第24話 蚕食

文字数 12,444文字

 ある昼下がり、玄関から晴雄を呼ぶ声がした。庭先で作業をしていた晴雄も手を止め、玄関の方を向いたが宿の仲居達が庭に面した廊下を玄関の方に歩いて行ったのが見えたので、応対を任せておこうと思ったその時、数人の男達がずかずかと庭に入り込んできた。
 男達のうちの一人は黒っぽいスリーピースのスーツを着込んでいたが、後の二人は羽織袴で、見た雰囲気は、やくざ者っぽい感じだった。
「何ですか?どこへ連れて行くんですか?」
 袴の男二人に両脇を抱えられ、まるで連行されるかの様で、不安が募り思わず聞いた。
「いいから、顔を貸してくれたまえ。」
 スーツの男が歩きながら答えた。晴雄は、そのまま浜の家に連れていかれた。
 まだ昼間なので宴席は開かれていないが、そこには頭山満とその取り巻きが屯していて、部屋では頭山がいつもの褞袍(どてら)姿のまま寝ころんでいた。その横では、光山が心配そうな顔をして正座していた。
 晴雄を連れてきたスーツの男が頭山の耳元で何かを告げた。
「わしは吾妻屋さんをお呼びした覚えはないぞ。」頭山がそう言っても、スーツの男は頭山の耳に何か吹き込んでいた。
 頭山は体を起こし、晴雄の方に向き直った。
「田島君、すまんかったな。こやつらが勝手に君の事を呼び出したんわ、ちょっと騒ぎがあってな。わしらの仲間では無いんだが、付き合いのある一派の連中がの、お妻を探しているとの事だがどこにいるか知らんかの?」
 客商売をしていて、方便としての嘘をつくくらいには口もうまくなった晴雄だが、核心を突かれて言葉が出なかった。頭山の目が光ったような気がした。
「知らんかのお。まあ仕方がなかろう。いや、なに、連中の話ではの。お妻は奴らの拳銃を持ち出したらしいんだ。危なかろう?警察も追っているらしいんだが、お妻の家はもぬけの殻じゃったらしくての。で、連中はどういうわけだが、田島君が行方を知っているはず、とこう言うんじゃ。田島君は、そりゃあ今や押しも押されぬ烏森の高級旅館の主じゃからの。元新橋一の芸者を囲っていたとしても不思議はあるまい、とこう邪推しているようじゃ。わしは、連中には、田島君はそんな奴じゃなか、と言ってあるんじゃがの。まあそれでも万が一という事もあるからの。田島君が何か知っておるんなら、そこにいる間崎という、そうスーツを着込んでいる奴に教えてやってくれんかの?」
 切迫した感じで、晴雄は冷たい汗が背中を伝わるのを感じた。晴雄は知らないという回答を首を振って示した。
「まあそうじゃろうな。なあ、間崎よ、聞いての通り、田島君は何も知らぬ。」
「しかし...」間崎は頭山の説明に納得が行かない様子だったが、頭山が窘めた。
「間崎よ、田島君は真面目な人だ。その田島君が何も知らぬというのであれば、本当に知らぬのじゃ。」
「間崎よ、勘違いするな。吾妻屋さんは...田島さんは、別にわしらの仲間じゃないとよ。そこの杉村なんか迷惑をかけて追い出されとるし、まあ杉村にしてもわしらの仲間もしたという覚えは無いんだがな。」頭山はそう言って杉村の方に冷たい笑いを見せたが、話を続けた。「強いて言えば、光山が多少、吾妻屋さんの仕事を手伝わせてもらったくらいじゃの。のう。」
 光山は苦笑いを返すだけだったが同意していた。
「そういうわけで、田島君、今日の事はすまなかった。悪く思わんでくれ。こやつらも、単にお妻の事を心配しているだけなのじゃ。拳銃なんか持ち出して、自死でもされたらあんまりじゃからの。そう言うと頭山は睨みつけるようにして晴雄の方を見た。」
 頭山がお妻の事を案じているのはあまりに白々しかったが、それで場が収まり、この場を離れられるならと思い、軽く頷いた。
