第12話 再出発

文字数 10,054文字

 晴雄は獄の中で何度も眠れない夜を過ごした。また、何度も悪い夢を見た。
 霧のかかった山を一人登る。霧が晴れてきた時、岩の合間に金が見えた。晴雄は金を掴もうとして岩の合間から手を伸ばした。しかし届かない。体を(よじ)り、手をさらに奥まで伸ばした。手を伸ばせば届くはずのところに金があるにもかかわらず、手を伸ばしても金の感触を得られない。
 こんな夢を見た日は朝から気分が憂鬱だ。外の気配を伺うと、雨が降っているのに気付いた。そういえば、外は何日も雨が続いていたことを思い出した。かろうじて明かりの入ってくる小窓の外にかすかな雨だれの音がずっと聞こえていたのだ。時折、雨漏りなのか、かすかに水の感触があった。
 晴雄は孤独を苦手としてはいなかったが、このような冬の雨の日々は寒さと外の暗さが身に堪え、逮捕されてから二年半もの間、罪人として閉じ込められていることの実感を嫌がおうにも感じざるを得なかった。 突然、戸を開く音がして看守が入ってきた。
「おい、仮出獄だ。」
 晴雄が唖然としていると看守は続けた。
「『情状詳細(しょうさい)』の上申が認められた。身受け人は旅館経営者だということだ。」
 看守がやや下品な笑みを見せたことの意味は晴雄にはわからず、また、情状詳細など身に覚えも無かった。
「身受け人が既に面会に来ている。出獄の手続きが済むまで、身受け人と面会室に居ろ。」
  身受け人とは、当然に東京にいる父か母だろうと思っていた。しかし、収監されている晴雄を訪ねてきたのは若い女だった。格子の向こうに見える女性は、ひさしに造花のついた帽子を目深にかぶっており、最初、顔は良くは見えなかった。白い肌が覗いて見え、清楚な感じだった。
 この頃は女性が和装に戻りつつあった時で、洋装は少し廃れつつあったのに、彼女は洋風のコートを着ていた。コートを脱ぐとその下に肩の膨らんだ白いワンピースを着ていて、どこかの令嬢のようにも見えた。
 晴雄は最初、何かの間違いだと思っていた。獄に入ってまだ二年半、刑期を終えるまでにはまだ半年、さらに監視期間が半年あった。ましてや、自分を身受けする若い女性というのは想像もつかなかった。
 娑婆(しゃば)にいた時も、特に女性との交流が多かった方ではなく、知っているのは花柳界の女性くらいだった。銀山投資のために日秘鉱業株式会社を立ち上げた頃、烏森の料亭に出入りをしていたのと、秋田の鉱山にいた頃、宴会で何回か町の料亭で芸妓を呼んだことがあったくらいである。誰だろうと思いを巡らせていた時、その女性が自分の前に進んできて、間近で顔を見て、晴雄はやっと思い出した。
「お吟か...」
「久しぶりですね。」
 新橋の停車場でお吟が晴雄を見送ってから、もう三年以上会っていなかった。このような形の再会になるとは想像もできなかったし、正直、今は自分の身に降りかかったことに忙しく、お吟の事を思い出すことはほとんどなかったのだ。 お吟に見送られた時も、晴雄は確かにかすかな甘い思いを感じはしたが、その後の縁のことなどは全く想像もできなかった。
「惨めなもんだろ。」
 晴雄はお吟と格子で隔てられた向こう側で、ふてくされた顔を隠そうともしなかった。
「なにが惨めなものですか。近頃の大官紳商なんて、みんな一度は監獄に入っているじゃないですか。」お吟は笑い転げんばかりに大笑いした。「晴雄さんも(はく)が付いたようなものですよ。」
 晴雄は外国人が良くするように、軽く肩をすくめて見せた。
「本当はもっと早くに会いにくるつもりだったのですけど、裁判も続いていて、中々、面会の許可も降りなかったですし...」
 お吟が面会に来たがっているということは、全く思いもよらなかった。
「僕は、君はもうとっくに誰かに落籍(ひか)れて、お偉いさんのお妾さんか何かになっていると思ってたよ。」
「少しはあたしの事を気にしていてくれたんですねえ...」
 お吟は少し悪戯っぽい表情で晴雄の顔を覗き込んだので、晴雄は少し怯んで目を逸らした。「あたしはねえ、お偉いさんの妾になるとか、そんなことには興味がないんですよ。前にも言わなかったかしら。」
 覚えている。自分で商売をやりたいと言っていた。
「あたしは自分で自分の道を進みたいのです。」
「その時も思ったけど、凄いことを考えているよね。でも、女が一人生きてくのは大変だろ。」「一人じゃないわ。もうその準備は済んだの。」
 晴雄には何のことか分からなかったが、そう言えば、お吟が自分の身受け人というのはどういう意味なのだろうと不思議に思った。
 お吟は、晴雄に説明した。芸者屋の経営をお義母さんから引き継いで、吾妻屋の屋号をそのままとしながら、芸者屋稼業はやめて、烏森(からすもり)で旅館を始めるということを。
 既に宿屋の建物は完成し、人を泊め始め、営業を開始したというのである。そして...
