第22話 帰ってきたお妻

文字数 8,470文字

「お妻さんという芸妓に会ったのはいつだったかなあ。確か、ポーツマスの後だったと思う。記憶が前後してるかも知れないが、だいたいその頃の事だ。初めて見たとき、心臓が止まるくらいにびっくりした。美しいのはもちろん、あの芸者の白粉があれほど見事に調和している人は見たこと無かった。もちろん、マサさんも美人だけど、僕はマサさんの芸者時代を知らないからね。でも、お妻の事は本当にわからない事が多いんだ。ただ頭山達とは切れたんだと思うよ。散々密偵をやらされて、もう価値が無いと思われたのか、捨てられたんだろうね。その代わりに、頭山達よりさらに質の悪い連中に集(たか)られ始めていたようだった。新橋烏森の横綱芸者と言えばお妻だった。政府高官などの座敷にも呼ばれるし、情報が全てお妻のところに集まるんだから、利用したという奴らは後を絶たなかったんだろうと思う。」
 ヘンリーは前から興味のあったお妻の事をただ何気なく山川に聞いた事があった。山川は、「君はお妻に会ったことはあるの?無いの?是非会ってみるべきなんだが、最近また雲隠れしちゃってるみたいなんだよなあ。噂では殺されたんじゃないかとも言われているけど、どうかな。お妻の親しかった人たちをあたってみようか。マサさんも昔は親しかったんだけどねえ。そうそう、晴雄さんもちょっと噂になったことがあるんだよ。まさかね。僕はあんまり真に受けていないよ。そうだな、当面お妻に会うのが無理だとして、お妻と親しかった芸妓に会ってみるかい?何人かいるんだけど、そうだな、富美珠がいいかな。本名は、ジェーン・小川・ヴォーンって言うらしいんだ。そうだよ、(あい)の子だよ。ちょっと話題になったから聞いたこと無いか?父親が英国の外交官か何からしいんだが、母親は横浜で芸者をやってたんだ。父親の方は家族から異人種との婚姻が認められなかったらしく、二人を日本に置いて帰国してしまったそうだ。英語もできるらしいよ。と言っても君は日本語が堪能だからどうでもいいか。そうだな、彼女はお妻とも親しかったら、ひょっとして今の居所を知っているかも知れない。」

「お妻?お妻姐さんの事が聞きたいって?もう足を洗って新橋にも顔を出さなくなった芸者の事を聞いてどうするってえの?そうよ、足を洗ったのよ。もっとも新橋に居られなくなったって方が正しいわね。え?居所?そんなもの知らないわよ。ぷいっと姿を消してそれっきりよ。あたしもお金貸してるのよ。端金(はしたがね)って額でも無かったんだけど、もうしょうがないわ、今更。あたしも江戸っ子、貸した金なんか気にしちゃないわよ。え?横浜?違うわ。おっかさんは横浜から新川に出てきていたのよ。あたしはそこの生まれ。まあ三大続いた江戸っ子ってわけじゃないけどね。で?あ、そうそう、お妻さんね。消える前のお妻姐さんはそりゃあ悩んでいたわ。烏森に吾妻屋って宿屋があるの知ってる?え、そこに泊まってるの?早く言いなさいよ、まったく。あそこのマサさんは、花柳界じゃあちょっとした顔だからね。お妻姐さんの事だってあたしより詳しいんじゃないかしら。でも、そうねえ、あの頃、あそこの旦那さんと色々あってね。いや違うのよ、それがそんな色っぽい話でもないのよ。でも、なんとなく気まずくなって、お妻の姐さんも吾妻屋には近づけなくなったんじゃないかな。どんなことかって?あそこの宿を乗っ取ろうとした人たちがいて、お妻姐さんはそんな人たちに利用されてたんだわ。あそこはいろんな政治家も集まるでしょ?だから、前からあそこの宿にへばりついて密偵をしていた人たちがいるのよ。え、心当たりがあるって?さすがは記者さんね。あそこの仲居なんか随分と連中に買収されていたようよ。でも、あそこのご主人やマサさんがそういう輩を追い出しにかかったのよ。そりゃあ、そうよね。お客さんの秘密が筒抜けになる宿なんて怖くて泊まれないわよね。で、何とかしてあそこの主人に言う事を聞かそうとしたり、買収しようとしたり。お妻姐さんも脅かされてたんだと思うわ。吾妻屋さんを追い出すために何でもしろって。え、姐さんが銃を持っていたですって?それは知らないわ。貴方そんな事どこで聞いたの?驚きよ...本当だとしたら...お妻姐さんはもうこの世に居ないかも知れないわ。そうよ、お妻姐さんが誰かを殺せるわけ無いもの。そんなものを渡されていたとしても、人に向けてなんてできないわよ。お妻姐さんは一本気な人だから、そんな曲がった、理屈に合わない事は絶対しないわ。だからこそ、今の話を聞いて、もうお妻姐さんがこの世に居ない気がしてきたわ。これ以上は、あたしも知らないし、誰か話を知っているかと言われても、あとはあの連中に直接聞くしかないわね。でも絶対に本当の事なんか言いやしないわ。あの連中は口では国粋だとかなんとか言っているけど、極めて金に汚い連中だからね。芸者に対する態度も酷いからみんな陰口を言ってるわよ。でも、最後はあの連中から本当の事を聞き出さないと何もわからないわね。記者さんならやってみたら?まあ、あんまり無責任な事は言うもんじゃないわね。それでは悪しからず...」