「君がお妻と懇ろだったなどと邪推はしとらんが、万が一にもお妻から君の所に連絡が有ったら...そうじゃお吟は仲が良かったしのう...連絡が有ったらで良いんで、知らせてくれ。」
 そう言われて座を後にしようと、部屋を出ようとした晴雄の背中に言葉で一刺しすることを頭山は忘れなかった。
「万が一にも、お妻を匿ったりしたら、その時はこの連中を止める術が無いのでな...」

 その日を境にして、いや最初は関係があるとは思っていなかったのだが、風体の悪い連中による吾妻屋への嫌がらせが始まった。投石で窓ガラスが割られる事があった。決して頻繁というわけでは無い。何かの間違いかと思うような、忘れた頃合いを見計らって、異臭を放つ汚物が置かれたりした。
 極めつけは、宿泊客への嫌がらせであるが、晴雄自身が夜、宿の近所を歩いていると、いきなりこん棒のようなもので殴り掛かられた事もあった。咄嗟に身をかわすと、「こんちくしょう。」と言い放って逃げて行った。
 吾妻屋から出入りする客に対して、風体の悪い輩が絡み、因縁をつける。これだけならまだ良いが、具体的な暴力には閉口した。
 洋紙工場を作ったり、銀行の頭取になったり、また新聞日本の創設者に名を連ねるなど実業家としても知られ、イタリア公使を務めたこともある浅野長勲(ながこと)が私用で吾妻屋に宿泊していた。その浅野が用事で吾妻屋の玄関を出たすぐに、何者かが襲った。浅野は五人の暴漢にいきなり殴り掛かられたが、持っていた鞄などで身を守りながら、必死に抵抗したため、多少の打撲程度で済んだ。
「いやあ、五人くらいどうってことなかったんだが、わしも年だな。」
 浅野はそういうが、晴雄は諫めた。
「暴漢相手に無理をなさらないでください。大事なお体ですし、なんかあってからでは困ります。でも、本当にご迷惑をお掛けしました。先日来、どうも吾妻屋が気に入らなくて、嫌がらせをしてくる連中がいるのです。」
 その晴雄の説を浅野は否定した。
「あの暴漢は君の所の客を狙ったんじゃない。わしを狙ってやって来たんだ。」
「どういう事でしょうか?」
「あいつらはわしに文句があったのだろう。新聞日本が前よりも穏健になったことに腹を立ててるんだろう。以前から新聞社に嫌がらせが来ておった。わしは言ってるんだ。『もはや、言論の時代であり、普通選挙が議論されている世の中である。新聞に圧力を掛け、世論を誘導しようなどというのは、近代国家ではあってはならん。』とな。連中は、新聞日本が国権主義から穏健路線に論調を転換させた事が気に入らんらしい。確かにわしは今でも新聞日本の大株主だが、わしは日々の新聞の紙面に口出ししてはおらん。新聞がそういう方向で紙面を作っているのは、それは輿論を反映しているからじゃよ。もはや藩閥政治の時代じゃない。大正の世になって、世間は、大衆はデモクラシーを要求しているのじゃ。そういう世の中の流れを新聞というものに映し出されるのは当然じゃろう。連中はそれが気に入らんのじゃ。」

「そうそう、浅野候も襲われた事があったね。で、浅野長勲(ながこと)はその頃吾妻屋に宿泊していた三浦梧楼を訪ねてきたのか、本人は結婚式に出席するためと言っていたがよくわからないんだ。え、浅野長勲(ながこと)を知らない?ほら浅野侯爵家の当主で、貴族院議員もやった広島藩最後の藩主だった人だよ。十五銀行の頭取でもあって新聞日本にも出資したりしていたので、三浦とは昔からの盟友だ。その浅野を暴漢が襲ったんだ。そう、連中が左翼労働組合をリンチしたようにね、吾妻屋の玄関を出たところでさ。吾妻屋から出てきたところを狙われたんだから、人間違いでは無いだろう。問題は目的だよ。そこはまさか労働組合員に対しての暴力と同じはずは無い。噂では、右翼連中が国権主義から穏健路線に論調を転換させた新聞日本に不満を持っていたらしく、何度も大株主でもある浅野に新聞の路線の事で翻意を促そうとしたんだが、浅野は『もはや、言論の時代であり、普通選挙が議論されている世の中である。