第26話 明るみへ

文字数 7,134文字

「え、僕と吾妻屋の事を聞きたいって?こりゃまいったな。僕が色々取材して聞いて回っている時に逆に君に取材されるとは思わなかったよ。ご存知のように、僕のオフィスは横浜にあってね。まあ、僕等ガイジンにとっては横浜は暮らしやすいんだけど、そうは言っても、政治の中心は東京だし、経済だって大阪と東京が中心だ。何か政治的な事件が起きた時はもちろん、記事にできるような話を探すのだって、東京に出てこなくちゃできないからね。それで横浜から東京に出てくる度に利用していたのが吾妻屋だったんだ。日本に来た頃は東京の終着駅が新橋だったし、東京駅が出来て東海道線が伸びた後も結局、吾妻屋を良く利用していたんだ。理由の一つは、田島さん、ご主人の英語力の問題もあった。僕の日本語は、まあこれくらいは喋れるようになったけど、情報を丹念に探るにはまだまだだったからね。色々日本の事情を教えてもらったんだよ。あそこの中庭はほんと見事だよね。ほんと、和の「タタズマイ」って言うのかなあ、そういうテイストを堪能できる見事な旅館だよね。その上、近代的な西洋のホテルのような機能も備えていたので申し分無かったんだ。ただ...この優雅な旅館にどう考えても似つかわしくないような者達が我が物顔で出入りしていることが気になったよ。はっきり違和感を覚えていた。入れ墨をした肌を隠そうともせずに何事も無いような顔で吾妻屋に上がって来る者達がいたんだ。 その事をマサさんに聞いてみたんだ。『先ほどタトゥーを入れた男とすれ違いになりましたが、あれはどういう人達なんですか?』って。マサさんは『タトゥー?ああ、入れ墨の事かしら。今すれ違ったのは確か小泉又二郎さんね。議員ですわ。』って事も無げに答えたんで、僕は凄く驚いたんだ。後になって、マサさんもやっぱりそうした連中を苦々しく思っていたってことに気付いたけどね。まあともかく、そういう連中が幾人となく吾妻屋に出入りしていることに非常に興味をそそられたよ。君もドイツやスイスに留学していたくらいだから知っていると思うけど、欧州では、入れ墨は議員のように身分の高い人間は絶対にしないよ。船乗りとかにはたまにいるけど、どちらかと言えばアウトローのイメージだね。日本でも同じでしょ。日本では乱暴者や博打打ちを任侠とかヤクザとかって言うけど、入れ墨はそういう人たちがするものだよね。でも、マサさんから日本では昔から政治運動をする人たちに任侠の人たちが多かったというのを聞いたんだ。これは興味深かったよ。マサさんには非常に重要な事を教えてもらった気がする。日本の政治においてしばしば暴力が行使されて来たことは、日本の古い新聞などを読んで理解をしていた。でも僕の国でも昔は多少はあったし、どこの国でもそうだから、まあそういうもんだとも思ってたんだ。ところが日本では、ある程度、選挙制度も落ち着いてきて、曲がりなりにも議会というものがあるのに、そのような暴力が今も続いている。この事を分析しないと、日本から発信する記事が底の浅いものになる。僕はそう感じたね。まあ、それはともかく、マサさんも何とかそうした連中を宿から遠ざけたいと考えていたようだ。東海道線が東京駅まで延伸されるので新橋烏森が東京の起点ではなくなるということが悪い方に影響しないように、先手を打ちたかったんだろうね。これは後から知ったんだけど、晴雄さんは相当な嫌がらせを一部のやくざ連中から受けていたみたいだ。宿には政治家が集まるし、そこに情報が集中する。政治的陰謀も全て吾妻屋を押さえればやりたい放題だろうからね。そうした動きに反発する意味もあって、マサさんは吾妻屋を文化の宿として売り出していきたいという意向をもってたんだ。それで、その頃ちょくちょく吾妻屋に泊まっていた与謝野鉄幹にも相談というか、文人を集める方法を聞いていたらしい。与謝野は、閔妃暗殺事件の後、滝野と呼ばれる正妻を連れて泊まる事が多かったんだけど、すでに晶子との噂が色々巷を騒がせてもいたよ。与謝野はそんな醜聞もどこ吹く風で、吾妻屋では滝野と夫婦らくし過ごしていたけどね。与謝野は『今度、知人の文人にここに泊まりながら小説を書く事を勧めてみますよ。落ち着く宿ですし、物を書くにはうってつけだと思うんですがね。』なんて感じで安請け合いしていたらしい。だからマサさんは、与謝野の言葉にあまり期待はしていなかったと言ってたんだ。ところが予想に反して、多くの文士が足を運んでくれるようになった。この頃の日本では、出版が産業として大きく成りだしたので、文士は以前よりも羽振りが良かったらしい。まあ与謝野が本当に宣伝し回ったのかどうかはわからないんだけど、里見弴(とん)とか久保田万太郎や久米正雄(まさお)と言った文人達が吾妻屋に泊まるようになり、また彼らを訪ねて菊池寛だとか小山内薫とかも吾妻屋に出入りするようになったんだ。まあ、連中はその頃流行り始めた麻雀を宿で打ち始めて、ちょっとマサさんも困ったりもしてたけど、まあ洋風の、音漏れの少ない部屋もあったから、そっちに押し込められていたよ。はは...」

