第23話 お妻の逡巡

文字数 3,522文字

 晴雄はお妻がマサと何を話していたか知らないが、翌日、今度は、夜呼び出された。晴雄は戸惑ったが、逆に夜出かけるのは気晴らしになるし、また他の旦那衆と街へ繰り出したとでも思ってもらえるだろう。そう思って出かけた。いつもの烏森のカフェーに行ってみると、お妻はいつもよりもさらに表情が(やつ)れているようだった。
 もうそこには、あの華やかで艶のあるお妻はいなかった。もはや表情は老婆の様であり、生気が無かった。それでも何かを言いたげなのはわかったが、お妻も適切な言葉を探しているだけで、言葉は出口の所で迷い、行き所を見失っていた。
 気晴らしの心算で、お妻を店の外に連れ出した。烏森から歩いて、この頃、銀座と呼ぶ方が通りが良くなった新橋北地のビアホールまで歩いた。霧雨が降り出したが、二人とも傘も持たなかった。お妻の銀杏(いちょう)返しが微かに濡れて、ガス灯に照らされて光っていた。
「今日は朝まで付き合ってくださる?」
 そこだけ切り取れば、かなり婀娜っぽい言葉だ。お妻の話し方は、以前とはだいぶ違ってかなりしっとりした感じではあった。お妻は江戸っ子ではないが、江戸っ子芸者に囲まれた生活をする中で、江戸っ子弁のようなしゃべり方をするようになっていたはずだ。しかし、今の今日のお妻の話す調子はもう少し品の良い、山の手言葉のようでもあった。事情を知らない者が聞けば官能的に聞こえたであろう。しかし、多少なりともその言葉が出てきた背景を想像出来る者には、とても甘い誘惑のようには聞こえなかったのだ。