新聞に圧力を掛け、世論を誘導しようなどというのは、近代国家のすることではない。』って取り合わなかったらしい。新聞日本は立憲政友会寄りで、いわゆる保守リベラルだったから右翼とは反りが合わなかったのもある。で、右翼連中は浅野に逆恨みして、ずっと機会を伺っていたという事だね。新聞日本は社屋が火事になってもうとっくに廃刊になっていたんだが、浅野に天誅を加えるとして、吾妻屋を出てきたところを狙われたというわけだ。実は僕も似たような感じで襲われたんだよ。浅野候はそれは吾妻屋への攻撃ではなくて自分へのものだって言ってるんだね。新聞日本の社屋が火事になって廃刊になったのも、それもどうなんだろう。単なる事故?わからないよね。とにかく、連中の勢いは増していた。大正デモクラシーで、確かに日本には自由な雰囲気が芽生え始めていた。いろんな意見が闊達に議論されていたし、良い方向に進んでいると思たんだけど、連中は気に食わないよね、そりゃ。それで、世の中全体のデモクラシーの雰囲気とは逆に、あの頃の烏森は殺伐とし始めていた。連中は勢い付いていて、とにかく自分達の意に沿わない者達に片っ端から天誅を加えたというわけだ。その中には僕も含まれるけどね。」ヘンリーはそう言うと事も無げにウィンクした。

 ある日、吾妻屋の玄関先で風体の悪い輩が数名集まって何事か騒いでいた。どうやらヘンリーを出せと騒いでいるらしい。仲居に知らされて、晴雄は玄関先に出て行った。
「おお、吾妻屋、あの外人はどこへ行った?ヘンリーとかいう外人の記者だが...」
「ヘンリーさんは今日はこちらに来ておりませんよ。」
「嘘を付け、隠し立てすると承知せんぞ。」
「嘘では無いです。彼は記者ですから、いつも東京中飛び回っていますよ。宿泊となっている時でも部屋にいない日が多いくらいですから。」
 輩たちは顔を見合わせて、粗暴な風体に似合わず、小声で何やら話し合っていた。一人の男が向き直って晴雄に尋ねた。
「おい、奴が来たら連絡をもらえるか?」
「いえ、それはちょっと。お客様のプライバシーに関わることですので。メッセージならお預かりしますが...」
「ぷらバス?なんじゃそりゃ?メッセージだと?」そう言った男の背後から別の男が耳打ちした。「言伝(ことづて)の事だと思いますよ...」
「なんじゃ、言伝か。そうならそうと言え。外人の言葉なんか使いよって。おい...」男はそう言うと家来のような男に髪と紙とペンを出させ、その家来をかがませ鞄をデスクのようにして抱かせた。男は家来が取り出した万年筆で何やら書き始めたが、よく見るとウォーターマンの万年筆だった。国粋主義者が硯と毛筆ではなく、舶来の万年筆でいきり立ちながら、「言伝」を書きなぐっている姿に晴雄は少し吹き出しそうになっていたが、必死に堪えた。
 言伝を受け取り、輩たちを見送ると晴雄は奥の部屋へ急ぎ足で向かった。当然、そこにはヘンリーがいた。
「あいすみません。助かります。」ヘンリーは非常に(にこ)やかにお礼を言った。
「それにしても一体どうしたって言うんです?」
 ヘンリーは照れ笑いのような笑みを口元に浮かべながら説明した。
「いえ、なに、日本の政治がいかに暴力に支配されているについての記事を横浜で出している英字新聞で書いたんですよ。ポーツマスの事件で露見したように、日本の右翼政治活動家達が自らの主張を押し通すために暴力を駆使していると。僕はそのうちに、右翼活動家の頂点にいる頭山満への単独インタビューを実現させ、記事にしていきたいと考えているのですが、でも、ほんの少しだけ右翼活動家達による暴力による政治支配のさわりを書いただけで、この有様です。」