 お妻がどこかへ姿を消したという少し前、ヘンリーはお妻と会い、話を聞くことが出来ていた。その事は後になって少し後悔した。お妻から話を聞いた事がでは無い。聞けなかった事についてだった。
「あら何?外国の記者さん?日本文化の取材?もう、それだったら、吾妻屋のマサさんにお話しを聞いてくださいな。もう烏森の生き字引よ。あ、字引って、辞書って言うのかしら?ディクソン?ディクショナリ?もうやめてよ、舌噛みそうになるわ。」
 その日、お妻は饒舌だった。
「ええ、あらよしてよ。新橋一の芸者?もう若くてきれいな芸妓がいくらでもいて、あたしなんか年増扱いよ。そうねえ、でも元々は、芸妓っていうのは、仕込まれた芸でお客さんを楽しませて、お客さんも自ら唄なんかを披露したものよ。粋だったのね、遊び方が。」
「え?恋多き女だったって?いやだあ、誰がそんなこと吹き込んだの?ええ、そうねえ、色々浮名を流したし、若かったから勢いに任せて、あちらこちらの殿方とそりゃあ色々あったわよ。芸妓だからね。恋も商売のようなものよ。いやでも違うわ。勘違いなさらないで。芸妓は娼妓とは違うのよ。不見転(みずてん)芸者なんてのもいるけどあたし達は違うわよ。ただねえ、お酒があって、男と女がいて、そりゃあ色々あるのよ。そういうもんよ。」
「頭山さん?貴方そんなことまで知ってるの?そりゃあ当時新橋で知らない人はいなかったろうけどさ。その事はあんまり話したくないのよ。御免なさいね。」

 朝、朝食の後くらいの時間で、中庭に出るポーチのところをマサが掃いていると晴雄が宿の廊下を通りかかったので、聞いてみた。
「ねえ、お妻さんっていつ戻ってきたの?」
 マサのその声に嫉妬は滲んでいなかったが、晴雄は少し身構えた。
「お妻さん、戻って来たんなら久しぶりに会いたいわ。」
「ああ...」晴雄は話しづらいものを感じながらも答えた。「ポーツマスの騒ぎの少し前だったかな...」
 実際、晴雄がお妻に再開したのはその頃だったが、お妻が戻って来たのは、日露戦争がまだ続いていた明治三十七年(1904年)の夏の初め頃だった。でも、人々、昔のお妻を知る人たちの間では、お妻もそろそろ(とう)が立ってきたと陰口を叩かれていた。
「一旦は落籍されて、花柳界から足を洗ったはずなのにね。」
 マサは自分が花街から遠ざかっていることを自覚し、若干の寂寥感を感じていた。
「一部ではお妻がいつの間にやら新橋に戻って来たと話題となっていたらしいよ。僕も知らなかったんだけど。何でも、お妻は米倉一平に落籍されて妾となっていた後も、相変わらず歌舞伎役者と浮名を流し続けていて、とうとう自分から手切れを言い出し、芸妓として座敷に戻って来たということらしい。」
 マサは手を止めて、若干呆れ顔で晴雄を見た。
「晴雄さんから花街の醜聞を聞くとは思わなかったわ...」
 その声には、若干の皮肉と不信感が含まれている気がして、晴雄はその場を退散した。

