんとか治療の恰好が付き始めていた。連絡網も整備され、行方不明者の情報交換も進み始めた。病院の待合室に他の病院に入院している者のリストが張り出されていた。そこに田島晴雄の名前を見つけ、思わず声を上げそうになった。
 恒雄は看護婦に十五分程度、病院を抜けると告げ、烏森へと走った。普段、走って行けば、十分かからないくらいの距離であるが、がれきを避けながらなので、歩くよりちょっとだけ早いという程度で、十分以上かかってしまった。
 吾妻屋のところに行くと、マサはがれきの中で探し物をしていた。
「田島さん!」
 大声を出すとマサはびっくりして、(すす)だらけの顔のまま、振り向いた。
「みつかりました。月島の診療所に居ます!」

 晴雄には、やけどや目に見える大きなけがは無かったが、足を捻挫したのか動けなくなっていて、月島の焼け残った診療所の床に寝かされていた。
「貴方...よくご無事で...」
 マサは晴雄の顔を覗き込むと、そのまま泣き崩れてしまった。
「君か...」
 晴雄は力なく声を出した。晴雄が明らかに弱っていたので、話をさせることはできないと思い、マサは晴雄が銀座から月島に逃げた経緯などは聞けなかった。
「捻挫したか、もしかしたら肉離れを起こしているかも知れない。うちは小児科で、そこまで詳しく見れないんだ。それと...この体のむくみは...腎臓かも知れない。今、飲み水が不足していることも良くない。本当は早く、大きな病院で見てもらった方が良いんだが。」
 医師の示唆に、マサは絞り出すように声を出した。
「愛宕山の大学病院に知り合いの先生がいます。実はその先生からも、今年の春くらいに、腎臓が悪いのではないかと言われておりました。その後、一応は治療に通ってはいたのですが、仕事が何かと忙しく...少し働き過ぎだったのかも知れません。何とか、そこに頼んで入院させます。」
「それができるなら、そうした方が良い。」
 マサは息子の晴彦に頼み、生き残っていた吾妻屋の従業員と一緒に毛布にくるまった晴雄をリヤカーに載せて、愛宕山まで運んだ。
 話を聞いて玄関で待っていた恒雄が、すぐに病院の看護婦やその他の者に病室に運ぶように指示した。
「運よく、今日、軽いけがの者が何人か退院したので、使える病室があります。そこで二、三日、検査入院してもらって、それで足のレントゲンも取って、見てみましょう。」
 恒雄はマサにそう伝えた。マサは恒雄に月島の診療所での晴雄の様子を話し、また診療所の医師が腎臓が悪いせいで体が浮腫んでいるのかも知れないと言っていたことを伝えた。
 恒雄が病室に運ばれた晴雄を診察したが、確かに、晴雄の足の浮腫みは怪我によるものでは無いように思えた。六十三歳というのは、体の弱るものなのだろう。だが、怪我をしている以上に、あまりに弱々し過ぎると感じられたのだ。

 マサは晴雄に寄り添った。晴雄は話をしたがっていたが、マサがそれを遮った。
「あとで話は聞きますから、ゆっくり休んでください。お願いだから、もうしゃべらないで。」
 マサがそう言っても、晴雄は聞かず、途切れ途切れで話をした。
 晴雄は銀座まで出てきた時に、強い揺れを感じたものの、それほど建物が倒壊する様子は無かったので、市電を乗り換えて烏森に行こうとして電車を待っていたところ、火が襲って来た。慌てて築地方面を目指して逃げたが、途中、群衆に押されて倒れ、足を挫きながら、海軍省のところまで来た。そして、そこも避難の群衆でいっぱいになって、押されるように勝どき橋を渡ったとのことだった。
「わかりました。大変でしたね。もうそのくらいにして、お体に障りますから、寝てください。」
 マサは、話を止めさせて休ませることが正しいと信じていた。しかしその後、マサと晴雄はゆっくりと話しをする時間に恵まれなかった。そして...マサは、晴雄が話したがっていたことを結局、聞けなかったのだ。