「その頃、烏森のすぐ近くにカフェー・プランタンが出来て文士たちはそこに集まるようになったんだ。そのまま花街で繰り出し、吾妻屋に泊まる者も多かったね。こうしてマサさんの思惑通り、烏森に文化の香りが運ばれてきたんだ。そのカフェー・プランタンに連れて行ってもらったんだよ、晴雄さんに。まあ僕からマサさんに一度行ってみたいと言ったら、晴雄さんが案内してくれてね。ほら、その頃ミスター高橋是清がホストする外国人記者との懇親会に僕も良く顔を出していたんだけど、情報交換の場としては良くてももっと、現場に足を運ばないとね、記者としては。で、日本の文化の事を記事にしようと思うなら、文学者だとか芸術家と直接会いたいじゃないか。それで、晴雄さんに案内してもらって繰り出したわけなんだ。吾妻屋のすぐ近くの汐留川にかかる、その名もまさに新橋のレンガ造りの橋を渡り、東京電車鉄道の路面電車を横目に道を歩くともうそこに山小屋風のカフェがあったんだ。ドアを開けると橋の下のような梁がアーチ状にせり出していた。その梁には文人達のものか、落書きが多く書き込まれていたのが面白かった。それがモダンという事らしい。いや、今笑ったけど、別に馬鹿にしているわけじゃないんだ。僕の考えるモダンとはだいぶ違うなあと思ってね。とにかくカフェの中は、期待通り、僕が行ったときにもそこでは文人と思われる風貌の者達が文学や演劇について議論していた。その頃の僕の日本語力ではわからないところも多かったけどね。その晴雄さんに連れて行ってもらった最初の日に、晴雄さんに耳打ちする男が居たんだ。『ああ、吾妻屋さん、以前はお世話になりました。最近、宿には泊まっていないですが、今書いている小説の仕上げで、今度、是非とも利用させてもらいますよ。』って。その時名前を聞いたんだが、記者としては面目ない話なんだが名前を忘れてしまったんだよ。有名な文人らしいんだけど、今となっては誰だかはわからないなあ。まあでも、晴雄さんはカフェー・プランタンでもちょっとした顔であり、文化人として認められた存在のようだった。確かに東京で一番の花街のど真ん中の高級旅館を営んでいる者は、そりゃあちょっとした尊敬を集める存在だったんだろうね。その最初の日に店で小山内薫に会ったんだが、グレーのスリーピースを着こなし、髪を撫でつけ口髭を蓄えていた風貌で、紹介されなくてもすぐにわかったよ。写真を見たことがあったしね。『横浜の通信社で記者をやっているヘンリー・ファーガソンと言います。日本の事を知りたくて、色々見て回っているのですが、先日、小山内さんのジョン・ガブリエル・ボルクマンが再演されていたので見ました。日本人がこれほどまでに西洋の文化を消化していることに驚いて大変感激しました。僕は演劇や文学にそれほど詳しい者ではないですが、これが素晴らしいものだということはわかります。』と言って、話しかけたら小山内は『本当かね?お世辞でもうれしいよ。逆にここが変だとか、何か印象の悪いところは無かったかな?』と聞き返されたよ。さらに『僕ら西洋の演劇を翻訳して日本でやっている者としては、例えば戯曲の言葉一つ一つについてどんなに調べても、今一つ背景がわからないところはどうしてもあるんだ。それでも、西洋と日本の普遍的なところを見出し、日本でそれを広める意味はあると思っているが、それが君らのような一般の西洋人の目にどのように映るのかというところは非常に興味があるんだよ。』とも言ってたね。パッションを感じたし、論理的、合理的思考の持ち主のようにも見えた。だから後日、僕はがっかりしたのを覚えている。まあそれはともかく、僕は『僕は日本に来て結構日にちが経ってますし、もはや一般の西洋人とは言えないですよ。』って、その時は適当な愛想を打ってお茶を濁したんだ。そんな話をしていた時だったなあ、僕と田島さんが座っていたテーブルのすぐ後ろから、光山が声をかけてきたんだ。まあ、あの店にはいかにも入り浸っていそうな奴で、僕はいけ好かない印象を持っていたんだけど、田島さんは愛想よく返事をしていたね。光山は、『吾妻屋さん、ちょうどよかったです。面白い企画があるんですよ。』って言うんだ。『実はね、もう晶子さんには話を付けているんだけど...』光山のその話がまさかあの与謝野晶子の事だなんて思いもよらなかったよ。『東京朝日が夏目漱石の連載の後に、何か新しい小説を連載したいという意欲を持っていて、それでね、鉄幹さんにも相談したんだけど、晶子さんが小説を書きたいという意欲があるということでね、それで書いてもらうんだけど、今や、一流の文人の仲間入りをした晶子さんの半生とか、みだれ髪で詠んだ女性の心情とかを物語にすれば、かなり売れると思うんだ。ねえ、吾妻屋さん、晶子さんに吾妻屋さんに泊ってもらって、吾妻屋の佇まいなどをさりげなく作品に忍ばせるんだ。高級旅館にさらに格調を与える、良い広告になると考えているんですよ。』そう光山がまくし立てていて、まあ若干のうさん臭さも感じたんだけど、田島さんにしてみれば、悪い話じゃ無いというのは僕にも理解できたし、実際、田島さんも乗り気になったみたいなんだ。それですぐに与謝野晶子のために、吾妻屋の一番良い部屋を用意したみたいなんだ。」