 明治四十四年(1911年)には、高橋是清はさらに日銀総裁に就任する大出世を成し遂げた。激動の明治も終わりが近づくにつれ、世の中の空気が変わり始めていた。ポーツマスの騒ぎも遠くなり、是清が南満州鉄道の権益をシフに売り渡すという噂もやっと誰も口にしなくなった頃、マサは、吾妻屋の具体的な改造に着手し始めた。改造と言っても、宿の改築も行うものの、長期滞在して巣食っている質の悪い政治家を追い出すため口実であり、伝統的な日本旅館から近代的なホテルに生まれ変わり、外国人旅行者やモダンを好む文人達の宿として生まれ変わろうとしていたのだ。
 当然、これが気に食わない連中もいた。晴雄は、早速、光山に浜の家に出向くよう呼び出された。浜の家へ行くと、当然のように頭山はいつもと同じ褞袍姿で横たわって居眠りをしていた。光山はいつものチャコールグレーのスリーピース姿で、困り果てた、という顔をしていて、晴雄を見つけると懇願してきた。
「田島さん、お忙しい所ご足労いただき、すみませんでした。いや、吾妻屋さんはこれから改装に入られるのですか?水臭いなあ。僕にも教えていただければ、改装中の代替旅館を用意できましたのに。僕もね、烏森の方はさすがに年季も入ってきましたし、利用者が増えたことから手狭になっていますから、田島さんも増改築をどう考えているのかとお尋ねしようかと思っていたところなんですよ。」
 光山は、商売上の良い情報も持ってくるし、上客も連れてきてくれるという点で、それなりに世話にはなっていた事はわかっていた。だからこれまで付き合ってきたのだが、しかし、さすがに宿の増改築など光山の専門外じゃないか、なぜそこまでお節介を焼くのか晴雄には理解できないところがあった。
「田島さん、どうです?将来、東海道線の起点が東京駅になることもあるので、京橋あたりに旅館を移転しませんか?」
 光山は以前もそんな事を言っていたような気がした。晴雄は、単なる世間話だと思っていたのだ。
「いいえ、そんな事は全然考えてはいませんよ。烏森も便利な地ですし、霞が関や永田町も近いですからね。東京駅からだと歩くには少し遠いですけれど...」
「そうですか。いや、最近耳にはさんだんですがね。京橋の南鞘町(みなみさやちょう)で纏まった土地が売りに出ていて、吾妻屋さんなら資金もあるだろうからどうかなと思いましてね。」
 吾妻屋自体の改築をしているというのに、さらに投資をする余裕などないと考えた晴雄に光山はたたみかけた。
「まあ考えて下さいよ。ただ、東京の一等地の纏まった土地を購入できる資金を用意できる人は限られるでしょうが、新しく東京の中心になる場所ですからね。狙っている人は多いと思いますよ。」

 浜の家を後にしながら、晴雄は少し考えてみた。烏森での旅館経営は順調だ。東京駅が東海道の起点になったとしても地の利が極端に悪くなるわけではない。ただ、好き勝手をしている政治家とその取り巻きによって、高級旅館としての宿の評判が低下しているのは否めなかった。マサが取り組んでいる吾妻屋の「改装」と並行して、京橋に新たな旅館を出すのは悪くはないのではないか。京橋の方に新しい高級な旅館を出すのは魅力的な経営戦略に思えたのだ。
 数日、そんな事を考えていると、また光山から浜の家に呼び出された。前と寸分たがわぬ位置で褞袍姿の頭山が置物のように居眠りをしていた。光山も同じスーツしか持っていないのかと思うくらい、同じ色のスーツでネクタイももしかしたら先日と同じものだったようだ。そもそも、光山は何でこんなに何度も呼び出すのだろうか。京橋の土地の事なら、まだ正式な商談ではないのだから、光山自身が吾妻屋に立ち寄った時にでも話をすれば良いのだ。
「京橋の件はどうですか?」