 マサと晴彦は烏森の吾妻屋の後片付けをしていた。マサは後片付けをしながら、執務室や住居棟の跡形で何かを探していた。晴彦は吾妻屋の経営に関する書類とか宿帳か何かだろうと思っていた。
「あったわ...」
 マサがほっとしながら、何冊かのノートをガラの中から引っ張り出した。そしてもう一つ、晴雄と結婚した時に新富の写真屋で撮影してもらった二人の新郎新婦姿の写真を見つけた。
 それらを抱きしめる様にしてすすり泣いていた時、表にあたる道の方から取引銀行の銀行員が声を掛けてきた。
「吾妻屋さん、よくご無事で。良かった...実は、お話があります。」
 震災によりモラトリアムが宣言され、銀行に対する債務は消えたが、マサとしても再建には、銀行からの借り入れがないと無理だと考えていた。
 身構えながらも銀行員の話を聞くために、家のガラを避けながら、マサと晴彦は家の前の通りまで出てきた。
「実は、琴平町の信州屋さんは一部損壊だけで、少し修繕すればすぐ営業が再開できる状態です。しかし、あそこのご主人が亡くなられました。女将さんは自分だけで営業を続けることは無理との事で、信州屋を売りに出したいと考えてらっしゃいます。そこで信州屋さんを買収してそこで営業は始められてはいかがですか?烏森の再建資金のご融資についても、烏森は一等地ですから、十分提供させていただけると思います。十分な担保の価値はありますが、だいぶ資金がご入用になるでしょうから、京橋の方をお売りになってもよろしいと思いますが。」
 マサにとっては渡りに船の話で、晴彦に銀行との交渉を任せることとした。
「銀行さんとのお話はこの晴彦に任せます。それにしても、信州屋さんもお可哀想に...」
 吾妻屋の再建への糸口をつかんだその時、晴恵がマサと晴彦のところに泣きながらやって来た。一瞬で風景が凍り付き、周りの雑音もすべて消え去った。マサはこの時ほど、時が永遠に進まないで欲しいと心から願ったことは無かった。

 震災から一年半が経った大正十四年(1925年)年四月、新橋演舞場が完成した。震災からの復興を象徴する出来事であった。その杮落し公演の前に、東をどりのリサイタルのようなものが再建した吾妻屋で開かれることになった。吾妻屋の大広間に、文士、演劇関係者や各界の名士が招待された。そこでは晴恵も藤間から習った踊りを披露していた。
晴恵は訪ねてきた恒雄を見つけるとはしゃいだ。
「先生、見てくれた?」
「ああ、すごく綺麗だった。」
 晴恵は頬を赤らめていたのだが、白粉の強烈な白で、恒雄には伝わらなかった。
「お父さんに見せたかった。誰よりも、私の芸が上達するのを喜んでくれていたのに...」
 少ししんみりしてしまったが、恒雄は別の事を考えていた。今は、彼女を誰よりも愛おしいと感じていたのだった。
 
 東をどりをヘンリーは見ながら、改めて日本の文化に関心していた。自分たちの欧州のバレエやオペラの文化に全く引けを取らない、それどころか、その衣装の美しさと踊りの優雅さでは欧州のオペラやバレエを凌駕しているのではないかとさえ思った。
 仕切りに頷きながら唄や踊りを見ていると、隣の品の良い日本人の老夫婦が嬉しそうに日本語で話しかけてきた。
「日本の文化がお好きなのですか?」
 この質問には何の躊躇いも無く日本語でこう答えた。
「ユウイツムニです。」
 老夫婦はそれはそれは喜んで、虎屋かどこかの、高級そうな羊羹を差し出してくれたので、ヘンリーはこれも遠慮することなくいただいた。
「ゴチソウになります。」
 そのような微笑ましい日本人との交流も束の間、踊りの合間にジョージが突然、今の外から合図し、ヘンリーを廊下に連れ出した。次の踊りが始まりそうなのに、とヘンリーはやれやれと言う顔をしてジョージと一緒に廊下に出た。
「ヘンリー、大変だ。大変なものを見つけたのだ。」
 ジョージの背後で、長唄の音が聞こえてくる。
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