 結局、五月に与謝野晶子が東京朝日新聞に小説の連載を始めることが決まった。そのため、しばらく吾妻屋に泊まることとなった。しかし、彼女はなかなか筆を進めず、中庭など吾妻屋の中を眺めまわっていた。
 その後新聞に掲載された「明るみへ」と題された連載小説では、登場人物の名前は変えていたが、明らかに鉄幹と滝野が吾妻屋で一緒に暮らしていたことにも触れていた。

『「母様は着物があるかい。」
と透は云った。
「何故。」
と京子は怪訝な顔をした。
「何さ、吾妻屋あたりへあんまり妙な風をして行くと田村君が困るだろうから。」
「そんなに好い着物なんかありませんけれど。」

 京子は(ものう)いような声でこう云った。京子は今ふと透が自分も吾妻屋に居たことがあると一二年前に云ったことのあるのと、結婚した当座に透が或友達に、自分が田舎の女とその女の伴れて居る下女と三人で新橋の傍の宿屋に居た時には月々二百円程払ったと云って居たのと、二つの話を一所に思い出した。
 
 田舎の女と云うのは福岡の菊野のことである。京子は吾妻屋へ行って見たいような、行くのが厭なような気がするのである。』

 小説自体もそれなりに評判になり、その中で吾妻屋の名前を出してもらったおかげで、文士が執筆のために長期に滞在することも増えて行った。こうして文化の香が加わった吾妻屋は名実ともに、新橋界隈で二つとない高級旅館として地位を揺るぎないものにしたのだった。ヘンリーも、自分が泊っている宿に日本の偉大な歌人であり文人が泊って執筆していると聞いて興奮を覚えたのだった。

「吾妻屋はその頃、間違いなく烏森で最も輝いていた旅館だ。烏森で一番の旅館という事は、東京の中で最上位の旅館という事だと思う。でも大正時代には、新橋の空気は変わり始めていた。」