 それは晴雄が花月での会合に出た時だった。新橋界隈の宿屋の会合だと聞いていたのに、なぜだか光山がいて席を仕切っていた。光山の横には、吾妻屋を出入り禁止になった杉村がいて、晴雄の顔を見ると、悪びれる様子もなく口元に微笑みを浮かべていた。
 光山が呼んだらしい芸妓の一人がやおら三味線を手にして、唄の準備をしていた。会合に違和感を感じていた晴雄は、適当なところで退散しようと考えながら、猪口に口を付けていた。
 その時、突然、廊下の方が騒がしくなった。そう思った瞬間に、宴席に絽透綾(ろすきや)姿も艶めかしい、ひと際目立つ芸妓が入って来た。お妻がその座に流れ込んできたのだ。晴雄は最初見た時にはわからなかったが、懐かしささえ感じる色香、さすがに寄る年波には勝てないものの、今でも新橋界隈で一番の売れっ子だった頃の面影を残した、年増の美人だった。
(お妻...か)
 晴雄はお妻の姿を見ると、すぐに昔の記憶を引き出し、記憶の中のお妻と目の前の芸妓を照合した。お妻はやはりお妻だ。その風格は以前と変わるところは無かった。そう思ったものの、すぐにお妻の様子が変であることに気付いた。以前から芸妓として客による酒の無理強いも軽くこなすほどの酒豪ぶりだったが、この時のお妻は悪酔いしているように見えた。早い時間に別の宴席があったのか、この席に上がる時にはすでに出来上がっていた感じだった。いや酔っているという以上に様子がおかしかった。
 光山がお妻に唄を歌ってくれと頼むと、お妻はその座に来ていた芸妓から、三味線をひったくる様にして奪うと、小唄を歌いだした。ただ、お妻は小唄を無難にこなしていたものの、唄にも以前のようなキレが無かった。晴雄には呂律が回っていないようにも感じられた。
 唄が終わると光山がお妻に酒を差し出した。お妻は一気に飲み干すと一段と陽気な大声を出した。晴雄はここまで酔いつぶれた女性にお目にかかったことは無かったが、光山は構わず、お妻にさらに酒を勧めていた。お妻は差し出された酒を猪口で受けながら晴雄の方を見た。
「旦那さん、全然飲んでらっしゃらないじゃない?もっと飲みましょうよ。」
 お妻がそう言って晴雄に酒を勧めたその横で光山が晴雄に徳利を差し出し、晴雄の手にある猪口に酒を注いだ。横で杉村にしなだれかかっていたお妻が反転して晴雄のところになだれ込んだ。
 晴雄の横で、お妻は今にも眠りこけそうに横たわっている。普段からお妻には、確かに何とも言えない色気がある。マサも花柳界に居た人間らしく、恰好や表情に隙が無いのだが、お妻はさらに高級芸者として完璧な、愛想は良いが、簡単には人を寄せ付けない、そんな笑顔を見せることができたのだ。その笑顔で何人もの男を狂わせてきたのだ。しかし、今ここにいるお妻は違う。隙だらけだ。絽透綾の下に見える襦袢が妙に艶めかしい。
 座の雰囲気がどこかしらけ気味だったのを察してか、芸妓が唄を再開した。