「ああ、その事なら少し考えていたんですが、吾妻屋自体の改築費用などの事もあるので、今新たな投資をするのは、少しきついかなと思います。」
「そうですかねえ。一部、増築されてビルにされると聞きましたが...」
「そうですね、今の日本旅館の雰囲気は残しつつ、宿泊棟の一部をビルにするんです。ホテルですね。」
「そうでしたか...全面改築では無いんですね。僕はてっきり、日本旅館吾妻屋が無くなっちゃうのかと思って心配しましたよ。でもそれなら、資金もそれほどかからないのではありませんか?いや、資金が不足するとしても、僕が融通しますよ。京橋の土地はこれからどんどん値上がりしますから、担保として不足することは有りませんし。」
 晴雄は少し心動いた。根っからの商売人では無いとしても、東海道線の起点が東京駅になるという状況を考えれば、東京駅から近い京橋に新たなに支店を出すというのは理に適っている。
「うちのとも相談してみます。」
 晴雄がそう言うと、本当に嬉しそうな顔で手を握って来た。
「いやあ、ぜひぜひ頼みますよ。マサさんならこの話が悪い話じゃ無いってすぐにわかりますよ。」

 その翌日だった。朝、玄関前を従業員に掃除させている横で、家垣や塀の痛みを調べていた時だった。晴雄は路地から出てきた男達に囲まれ、男の一人が玄関前の従業員にウィンクのような真似をした後、路地の奥へと連れていかれた。どれも見た顔で杉村等と群れていた者達や、以前から吾妻屋で政治家等を脅迫したりしていた小林樟雄の仲間達だ。長く滞在する事が多い連中だったが、金払いも悪く、改築を機に追い出したようなものだった。
「おい、追い出しておいて、まだ空いている部屋があるじゃないか。」
 晴雄は出来るだけ冷静に対応しようと心構えをしていた。
「空いていると言われましても、長期で予約をされているお客様もいらっしゃいますし...」そう言いかけたところで、晴雄の腹に拳が入った。晴雄は蹲ったが、平日の朝とは言え、夜の街烏森の路地には人気がなく、しばらく誰からも気づかれなかった。
暫くして、玄関前を掃除していた従業員が晴雄に恐る恐る近づいてきた。まるで自分が予想していた以上の事態になったと慌てている風であった。

 翌日の昼下がり、まだ部屋に横たわっているものの、だいぶ良くなって起き上がれそうになった晴雄を気遣いながらも、吾妻屋の改築のための簡単な確認作業を晴雄に任せ、マサは浜の家に出向いた。そして、そのまま、まっすぐ頭山や内田がたむろしている部屋へ直行した。
「頭さん、一体全体うちやうちの人が何をしたって言うんですか。」
 いつものように居眠りしている頭山を叩き起こすようなマサの権幕に、傍にいた内田は少しばかり驚いた表情を見せた。頭山は全くたじろがず、マサに落ち着いて座るよう促した。マサは座ったままの頭山たちをしり目に権幕を続けた。
「しらばっくれないで。この前の米騒動の時だって、うちに火を放とうとしたのはおたくらの手下でしょ?もう二度とうちの人と吾妻屋にちょっかいを出さないで!」
「お吟さん、いや田島の奥さんや、まあ落ち着いたらどうだね。なんか勘違いしているようじゃが、わしらはなんも知らんぞ。内山よ、お前さん、何か知っちょるか?」
 内田は首を振りつつ、「吾妻屋に巣食っていて追い出された口と言えば、洲崎の堀井とかの仲間じゃないですかね?あいつらはわしらと違って本物のヤクザですからね。」としらばっくれたが、マサは内田が自分から追い出されたと言ったところを聞き逃さなかった。
「内田さんにしろ、洲崎の何とかいうのにしたって、この烏森で政治の看板掲げて暴れているのなんて、みんな頭さんの手下じゃないの?そうでしょ?」
 マサの言いがかりにも聞こえる言い方に頭山は一瞬、目を光らせたと思われたが、すぐに大声で笑いながら答えた。