 ビアホールではビールで腹が膨れる一方なので、どちらからともなくバーに行こうと言い、二人は店を出て銀座の通りをさらに京橋の方まで歩いた。さっきからの雨は心なしか強くなった気がするが、ガス灯のせいでまるで粉雪のように見えた。
 明かりに照らされて見えるお妻の肌は、よく見ると荒れていた。化粧が崩れていたのかも知れないが、それを気にしない程度にお妻の心が荒んでいるように見えた。
 二人は京橋に近いビルディングの上にあるバーラウンジに入り、テーブル席に着いた。お妻は、この頃流行りだしたジェットのミントリキュールを注文し、晴雄はマティーニを頼んだ。給仕が酒を運んでくるまで、二人は無言だった。
 お妻はさっきから何かを言いたげであるようにも見えた。実際、躊躇いがちに途切れ途切れの言葉を繰り出したりもした。
「あのね...吾妻屋に泊まっている外人さんで...」
 そう言ってまたお妻は黙ってしまった。そして、また思い出したように意図のわからない言葉を発した。
「外国人の記者さん達なんだけど...」
 晴雄が話を聞き取ろうとして身構えても、お妻はまたしばらく黙ってしまうのだった。その後どのくらい沈黙が続いたかわからなかったが、その静寂を破ったのは、晴雄が今まで経験したことのない、そこだけを切り抜いて見れば、とてもロマンティックな言葉だった。
「ねえ、二人でどっかに行ってしまわない?」
 投げやりな言い方が、何か救いを求めていることくらい、晴雄にだってわかった。
「どうしたって言うんだい?」
 詳しい事情を聞き出すのに最適な言葉ではないこともわかってはいたが、他に聞きようも無かった。お妻は何かを話したそうでも有り、何も言いたくなさそうでもあった。静寂の中であおる酒は、苦く重い空気を反映して酔いを酷くする。どれだけ飲んだのかはわからなくなっていたが、晴雄は苦痛を感じていたわけではなかった。ただ、二人ともかなり酔った。
 気が付くと朝だった。晴雄はどこか知らない家にいることに気付いた。お妻は近くには見えなかったが、台所と思われる部屋方から物音が聞こえた。一瞬で事態を呑み込み、さすがに帰ろうとしたとき、化粧をすっかり落として、一家の主婦のような割烹着姿のお妻が食事を運んできた。この興ざめはなぜかとても心地の良いものに感じられた。
「おはよう。まあ、簡単なものしかないけど、食べて行ってよ。」
 昨夜の印隠滅滅としたお妻の様子とは一変して、表情は明るく、なぜだか幸福感に満ちていた。少なくとも、心配する事は無いかと思い、あまり長居することが得策とも思えず、朝食を断ろうとして立ち上がったが、話があるとのことで、再び腰を降ろした。
「見せたいものがあるのよ。まあ、食べてて。」
 それほど食欲もなく、何とはなしに味噌汁をかき回していると、お妻が箪笥から包み紙を取り出した。それを開けて、晴雄は少し驚いた。「少し」というのはその物に見慣れているからというであって、この場でそのような物を見るとは思いもよらず、その意味では、ひどく驚いたのだった。銃だった。
「一体全体、どうして君がこのような物を持っているんだい?」
 そう尋ねるのが自然であり、精一杯だった。
「拾ったのよ。」お妻はそういって、けらけら笑っていた。
「もちろん、冗談...だよね?」
「これを持っていると、なんか自信が付いたような気がするのよ。」
 銃身を撫でながら恍惚とした表情でそう話すお妻の表情からは、まるで狂人が彼女の頭脳の中に入り込んで支配しているかのようであった。昨夜から気分転換などでは無い。異常な陽気さは、薬か何かによって、狂気を呼び寄せてしまったとしか思えないものであった。
「嘘、本当は死のうと思って、買ったのよ。」
 一転して、陽から陰へと、まるで絶壁を一気に飛び降りたように、その場の雰囲気を全て変えてしまった。晴雄がお妻の顔を覗き込んでも、死相は出ていないように思えた。しかし、晴雄は昨夜の様子を思い出し、心に引っかかった。
「本当はあの人たちから渡されたの。」
 晴雄にはあの人たちが誰を指しているのか正確なところはわからなかったが、思い当たるのはポーツマスの時に暴れていた連中の一派だろうと想像した。
「これで、是清さんを殺すそうよ。」
(馬鹿な...)
 晴雄の頭は混乱に次ぐ混乱で疲弊しきったが、朧気にお妻を取り巻く「環境」が見えてきた。なぜ、お妻が狂気に支配されているのかも。連中はお妻を利用するだけ利用してきた。お妻を通じて待合での政治家の会合や、芸者達との醜聞を聞き出し、政治家連中を意のままに操ろうとした。それに疲れたお妻が逃げ出そうとすると、おそろく薬を飲ませ、銃を持たし、直接、気に入らない政治家の殺害を嗾けているのではないか。晴雄の想像はそう外れてはいないはずだ。
「私はそんな事はどうでもいいの。ただ...」まるで晴雄の心の中を察したように反応しながら、まるで津波の前に潮が引くように、お妻の顔から驚くべき速さで精気が失われていくのが感じ取れた。だから、晴雄は思わず口にした。
「これは、僕が預かることにする。」
 少なくとも、銃をお妻が持っていることは二重の意味で危ない。自殺するかも知れないし、連中に対して本当に何かをしでかす可能性すらあると晴雄は考えたのだ。秘露の時も荒くれ者達から銃を取り上げたことがある。多少なりとも扱いの経験はあるのだが、お妻から取り上げた銃をどう扱うべきなのか確かな考えは無かった。
 そのモノを懐に入れ、周りを用心しながら、まだ雨の降る四谷の街を歩き、東京電気鉄道の路面電車に飛び乗った。日比谷で降りると、雨のそぼ降る中を烏森まで考えながら歩いた。その時には、朝帰りの言い訳のことなど、全く考えることなく、ただ銃をどうするかだけ考え続けていた。

 朝の八時過ぎに吾妻屋に着くと、仲居の一人が何事も無かったように迎えた。
「旦那様、お帰りなさいまし。」おそらく、旅館の主が夜通し遊び歩くなど、仲居にとっては珍しくもなんとも無いのだろう。「女将さんが、執務室でお待ちです。」
 そう言われて後ろめたさはあったが、顔を出さないわけには行かず、部屋に入った。
「ああ貴方、お帰りなさい。朝食は適当に済ませてください。今日は、十時から大広間で墨田紡績の取締役会が開かれます。その準備で大変で、昨日の経費の仕分けをお願いできますか?」
 昨日仕事をさぼっているので、断る余地はない。また、マサが部屋を出てくれることは好都合だった。取締役会の支度に部屋を出ると、懐をまさぐり、銃を確かめた。
(どこへ隠すか?)
 とりあえず、箪笥を少しずらし、その裏に銃を置き、箪笥を元に戻した。しかし偶然、マサはこれを見つけることになる。滅多に箪笥を動かすことは無くても、小銭や何やらを探すということはあり得ることなのだ。マサが銃を見つけたことには晴雄は気付かなかった。
 マサは不思議に思った。子供たちが風呂場で、濡れた手ぬぐいをはたいて音を立てることさえ、銃の音に似ているから不吉だとして、たしなめていた晴雄がなぜ銃を持っているのか?
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