「旅館を一緒にやっていく人とは晴雄さんのことですよ。」
 お吟は、おそらく晴雄がこれまで見てきたどんな女性の笑顔よりも、最高に悪戯な、それでいてとても抗しがたい魅惑を持った、そんな笑顔を晴雄に見せた。晴雄は自分がまだ獄の中にいるということを忘れるほどだった。
 もちろん、驚いた。晴雄は心底驚いていた。これ以上に寝耳に水な事など無いようなものだ。第一、旅館の事など自分は何も知らない。
「僕には旅館経営なんかできないよ。」
 晴雄が言うと、お吟は笑いながら何やらバッグから一枚の紙きれを取り出した。
「ね、見てみて。仮出獄情状詳細の上申書に書いたの。貴方はあたしと所帯を持って、旅館経営にあたるって。それが仮出獄の条件なの!」 

 宮城集治監を出る時、晴雄はパノプティコンをしみじみと眺めた。監獄の門にいた看守は、何かを晴雄に話しかけていたが無視して、足早にその場を去った。逮捕され収監されたことも現実の事のように思われなかったが、今、仮出獄で監獄の外にいることもまるで実感が無かった。
 その後、乗合馬車で日本鉄道奥州線の仙臺(せんだい)の駅まで出たが、瓦屋根の平屋風の駅舎が目に飛び込んできた。極めて日本的な建物風景であったにもかかわらず、晴雄はリマのモンセラーテ駅の石作りの駅舎を思い出した。
 元々口数の少ない晴雄であったが、駅舎を眺めながら黙りこくる晴雄を見て、お吟は気持ちを察して特に話しかけなかった。

 夜行列車の出発までまだ時間があったので、駅舎の中の食堂で軽く食事を済ますと、また待合室に行き、列車の出発を待った。晴雄はお吟に起こされるまで眠りこけた。夢を見ていた。秘露(ペルー)の中央鉄道に乗ってカラワクラに向かう夢を。
 夜行列車に乗ると、晴雄は逆に寝なかった。時折、横で窮屈な姿勢のまま眠りこけているお吟を見やりながら、ずっと考え事をしていた。
(この女性と旅館稼業などやって行けるものだろうか。)
 暗闇を走り抜ける汽車に揺られている自分は、この暗闇から抜け出せないのではないか、とずっと考えていた。夜通し起きていたが、さすがに夜が明け始めるころ、うとうとし始めた。
「上野に着いたわ。」
 お吟に起こされて、蒸気で燻る中、駅に降りた。お吟がポーターを呼び、荷物を駅舎の外の鉄道馬車の乗り場まで運ばせた。その鉄道馬車で烏森(からすもり)まで出たが、お吟は人夫に荷物を吾妻屋に運ぶように指示した。
「ああ、旅館の名前は言ったわよね?吾妻屋って言うの。あたしが居た芸者屋の屋号をそのままもらったの。」
 晴雄はこのまま吾妻屋に行くのだと思っていたが、お吟は人力車を呼んだ。
「まず、三田のお義父さん、お義母さんを安心させないとならないわね。」
 三田小山の近く、新門前町の古川沿いに田島の家はあった。晴雄は久しぶりに嗅いだ新橋界隈の潮の匂いが懐かしかったが、すぐに、二人は新門前町まで人力車に乗って行った。
 晴雄は、新橋、烏森(からすもり)、愛宕山そして麻布界隈までの景色を人力車から見て懐かしさを感じたが、三年半の間とは言え、ずいぶんと街の街路樹などが整備され、綺麗になっていることに驚いた。

 晴雄とお吟が家に着くと、田島の両親が涙を流して喜んだ。
「さあ上がって。お吟さんも上がって頂戴。今朝、上野に着いたのかい?疲れたでしょう。私は、一日も早く監獄から出してもらえるように、そこの鎮守の森に毎日のようにお参りしてたんだよ。」
 年老いた母の涙は晴雄にはすっかりこたえた。晴雄はまずは頭を畳につけて、両親に心配をかけたことを詫びた。晴雄の両親は息子にどこまでも優しくしていた。大学を出て理学士となった自慢の息子であったが、秘露(ペルー)の事件に巻き込まれた事に心を痛めてきた。今はただもう、無事に東京の家に戻って来た事を喜んでいた。
 お吟は、いつ用意したのか、鬱金(うこん)木綿の中から仙臺土産だという黒かりんとうを出した。
「向こうでは子供の菓子らしいのですが、お口に合いますでしょうか。」