「マサさん、そりゃあ酷いのう。確かにわしらの仲間はここには多い。だけどじゃな、全てわしが何かの命令を出しているわけじゃないとよ。むしろ、みんなわしのいう事なんか聞かんと、勝手なばかりやるので手を焼いているところじゃよ。」
「そう?そうかしら?」
 マサが頭山と内田に疑いの目を向けると、頭山はさらに笑った。
「まあ、マサさんの心配ももっともじゃ。烏森の宿の主がおちおち道も歩けんのじゃ、やっとられんだろう。のう、内田よ、洲崎の武部にも話して、堀井にもこの吾妻屋さんに手を出さんよう、頼むことは出来るもんかのう?」
「そりゃあ、頭山さんの名前が出れば、連中も大人しくはなるでしょうが...」
「ふん、そういうわけだ。一応、わしの方からも堀井には言っておくよって、納めてはくれんかのう?」
 マサがまだわだかまりを抱えて、内田等を睨みつけていたら、頭山が条件を出してきた。
「マサさん、その代わりと言ってはなんだが、わしらの仲間の大切な物を盗み出した奴がおってな。そいつを持った人間を田島君が匿っていたらしいんだが何か聞いとらんかね?」頭山は落ち着き払って、口元に皮肉な微笑みさえ浮かべていた。
「お妻さんの事ね。そうなんでしょ?お妻さんに言ってうちの人をたぶらかし、吾妻屋とうちの人を良いように利用しようとしたんでしょ。そうわさせないわ。」
「お吟さんよ、わしはお妻とはとっくの昔に切れとるぞ。もう何年も顔を見たこともないわ。今は、わしなんかの息が及んでおらん。そうさっきも名前が出た洲崎の武部のところにおる堀井という奴は情婦にしとるんじゃなかったかな、のう内田よ。」
「堀井ですね。」内田が相槌を打った。
「堀井は元々チンピラみたいな奴じゃったが、武部のところで何をやってるんだか知らんが、妙に羽振りが良くってな。わしらのところにもたまに顔を出しては、仕事を持ちかけてくる。うちはそれに付き合う事もあれば、突き放すこともある。我々とは特に深い関係はありゃせん。お妻はそいつとできちょると聞いて居るが、つまりお妻の事はそのくらい、我々からは遠い話じゃて、さすがに責任は持てんよ。」
「そう。」マサは踵を返すかのような表情をした。
「田島君にもよく言っといてくれんかのう。物は持ち主のところに返すように。誤解があったのなら話し合おうと。米騒動の時の事を警察に行ってわしらの事をあること無い事言わんでくれと。わしも暴力はいかんと内田にもよく言っているが、わしらの手の内に無い者達がいきり立ってお主の家に行って談判しようとしたようじゃの。その点はわしからも言って聞かせる。」
 頭山が言い終わると同時に、マサは袖から銃を取り出し、銃口を頭山に向けた。
「暴力って言うのは、こういう事かしら」
 内田やその取り巻きは後退りしながら、慌てて手を広げ、命乞いをした。
「やめろ、早まるな。銃をそこに置くんだ。」
 ただ、頭山だけは落ち着きを続けていた。
「はっはっは、お吟さん、わしは銃というのは全く怖くなくてな。国のためにやっとることで命を狙われて、それで殺されたとしても本望だと思うとるよ。国に報じて死ねば、わしはこの国の伝説に成れる。もっとも、元芸者で旅館の女将に殺されたとなったら、多少事情は違うな。痴情のもつれだと噂されようが。」
 マサが全く目をそらさずに銃口を向けたままだったので、内山たちはすっかり怖気づいていたが、頭山は頭を掻いた。
「負けたよ、お吟さん。今度の事はわしの命でしたことではなかったが、堀井とその取り巻き連中にはよく言い聞かせるとしよう。お前さんたちの商売を邪魔してはならんと。もう下種な形で吾妻屋をうろちょろはせんと。政治家との謀議に吾妻屋を利用しないと約束しよう。それから田島君にも一切手出しはさせん。これで良いかな?」