『逢い見ての
後の心にくらぶれば思いぞまさる昨日今日
いっそ他人であったならこんな苦労はあるまいに
焦がれ死ねとか出雲の神はほんに仇やら情けやら』

「この唄、好き...」
 眠たそうにしていたお妻が体を起こしボソッと呟いた。お妻は昔を懐かしむような微笑みを晴雄に見せた。晴雄は、お妻に誘い込まれているような気がした。
「あたしも花柳界にどっぷり浸かって、随分と浮名を流したり、あることない事噂されたり...正直、もうそういうの疲れたわ...」
 女性の機微に疎い晴雄でも唐突なお妻の、なんとは無い愚痴のような言葉にお妻の変化を感じ取った。昔に比べて、数段に表情が暗い。まるで十代の娘のような肌、白く皺のない肌なのに、全体から活力が感じられない。芸妓の重武装と、料亭の暗い行燈の中にいることを割り引いても、元気が無い。
 さっきから、杉村と光山は部屋の隅で話し込んでいる。たまに芸妓達を揶揄ったりしていたが、そもそも何のために来ているのかわからず、宿屋の主人達もやや白け気味で座を離れたりしていた。
 そこへ、一人の男が入って来た。スリーピースを着ていたが、ぎょろ目でずんぐりむっくりした体形に、すっかり日焼けした顔に口ひげを蓄えていた。一目で、政治関係の男だとわかった。
「おお、城川君か。遅かったじゃないか。まあまあ、こっちへ来て飲みたまえ。」
 城川と言う新しい男は、周りに会釈をすると、大声で笑いながら、どっしりと、そこにいる誰よりも偉そうに座った。
 光山が晴雄の方を向くと、中腰のままやってきて耳打ちした。
「こちらは、城川と言ってね。一時期、代議士もやってたんだけど、今は四国の方で軽便鉄道の事業をやったりしているんだ。今度そちらの事業は後身に任せて、また国政に出てくる腹積もりだ。まあ応援してやってくれ。城川は銀行家でもあってね、何かと手広く事業をやりたいそうで、東京に事務所を構えたいのだが、晴雄君の宿を貸してやってはくれないか?逆に、吾妻屋さんにもいろいろ資金の融通をしてくれるだろうから、仲良くしていて損は無いよ。」
 この銀行家には全く見えない男について、杉村と似たような奴だな、山林で木を切っている方が似合いそうだという印象を晴雄は抱いた。
「うちは旅館ですから、お泊りになりたいという事であれば、お日にちを言っていただければご用意しますよ。もちろん、長期も歓迎いたします。」
 商売上、そうは言ったものの、晴雄には一抹の不安もあった。代議士は、地位は申し分ないが、何分風体の良くない、任侠と変わらないガラの良くない連中が多いから、宿の評判にもかかわるのだ。マサもその辺のことはいつも気にしていたが、しかし、商売の事も考えなくてはならない。東京の拠点に吾妻屋を定宿にしてもらう事は、特に冬場など東京観光の減る季節などは貴重な存在なのだ。
 城川はとりあえず上機嫌で席に戻っていった。一見、質実剛健風でその実かなり調子の良い男の様だ。すぐ席で、半分酔いつぶれているようなお妻を呼んで抱き寄せるようにして、さらに酒を飲ませていた。
すかさず、杉村が晴雄に耳打ちした。
「お妻の崩れようったらないですね。どうです、今晩当たり?田島さんは真面目過ぎるところがありますよ。今夜あたりは羽目を外して、お妻と遊んで来たらどうです?」
 以前の経緯から杉村には嫌悪感しか無かった晴雄は、それとすぐにわかるお愛想笑いで杉村に返した。これ以上杉村と話をしたくは無い、というのを表情でも表していたが、杉村は意に介する様子は無かった。お妻には、確かに何とも言えない色気がある。マサも花柳界に居た人間らしく、恰好や表情に隙が無いのだが、お妻はさらに高級芸者として完璧な、愛想は良いが、簡単には人を寄せ付けない、そんな笑顔を見せることができたのだ。その笑顔で何人もの男を狂わせてきた。しかし、今ここにいるお妻は違う。隙だらけだ。絽透綾の下に見える襦袢が妙に艶めかしい。
 晴雄があからさまに嫌悪感を示しているにもかかわらず、杉村は盛んに晴雄に酒を勧めてきた。仕方が無いので猪口に注がれた酒を少しづつ飲んでいた。
「ほら、見てください。」
 杉村がそう言うとお妻の方を指した。お妻は、もう裾から足も露わになり、とても見ていられない程酔い乱れていたようだった。
「それじゃあ、後はうまくやってください。」
「おいおい...」
晴雄が止めるのも聞かず、杉村は光山と城川を連れて勝手に帰って行ってしまった。
 それを見てお妻がふらふらと晴雄の方に歩み寄って来た。
「あれ...も...ああ...帰っ...帰ったの?」
 お妻がそのように言ったように晴雄には聞こえた。
(おかしい、さっきより一層呂律が回らなくなっているじゃないか。)
 お妻は晴雄にしなだれかかって手を首に回してきた。あるいは、恋多き芸妓、お妻にしてみれば、これはなんて事の無い、いつもの事なのかも知れない。それでも、このような状況に出くわした経験が晴雄には決定的に足りなかった。晴雄が逡巡していると、お妻はいつの間にか晴雄の胸の中で眠りこけていた。晴雄は少しほっとした。
(これは杉村の罠だったのか...それにしてもお妻の様子が尋常では無い。酒だけではないのではないか。何か一服盛られたのではないか。)
 お妻をこのような状態にさせた上で、晴雄を誘惑させ、杉村は、それを種に晴雄の弱みを握った上で、吾妻屋での活動を再開させることなど、晴雄を強請ろうとしているのだろう。魂胆はみえみえだった。おそらくお妻に酒だけではなく、なんかの薬を飲ませたに違いない。杉村はおそらく、今のお妻の精神状態も知っていて利用しようとしたのだろう。
 晴雄も明治の男、甲斐性というものを考えないわけでは無い。しかし晴雄は自分が不器用だという事を自覚していたし、甲斐性はもっと別の形で示せるだろう、そう考えてお妻を起こした。しかし、お妻は眠い目をこするだけで晴雄の側を離れようとはしなかった。
 あまりに長く、劫罰(ごうばつ)のように感じられ始めた時、お妻は体を起こし、何事も無かったように向き直って、晴雄にお酌をした。その日は、その後御互いに何も言葉を発しないままお開きとなった。