 お吟はそう言ってから立ち上がって勝手の方に行き、両親と晴雄のためにお茶を淹れてきて出した。お吟は晴雄の家ですっかり嫁のように振る舞っていた。晴雄の父と母をねぎらい、また、仙臺(せんだい)での様子を言って聞かせていた。
「そんなところに閉じ込められて、さぞかし寒かったろう。」
 晴雄の母がまた涙ぐんだ。お吟はハンカチを出すと母親に差し出した。晴雄には不思議な事にも思われたが、お吟は田島の家の嫁として、既に認知されている様子だった。
  両親の家で数時間過ごして、晴雄は新しい生活のために烏森(からすもり)に行くと両親に告げた。
「本当にありがたい。毎日、お宮参りして祈ってた甲斐がありましたよ。」
 母はまた涙ぐんで、父も寂しげではあったが、晴雄が無事、出獄出来て、こうして新しい生活に踏み出せたことに満足しているようでもあった。

 玄関先を出る別れ際に、晴雄の両親はまるで、自分の家が嫁を出すかのようにお吟に頭を下げた。
「息子をどうか、よろしくお願いします。」
 お吟が微笑みながら頭を下げた。晴雄は、両親に再び、頭を下げ、二人は新門前町の家を後にした。
「あなた、実家に泊っていらしたら良かったのに。」
 お吟は晴雄を気遣ったが、晴雄にはその日両親の家には泊まらずに烏森(からすもり)の吾妻屋へ行くことが正しい事のようにと思われた。
「荷物はもう、吾妻屋に置いてきて身軽だし、烏森(からすもり)まで歩きましょうか。」
 二人は古川に沿って歩き始めた。晴雄は、子供の頃、この古川で上ってくる(ぼら)を採って遊んでいたことを思い出した。その頃はどんな大人になると思っていただろうか。少なくとも獄に繋がれるとは思っていなかったし、このような形で妻を()るとも全く考えていなかったことだけは間違いなかった。
 赤羽橋のところを左に折れ、冬で落葉樹が葉を落としているとは言え、昼なお暗い増上寺の裏手を歩き進んだ。
「もう少し、ご両親の家でゆっくりなさったら良かったのに。」
 柳橋と違って新橋や烏森の芸妓は、元々言葉遣いは丁寧だった。しかし、江戸っ子であるお吟は言葉にもう少しキレがあったのを覚えている。
 気のせいか、お吟の言葉遣いが山の手風の、良い家の亭主に話をするような丁寧な言葉遣いに変わったことに、晴雄は正直、違和感を覚えた。ただおそらく、お吟は新しい生活に踏み出す覚悟を晴雄に示したかったのだろうと理解していた。
  吾妻屋は烏森(からすもり)の壱番町にあった。烏森(からすもり)神社のすぐ近くにあり、十寸ほど積み上げた煉瓦の土台の上に黒い板が張り巡らせていて、昔の旗本の屋敷のように壮観だった。
 表から見ると、横長に見える二階建ての建物の真ん中が玄関であり、左右が対象になっていたが、左右それぞれに奥の建物があって、コの字型になっていた。そのコの字の内側は中庭になっており、いくつかの松の木の間に飛び石の小道があった。その松の木を囲むように何本かの吾亦紅(われもこう)と三俣が植わっっており、その左奥にも庭があって、桜の木が植えられていた。右奥が従業員とそしてお吟と晴雄が住む住居棟になっていた。
「ここで生活が始まることとなるのか。」
 晴雄はおよそ考えても見なかった結婚生活の始まりを前にして、その実際の新居を目の当たりにしたのだが、まるで現実の事と思えなかった。
 晴雄とお吟は生活棟の、つまり今後二人の新居となる建物の中の六畳くらいの部屋に上がった。お吟に寛ぐように急かされ、晴雄は畳の上に胡坐(あぐら)をかいて座った。お吟は茶箪笥(ちゃだんす)の下から一升瓶を取り出し、栓を開けた。この日のために買っておいたものの様だ。
 徳利(とっくり)に移してから、冷のまま一杯だけ晴雄の猪口(ちょこ)に注いだ。晴雄は酒を一口飲むと、ふてくされたように寝転んだ。そのまま、天井を見て考え事をし、目を瞑った。
 お吟は気にするでもなく正座したまま、晴雄のことを黙って見つめていた。晴雄はふと目を開け、天井を見遣ったまま疑問をぶつけた。