 マサは緊張した面持ちのまま、それでもやっと銃を降ろし、そして銃を無造作に畳の上に放り投げた。内田がそれを押さえ、取り巻きはマサを後ろから羽交い絞めにしたが、頭山が怒鳴りつけた。
「やめえ、見苦しか。今言う通りじゃ。今後、田島君とマサさん、吾妻屋には一切の手出しは無用じゃ。」
 マサは手下の手を振りほどくと、襟を直し、芸者のすり足のような優雅な足取りで部屋を後にしようとした。そこに頭山が声を掛けた。
「マサさんや、三浦までも追い出さんでくれよな。こやつらと違って三浦なら良いじゃろう。あいつも仕事で吾妻屋をちょくちょく来ておるし、吾妻屋を追い出されたら、古い人間なんで行くところがない。あいつはこやつらと違ごうて上品じゃからのう。」頭山はいつもの大笑いでマサを送り出した。マサは振り返らず、頭山の笑い声を背に浜の家を後にした。

 その後、行方不明だったお妻が死んだとの噂が烏森を駆け巡った。殺されたとも自殺したとも言われていたが、誰も真相を知らなかった。その話を聞いて、晴雄は胸が痛んだ。そして、その胸の痛みにもマサは何か感づいていた。

「光山さん、京橋の件ですが、先日、城川さんとゆっくり話をする機会がありまして、城川さんは元々銀行家でいらっしゃいますし、担保物件としても申し分無いと言うことで、日本橋の地元の銀行にかけあってくれまして、掛値は十割くらいでも良いそうなのですが、さすがにそれは、銀行内でも示しがつかないという事で、八割がげで融資をしてもらえることになりました。」
 晴雄は、光山が吾妻屋に寄った際に、早速光山に報告した。光山は一瞬、躊躇したような表情を見せたが、すぐに思い直って、いつものように調子良さげに話を返した。
「そりゃあ、良かったです。最近、景気も良くなってきていたので、先手を越されないかとひやひやしていました。でも、銀行と話をまとめてくるなんて、さすがは田島さんだ。京橋の方は、何階建てくらいにするのです?」
「そうですね、吾妻屋の本店と同じく、いや、より高級な旅館として考えていますので、銀行には四階建てのビルヂングを建てるということで言ってあります。」
「エクセレントです。いやあ、さすがは晴雄さんだ。決断が速い。良いご決断ですよ。」
 光山は上機嫌そうに帰って行った。

 一年後、京橋の吾妻屋支店の建設も順調に進み、あと数か月で開店できそうな状況になった頃、吾妻屋の玄関先で光山や杉村等と屯している、あまり上品ではない風体の男が晴雄を呼び出した。
「うちの人にどんなご用件ですか。」マサが不機嫌さを隠そうともせずに対応した。明らかに不快な顔を見せていたので、男ははぐらかそうとしていた。
「うちの人も貴方方に関わるような心算もないと思いますが。」
 男は少し、苛立ちを見せて言い放った。
「お主に無くても、田島君にはあるんだよ。」
 そう言ったところで、奥から晴雄が顔を出した。
「ちょうどいい、枡田屋まで来てくれないか。」
 浜の家は吾妻屋から目と鼻の先だったが、東海道線の延伸のため、閉店したのだった。マサは晴雄を不安そうに見送ったが、晴雄の方も、一体いつになったら、この連中と手が切れるものかと暗中模索の状態だった。それと、死んだという噂のお妻の事について、この連中は何か知っているはずだと思い、その事も聞かなくてはと思っていたのだ。
 
 枡田屋には、褞袍(どてら)姿でほろ酔い気分の杉村がいた。杉村は全く悪びれることなく、晴雄に笑顔で話しかけた。
「いや、お久しぶりです。吾妻屋さん。京橋の方ももうすぐですね。僕は吾妻屋さんに嫌われてしまったから行けないのが残念ですが...」
 晴雄は警戒心を怠らなかったが、杉村の次の言葉で打ちのめされた。
「あの、城川さんが吾妻屋さんに融通した銀行の金はね。あれは僕が墨田紡績の株で儲けた金なんですよ。それを銀行が最近始めたばかり信託という勘定から出したんです。つまり銀行が貸したのではなく、僕が貸したことになるのです。」