「その日は、晴雄さんは光山に連れ出されて銀座のカフェーまで出てきていた。僕もなんか面白い事があると聞いて取材のつもりでそこまで出てきて、二人の姿を見かけたんだ。カフェープランタンとは違って、僕の故郷のパブのような、木目調の店だった。二人に声を掛けようかとその店の前で躊躇していた時、芸者のように髪を高く結った、島田と言うのかな、そんな姿の美しい女性とすれ違った。美しいというか、もちろん白化粧のせいもあるけど、ひと際派手な顔立ちで、僕だって芸者には見慣れているけど、目を逸らすのが抗いがたい気持ちになったんだ。店の他の者もそうだったようで、僕も含めて男たちは若干、間抜けな顔をしてその女性の後ろ姿を目で追っていたんだけど、すると二人が手招きしてきたんだ。それで僕はそのカフェーの中に入った。『あの方は、藤間静枝という芸妓で、川上音二郎さんの一座にもいた、日舞のできる教養のある芸者ですよ。』って光山が説明してくれた。晴雄さんは『ええ、藤間さんの事は知ってますよ。うちにも何度か来たことがある。』って答えていた。そりゃあそうだよね。烏森の芸妓だけじゃなく、役者や文士はみんな田島さんのところの贔屓客だ。でも僕にはね、この榛(はしばみ)色の目には、新鮮この上無かったよ。『藤間さんのような方を見ることができて、今日は、僕、特別に運が良いんですかね?』って聞いたら、光山は答えたんだ。『今日は少しだけ運が良いかも知れませんね。でも、ここらに来ればだいたいいつもこんな感じです。カフェー・プランタンなども落ち着いて議論している時も有りますが、派手な人士も集まって来るんですよね。このあたりは東京の一等地ですしね。』って。そう、その時はそんな感じかと思ったんだけど、僕も迂闊だった。最初から仕掛けられていたんだ。その日は特別だったんだ。僕は光山と田島さんと少し話をして店を先に出ようかと出口の方へ歩きかけた時、光山が後ろから来て、引き留めたんだ。『そうだ、大事な事を忘れていました。ファーガソンさん、吾妻屋さんにもお見せしたいものがあります。こちらに来てください。』光山からそう言われて、何だかわからないまま、カフェーを出ると、さっきまで疎らだった人波が大きくなっていて、表通りに出てみると、見たことのないような人垣ができていた。それは奠都の時以来の人込みだったように思う。僕等はそれをかき分け、道路が見えるところまで出てみた。何が始まるのかと十分ほど待つと、烏森の方から車が走って来た。車には明らかに芸妓と見られる島田を結った女性が横に乗っていて、嬌声を上げていたよ。光山が『叶家(かのうや)の清香という芸妓ですよ。車は大日本自動車のものです。』って教えてくれた。車は何台も連なってもの凄い勢いで走り去ったかと思うと、またこちらに向かって大きな音でこちらに走って来た。それはまるで車の競走会のようだったよ。何度か通りを往復した後、車は須田町方面に走り去って行った。集まっていた群衆は、車よりも乗っていた芸妓の美しさを口々に話題にした。『田島さん、どうです?これこそが宣伝の持つ力ですよ。多くの人に商品の存在を知らしめるだけではなく、人々の気分ですら一瞬にして変えてしまう、そういう力があるんです、宣伝には。田島さんも吾妻屋の魅力をもっともっと伝えるとともに、吾妻屋が新橋一、東京一の宿であると徹底的に人々に浸透させていきましょう』光山がそう言っても、僕は鼻白む心持で、多分不快感が露骨に表情に表れていたと思うんだけど、田島さんも珍しく、居心地の悪そうな、怪訝な顔をしていたんだ。すると、光山は『なんだ、まだ疑っているんですか?宣伝の効果というものを。よろしい、それではさらに面白いものをお見せしましょう。』そう言って、まだ三々五々、通りの興奮を引きずるように居残っていた者達の方へ歩み寄り、初老の男に耳打ちしたんだ。その初老の男は、いや、中年くらいか、その中年の男は足を引き摺るようにして群衆の前の方に歩みだし、やおら歌い出したんだ。」

道は六百八十里
長門の浦を(ふなで)して
早や(ふた)とせを故郷(ふるさと)
山を遙かに眺れば
曇り勝なる旅の空
晴さにやならぬ日の本の
御国の為と思ひなば
露より(もろ)き人の身は
(ここ)が命の捨どころ
身には弾傷(たまきず)剣傷(つるぎきず)

「僕は、完全に呆れてその場を離れようとしたんだが、件の中年の男に続いて幾人もの若い男たちが大声で歌い出したんだ。」

負えどもつけぬ赤十字
猛き味方の勢いに
敵の運命きわまりて
脱ぎし(かぶと)(ほこ)の先
刺してぞ帰る勝ちいくさ
空の曇りも今日晴れて
一際高き富士の山
(みね)の白雪消ゆるとも
(いさお)を立てしますらおの
ほまれは長く尽きざらん

「そして次から次へと歌の輪が広がる様は異様だった。不気味だったね。でも光山は得意そうだった。民衆の意など思い通りに操れると言わんばかりだった。この時、僕はこの国は一線を越えてしまったのではないかと思ったよ。多くの日本研究家は日本が軍国化したのはもっと後だと言うかも知れない。五・一五事件とか二・二六事件とか、満州事変のあたりからとか、でも、そうじゃない。この国は、この頃からプロパガンダまみれになったんだ。吾妻屋は不幸にして巻き込まれてしまったんだ。」
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