「君みたいな烏森(からすもり)の一流芸妓がなんで僕なんかと一緒になる?政界などの大物を旦那にすることに興味が無いからと言って、自分で商売をするにしても、後援してくれる人間の羽振りが良い方が何かと都合が良いだろうに。」
 お吟は尋ねられるのを待ってたように淀みなく答えた。
「そんな誰かに頼る生き方が楽しいのでしょうか。あたしは元々、そんなに金にも困って無かったし、芸妓をしていても誰かの丸抱えになったこともなかったわ。『分け』と言ってね、あたしは芸妓の稼ぎの半分は自分のものにしていたのです。だから、ちょっとばかりの蓄えも出来ましたし、吾妻屋には養子で行ったのだけど、あたしのお母さんは何人かの芸妓を一気に落籍(ひか)せて潤ったりしていたので、面倒を見る必要もないのです。」そう言ってお吟は晴雄に二杯目をお酌した。「だから、あたしは旦那を探す必要は無かったのです。それよりも、一緒に悩み、考え、行動して行く人をずっと探していたのです。貴方は笑うかも知れませんけど、あたしは貴方にその運命を感じたのです。」
「僕は理学士で鉱山の事は解るが、商売、ましてや旅館の事なんて何もわからんよ。」
「何仰ってるの?秘露(ペルー)の銀山の件で会社を起こしたじゃないですか。十分、事業の事は学んでらっしゃるはずですよ。それに商売となるといろいろ頭を使うでしょうから、学問は邪魔になりませんよ。晴雄さんは学があるから必ず力になってもらえる、そう信じていますし、あたしの見立てはそんなに間違っていないはずですよ。」
 お吟にそう言われても、まだそれほど納得がいっていなかった。
「失敗した話じゃないか。商売が良くわかっていない証拠だよ。」
 晴雄のどんな否定的な言い方にもお吟は全く怯むことはなく、それを打ち消す言葉を持っていた。
「それを経験なさったのでしょ?あれだけ大きな失敗して、世間に騒がれて、獄にも入れられたようなお方は同じ失敗はしないはずでしょう。」
 お吟は微笑んで付け加えた。
「あたしはね、貴方に最初に会った時から、学があって夢を持って事業をしている貴方が眩しくて、他の殿方とは違うものを感じました。若い男の方で、夢を語る人は多いかも知れませんが、実際にそのための行動している人には滅多にお目にかかれませんよ。」ここでお吟は笑いながら白状した。「だから、あたしは晴雄さんにあそこから早く出てきてほしくて、田島の家のお義父さんとお義母さんにも勝手に挨拶してきちゃいました。晴雄さんとは、将来を約束して契りを交わしたのです。あたしは何があっても晴雄さんを見捨てませんし、一緒に烏森(からすもり)で旅館をやって生計を立てますから、あたしが仙臺(せんだい)まで行って身受けしてきますから、どうか晴雄さんと一緒にさせてくださいって。」
 晴雄は目を丸くして驚いた。
「ご両親は、それはそれはもうお喜びになって、こんな事件があって、息子は今や罪人になってしまったのに添い遂げていただけるなんて、うちの晴雄は果報者です、って。」
 お吟の笑いは一段と大きくなって、止まりそうもなくなった。
 晴雄はその後も注がれるまま何杯か酒を飲んだので、疲れが一気に出てくる気がした。
「ところで明日は時間ありますか?一緒に行きたいと思うところがあるのですけど。」
 お吟の提案に適当に相槌を打ちながら、晴雄は疲れてうとうとしてきたので、その日はそのまま寝てしまった。
  翌日、お吟は晴雄を浅草に連れ出した。晴雄にとっても浅草はずいぶんと久しぶりで、大学に行っていた時以来だから、もう十年ちかくは来てなかったはずだ。
「ねえ、あそこに登りましょう。」
 お吟は、浅草寺の脇の塔のようなものを指さした。
「そうか、貴方は知らなかったのですね。あの塔は稜雲閣と言って、貴方が仙臺(せんだい)に行っている間に出来たましたのよ。」
 晴雄は(そび)え立つ稜雲閣をしばし、唖然として眺めた。
「他に特にどこかに行きたいところはありますでしょうか。特に、行きたいところが無いのであれば、とにかく登りましょう。」
 浅草寺の側が公園になっていて、その中にある稜雲閣は十二階建ての、日本で一番高い建物だった。