 晴雄は、一瞬何を言っているのかわからなかった。
「なんですって?銀行はそんな事は一言も言いませんでしたよ。何か勘違いしておられるのでは?信託がどうだって言うんです?僕は銀行からしか借りていませんよ。」
「ええ、表に出るのは銀行なんですが、信託貸付で銀行に金を出し、運用指示をしているのが私なんですよ。すみませんねえ、見たくもない顔だったかも知れませんのに、また絡むことになりまして。でも、これは純粋に商売の話ですから、悪く思わないでください。まあお互いそこは割り切りましょう。」
 晴雄は、久しぶりに恥辱を感じた。謀られたのだ。晴雄は旅館業を営んできて、ビジネスというものを十分知ったつもりだったが、城川の金の出所までは思いが至らなかったのだ。晴雄は恐怖を感じた。金を出した杉村は今後、どんな要求をしてくるのだろうか。杉村の後ろには間違いなく光山がいる。そしておそらく、頭山などの一派も絡んでいるはずだ。改築を機にそうした有象無象を追い出しにかかったはずが、また彼らの網にかかってしまったようだ。晴雄はすっかり力なく、その場にへたり込む様に腰を降ろした。
 杉村はそんな晴雄を横目に、勝ち誇ったような態度を隠そうともせず、話を続けた。
「あとですね、光山さんが今度、満州がらみの会社を興すって言うので、僕も出資したんですよ。何しろ、黒田紡績の株では莫大な金が入りましたからね。光山さんの会社に出資してもまだ資金に余裕もがあったんで、京橋に視点を出すという吾妻屋さんは、そりゃあ有望な融資先ですからね。そこで城川さんと通じて吾妻屋さんにお金を融通して差し上げたというわけで...」
 杉村は言い終わると晴雄の顔を覗き込むようにして反応を伺っていた。晴雄は杉村の方を向かずに体を小さく震わせていて、それを杉村に気付かれまいと必死だった。
「それで、城川さんは、満州にも興味を持っていて、商売として進出しようとしているのですよ。光山さんももうずっと以前から満州に進出したいという思いがありましてね。光山さんは僕と違って吾妻屋さんとも懇意にしているわけですし、良かったら僕等の事業に加わっていただければと思っていますよ。実際に、出資するかどうかはともかく、光山さんは吾妻屋さんの京橋の方をそのための事務所にしたいという意向がおありの様ですから。」
 晴雄は、話は一応聞いてはいたが、正直、これ以上関わりたいとも思わなかった。適当に頷きながら、場を後にしようと後ろを向いた時、晴雄の心配を見透かすように、杉村は背後から言葉を投げつけた。
「心配しないで大丈夫ですよ。城川君は僕と違ってもう政治とは距離を置いていますからね。」

「田島さん、すみません。杉村から聞いてらっしゃると思いますが、今度できる京橋の方の吾妻屋の一部屋を確保お願いできますか?ええ、事務所に。と言っても、僕の事務所というのではなく、城川君の事務所ですがね。彼は本格的に満州で商売をやろうとしていて、その準備と将来的には東京の連絡事務所としたいと考えているようで...ええ、僕も彼の事業に乗ることにして出資をするつもりですが、僕の事務所というわけではなく、城川君の事務所ということになります。」
 電光石火の如く、光山が吾妻屋に立ち寄り...ほんとに立ち寄りだったのかどうかはわからないが、ともかく京橋の吾妻屋の一室を押さえに来た。城川が事務所を開く...そしてその資金は杉村も出している、となれば、もはや断る理由も見つからなかった。
「いいでしょう。一部屋確保しておきますよ。」
 この事に晴雄は後に死ぬほど後悔することのなるのだったが...
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