 その夜から一週間ほどたってから時、晴雄はお妻に烏森の駅のカフェーに呼び出された。マサにわからないように仲居に言伝を頼んだのだ。マサが焼き餅を焼くような女房では無いことはわかっていても、あまり居心地は良くなかった。何しろ、仲居へ言伝というのがかえってあらぬ噂と成りかねないし、場所も吾妻屋から近く近所の目が届く範囲だ。しかし、お妻に何か相談事でもあるかのような様子だったので、晴雄はカフェーに出てきた。しかし、お妻は呼び出しておいた癖に、ひたすら眠たそうな顔をしてコーヒーをすすりながら取り留めもない話に終止していた。
「うちのも会いたいだろうから、吾妻屋にも顔を出してよ。」晴雄は、何かきっかけを掴もうと話の方向を変えてみた。
「ええ...近いうちに...お、お邪魔...お邪魔することに...するわ。」
 お妻の喋り方は、はっきり言って病人の様であり、虚ろだった。しかし、目は不思議と多幸感に溢れていて、それは不自然に満ち足りた顔であった。
 しかし、近いうちにお邪魔する...以前ならお妻がそう言えば本当に来ただろうが、今のお妻の言葉にはどこか現実味が無く、お愛想というのでもない、ただの真実味の無い言葉が上辺を滑っていただけだった。
(あの夜と同じ様に、薬を盛られているのかも知れないな...)

 そんなお妻との密会が何回かあった後、あのポーツマスの夜を迎えた。あの夜のマサの怪訝そうな顔を思い出して、先に言っておくべきだったと後悔した。
 マサはと言うと、あの夜以来、晴雄がしばしば、昼の時間帯に何も言わずに出掛けて行くことに若干の不安を感じた。女の感なのかも知れない。晴雄が新橋や烏森の旦那衆と夜出掛けて行くのであれば何とも思わない。今や高級旅館の主である晴雄には、むしろ待合あたりで羽目を外すくらいでちょうど良いのではないかと思っていた。高級旅館吾妻屋の主人が芸者遊びをしたとしても不思議はないし、マサ自身が花柳界の出なので、そんな事で焼きもちを焼くようなことは無い。しかし、一方でマサは晴雄の不器用さを誰よりも知っていたのだ。
「最近、お昼頃には良く外にいらしていますが、どこに行ってらっしゃるの?」
 マサがそう晴雄に尋ねた時には、実はすでにマサに耳に、晴雄がカフェーでお妻と居たという報告が入っていたのだ。
 晴雄は返答に困った。一其の事、女遊びを詰られた方が余程言い訳のしようがあるというものなのだ。
「あたしも花柳界に居た人間ですから、今さら自分の旦那が待合や料亭に入り浸って芸妓とお遊びしたとしても、ヤキモチ焼いたりはしませんよ。でも、ここのところ黙っていなくなってしまうものですから...」
「そんなんじゃないんだよ。」
 晴雄は、勝手口に光山が宣伝になるからと作って置いて行った、吾妻屋の屋号の入ったマッチ箱の試作品が一杯に入った行李(こうり)を執務室の方に運び入れて、マッチ箱を取り出してマサに見せた。
「ほら、この字は良く書けているね。吾妻屋の雰囲気が出ている。」
 晴雄は自分でも白々しいと思ったが、案の定、マサはちょっとだけ拗ねた。
「もう、ちゃんと答えてください。」
「ふむ、まあ。」
 その言葉で、マサは勘繰りを深くしたのだった。ちょうどその時、仲居の一人が執務室の外からマサを呼んだ。
 お妻が玄関に現れたのだ。玄関に出た晴雄はお妻と目があったが、すぐに逸らした。お妻も意識して、晴雄の方を見ないようにしていた。お妻は微妙な空気感の中、マサに話しかけた。
「お吟姐さん、話があるの。」
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