「とにかく、一番上に行きましょう。」
 お吟はそう言って、晴雄の手を引いた。女性に手を引かれるなどということに慣れていないだけでなく、人前でそのようなことをする者たちがいない中で、とにかく落ち着かず、思わず回りを見渡してしまった。
 稜雲閣の下の入り口のところまで行くと、エレベーターは壊れているとのことだった。仕方がないので、階段を上らなくてはならなかったが、浅草十二階と呼ばれる建物の階段を登っていくのは結構しんどいことだった。晴雄は秘露(ペルー)の山を登った時のことをまた思い出した。「やっと四階か」
 あとまだ八階も登らないと一番上には行けない。やれやれ、かなり面倒くさいなと思い始めた時に、女性の写真が並べてあることに気付いた。派手に着飾った女性の写真が何枚も、いや四階から七階まで百人の美人の写真が続いて、かなりの壮観であった。
 階段をゆっくり登りながら眺めていると、晴雄はその中にお吟の写真があることに気付いた。「これは...君か?」
 お吟は黙って頷いたが、その沈黙ははにかみによって打ち消されていた。そのはにかみは、半玉の雛妓(おしゃく)として待合に呼ばれて来て、晴雄が初めてお吟に会った時に見せたものと同じであった。
 晴雄はうまくは言えないが、今回の仮出獄の時の面会では、お吟がまるで何かを企んでいるかのように恐ろしくさえ思えたのだが、ここにいるお吟は、芸妓として成長し面立ちには子供らしさは消えたとは言え、まだ無垢な少女のような表情を見せるのであった。
 それと同時に、今のお吟はどこか自信に満ちている。自信というよりは覚悟と言うべきかも知れない。晴雄を監獄から外に出すために、自身にとっても晴雄にとっても、最善とも言うべき選択をした大人の女の覚悟を感じさせる、そういう表情も持ち合わせていた。
 しかし、紛れも無く、ここにいるお吟は、あの時、晴雄が秘露(ペルー)に旅立つ時に新橋に見送りに来た時のお吟と同じでもあるのだ。晴雄はその時にお吟に感じた甘い気持ちを思い出した。
「見晴らしがいいですわね。東京中、見渡せそうですわ。」
 冬の空気は澄んでおり、上野の山の常緑樹も深い緑の色を湛えていて、その木々と街の瓦(いらか)の景色は、太陽の光を反射し、見ているだけで、寒さを忘れるような暖かみを感じさせるほどだった。
「烏森はあっちの方でしょうか。」
 お吟は南の方角を指さしながら晴雄に尋ねたが、晴雄は考えごとをしていた。稜雲閣のこの塔から下界の平地を眺めながら。一旦は、塔に登りかけて、地面にたたきつけられた自分の事を。「晴雄さんのお義父さんとお義母さんから話はすっかり聞きました。なんで、晴雄さんだけが捕まって罪をかぶったのかを。」
 お吟の優しい声は耳に入っていたが、晴雄はまだ逡巡していた。お吟は魅力的だ。そうだからと言って、二人一緒になってやっていけるものだろうか。
「すごい高い塔ですよね。ここから下を見ていると、なんかみんながちっぽけな存在に見えるわ。そして塔の上にいつもいる人はどういう気分になるのかしらね。」
 無邪気に見えるお吟も実はちゃんと理解している。この塔は、維新の後に築き上げられつつある新しい権力と階級の象徴のようなものだ。まだ階段を登れば、誰でも上がってくることができるかもしれない。しかし、そのうち、この塔への階段は再び閉じられることになるのだろう。
 実際、晴雄は塔に登ろうとして、寸での所で下に蹴落とされた。晴雄のような地面に這いつくばる人間には、二度と上に上がる機会は与えられないかもしれないのだ。
「晴雄さんはねえ、ちょっと運がわるかっただけですよ。」
 晴雄は黙って考え事を続けていたが、お吟は気にしていないようだった。
「あたしも芸妓をやってきて、まだこんな歳なのにいろんな人に会いましたよ。花柳界にいればね、嫌な人にもお酌をしなくちゃならないこともありましたけどね。でもね、そこで学んだのは、人間万事塞翁が馬ということかしら。結局、誰でも良い時もあれば悪い時もある。花柳界に集まる人たちはとりわけ浮き沈みが激しいのかも知れない。あたしはだから、人を当てにはしないのです。頼りにできる人もまた沈んでいくのはいつもの事。それよりも自分の力で生きていくことが何よりも大切だと思うようになったのです。」
 先ほどのはにかんだ顔とは違い、再び、確信的な意思を感じる顔に戻った。
「そうは行っても、絶対、誰にも頼らないというのは無理な話ですから、晴雄さんには知恵を貸してほしいのです。あたしは晴雄さんを必要としています。一緒に生きて、歩んで欲しいのです。」
 お吟が眩しかった。やはり、お吟は昔のお吟とは違う。人生を踏み出そうとしている。賭けている。自分がかつてそうだったように、夢を持っている。
 晴雄は獄を出てきたばかりで、とてもそこまで色々考えることはできないでいた。しかし、お吟のお膳立てに乗って、こうして外の空気を吸っている。自分にお吟と同じ夢を見ることができるのか。

  階段を下りていく途中に再び、百美人を眺める。お吟は何やらにやにやしている。おそらく、お吟は晴雄の気を引くために今日ここに晴雄を連れ出したのだろう。少しばかり、百美人の中の自分の写真を自慢して、晴雄にそういう自分と人生を歩むことの価値を気づかせたかったのだろう。同時に、お吟は芸妓としての自分に区切りをつけようとしているのかもしれない。
  下に降りて、浅草寺の前の店で御手洗団子を買い、店先の椅子に腰かけながら二人で食べた。周りでは、子供たちが鳩を追いかけようとして、追い払っていた。お吟は話を続けた。今日は良く話す。
「良い事を一つ教えて差し上げるわ。晴雄さん達が烏森(からすもり)の待合で秘露(ペルー)のことを話し合っていたように、今や、政治もね、商売もね、みんな新橋や烏森の花柳界に集まって来ているのです。いわば日本の中心なんです、新橋界隈は。みんな、そこで話を決めて、世の中を動かしているのです。だから、烏森(からすもり)の花柳界の真っただ中で旅館をやるのは、とてつもない機会が広がっているのです。」
 晴雄は自分だけが不遇を(かこ)つのに納得がいかないでいた。それでも、生きる糧を得ることを考えて行かなくてはならないとするなら、花柳界の真っただ中にある旅館をやっていくのも悪くはないのかも知れないと考えるようになった。鞄から取り出して、パン粉のような、菓子の欠片を鳩にばら撒いている、無邪気なお吟が眩しく、自分も決心しなくてはいけないような気がして来た。
「一方的に君の世話になる気はないよ。」
「わかってます。貴方はそういう人じゃないですもの。晴雄さんはみんなに必要とされる人になりますわ。秘露(ペルー)の時はあたしは連れて行ってもらえませんでしたけど、今度は、二人で大きな夢を見みましょうよ。今度こそ、あたしと一緒に。」
「君がなぜ、ここに連れてきたのか少しわかった気がする。僕にまた濃紅銀鉱(ルビーシルバー)の夢を見させようというのだね。ここから見える東京の街を二人で征服しようというだね。」
 お吟は、いつもの大笑いをして答えた。
「話が大きくなりましたね。安心しました。あたしが秘露(ペルー)の銀の代わりにはなるなんて思ってはいないけど、ここから見える景色は、あたしがいて貴方がいるのなら、そう捨てたものではない、という事を見てもらいたかったのです。あたしはうんと働きます。そして、今度こそ、二人だけのルビー・シルバーを手に入れましょう。」
 青空を見ながらお吟が言った言葉に、晴雄も心が決まった。この女とやり直すのだ。晴雄が三十二、お吟が二十二の時だった。そして、自分の新たな家に帰り、その夜、二人は本当の夫婦となったのだ。
  お吟が一つだけ加えた。
「ところで、あたしの本名ってお教えしたことありましたっけ?マサというの。覚えていていただけると嬉しいわ。」マサは、おどける様に微笑んだ。マサは、もう一つ付け加えた。「ところで、是清さん、また鉱山投資で失敗したらしいわよ。」

第一部 完
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